第4話 小鳥のさえずり

 本宮勝己はラブレターを書いてみようと、アパートの一室で二時間ほど言葉を書き連ねていたが、ため息をついて椅子からゆっくり立ち上がった。


 そのあと、キッチンの換気扇の下で深夜、煙草をふかしていた。


 いわゆる文豪と呼ばれる作家たちのラブレターを参考にして、レポート用紙にラブレターの下書きを書いてみた。


 勝己は、自分の気持ちを書き出しながら照れてしまい、花をむしりとって草やつたばかりになったような言葉が並んでしまい、困り果てているようだ。


 本宮勝己はラブレターを生まれて初めて書いてみることで、彼なりにわかったことがあった。


 言葉は便利そうでいて、本当はかなり伝わりにくいものということを。


 ラブレター、いや、表現には、二つの顔がある。

 奇抜さと新鮮さの顔である。

 

 奇抜さで、興味を持って相手から、ラブレターを読んでもらいたい。しかし、言葉の組み合わせしだいでは、相手に気持ち悪く思われかねない。

 そんな奇抜さ狙いではなく、たわいのない話をしたり、笑いあっていることに、とても感謝している気持ちを伝えたい。

 ちょっとした新鮮さのある表現で書きたいだけなのに、勝己はうまく書けない。


 彼は深夜にひとりの部屋で、煙草の煙がたなびくのを見ながら、ラブレターを書くむずかしさにため息をついた。


 そのラブレター執筆の苦悩は、早朝、小鳥のさえずりが聞こえてくるまで続いた。


 煙草を吸いすぎて、喉がかなりいがらっぽくなっていた。


##############


 人間の脳には左半球と右半球があり、左半球は理論を、右半球は感覚を司っているといわれる。


 言葉の役割にも理論と感覚の二つの役割があるのかもしれない。


 左半球、つまり理論的な言葉の役割は示し説明する。

 ひとつひとつの言葉の意味は他の言葉と論理的に結ばれることで、まとまった内容を表す文章となる。

 文章がさらに集まれば、それぞれの書き手の意見や思想なども伝えることができる。

 また、先人たちの文章と比較することをしてみれば過去の時代の風潮なども伝えることもできる。


 それに対して、言葉の右半球は言葉からいきいきとした世界を読む人に想像させる。

 恋人の名前からその人の表情や声色、さらに自分と過ごした日々の記憶まで思い返すこともある。

花の名前から花の色や香り、咲いている場所まで想像力によって思い浮かべることもある。


 わたしたちは言葉を使って話したり書いたりしている。

 そのとき、自分の考えを相手に伝え、相手の考えを知ろうとするわけだから、理論的に処理できる言葉の役割にかなり頼っていることになる。


 もしも、使われている言葉の意味が通じなくなれば、社会は混乱に陥るだけでなく存続できなくなるのは、バベルの塔の話を持ち出すまでもない。


 言葉の感性の部分は必ずしも社会生活で必要とはいえない。

 不用意に持ち込めばコミュニケーションに混乱をもたらす。

 会話は雰囲気のために行われ、文章は小鳥のさえずりのように通じなくなる。

 言葉の感性の部分は、論理以外のものをたくさん抱えこんでいるもの。

 これが情報伝達にとってじゃまになると、経済、司法、報道などは、いかに言葉の感性の部分を抑えるかによって論理的な文章であるかのように組み立てられる。

 これが散文といえる。


 この散文とは反対に、言葉の感性を引き立てる必要があるのが、俳句や短歌をふくめた韻文と呼ばれるもの。同じ言葉のリフレインや脚韻を繰り返しということだけを考えていると、奇抜さは生まれるかもしれないが大切なことを伝えそびれることもある。


 韻文には言葉の論理性を超越したり、しばしば無視して、ときには蹂躙じゅうりんすることで生まれてくる。

 俳句は韻文のなかでも、その短さから極端な韻文であり、言葉の論理性は最低限に抑えて、そのかわりに言葉の感性を最大限に生かそうとする。

 そのために俳句には切れという間がある。切れによって散文の文脈を切り離す。

 生活している家庭や職場などの社会は理屈で折り合いをつけているから、誰でもふだんは理屈のなかにつかって暮らしている。


 理屈ではない別の感性の世界があることを忘れてしまい、考えてもみない。


 詩を書いてみようとしたり、愛の告白を口にするか、ラブレターを書こうとするとき、困惑するのはこの日常的な理屈から言葉の使い方が抜け出せないからである。


 また、すばらしく論理的な説明を得意とする人が、短歌や俳句を詠むとなると、説明するための文字数が足りないと感じるだろう。


 ある茶人の話をしてみる。

 千利休は、自分の屋敷に、それは見事な朝顔の花を咲かせたという噂が流れた。

 噂を伝え聞いた太閤豊臣秀吉は朝顔見物がてら利休の屋敷で茶の湯の会を開かせることにした。


 さて当日の、秀吉は早起きして利休の屋敷を訪ねた。

 庭を見渡しても朝顔の花が咲いていない。

 たしかに、露地の柵や 垣根に朝顔のつたはからまっているし、葉っぱが青々と繁っている。

 どうやら誰かが花を全部むしり取ってしまったらしい。


 せっかく天下人たるこの秀吉がわざわざ早起きしてまで来てやったのに、朝顔の花を全部むしり取るとは何たる無礼と思ったのか、    憮然とした表情で茶室に入った。


 風炉をはさんで主の席では利休が一礼して手前を始める。

 茶釜は湯をたぎらせて、音を立て始める。

 ふと秀吉が右手の床の間を見ると茶室に入ったばかりでは暗がりに目が慣れておらず、床の間の土壁に掛けられた竹の花入にようやく気づいた。

 竹の花入の口から、ひとすじのつたが下がり、その中ほどには、今朝開いたばかりの藍色の朝顔が一輪、浮かびあがっている。

 秀吉には、朝顔が美しく咲いているように見えたか。


 利休は一輪の朝顔を生かすために庭の他の朝顔をすべてむしり取って、客へのもてなしとした。


 

 「春惜しむ」「秋惜しむ」

という季語という言葉が俳句では使われる。

 「夏惜しむ」「冬惜しむ」という季語もありそうだがない。


 惜しむというのは移ろいゆくものを愛しむこと。

 昔は過ごしやすい春や秋は惜しんだが、暑い夏や寒い冬は惜しまなかった。

 この移ろいゆくものへの愛情は、あらゆる季語に水のようにゆきわたっている。

 花はやがて散りゆく、月はやがて欠けてゆく。けれど、惜しむ。

露といえば、やがて消えてゆくからこそ惜しむ。

 時とともに移ろいゆくものを惜しむ言葉は歳時記にたくさん集められている。


 惜しむとは、花や月や露にしてもまた人であっても、いつかやがて消えてしまうと知りながら、それでも愛する気持ちである。


 俳句だけではなく、和歌や物語、美術や演劇なども、同じ素材をベースに繰り返して表現され続けてきた。

 同じ素材をいかに新鮮に表現するかに心を砕いてきた。

 表現したいものは何百年も前から同じでも、技法や考えかたのちがいで表現は新鮮さが生まれる。


 季語は昔からあるものばかり。それを使ってどう詠むか。

 奇抜な新しさがあってもいい。

 読まれても忘れられるのは、詩もラブレターも残念といわざるえない。だが、先人たちの関心事は奇抜な新しさよりも、新鮮さのほうにあった。


 何百年も詠み継がれてきた俳句では、もう先人たちによってすべてが詠み尽くされているように感じることもあるだろう。


 ありふれた言葉、ふだん使っている言葉にどれだけの思いが感性としてのせられているか。


 その新鮮さを、先人たちは求めてきた。






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