水の入った桶を両手に持ち、鈴音は足早に廊下を進んでいた。

 たどり着いたのは小景の部屋だ。開け放たれた木戸をくぐって中に入ると、先に来ていた志穂と妙がそろって振り返った。

 床に敷かれている寝具には、頭に包帯を巻いた小景が横たわっている。鈴音は足音を立てないように歩み寄って、その場に膝をついた。

「妙さん、小景の様子はどう? 変わったことはない?」

「うん。熱もずいぶん下がったし、息苦しそうにもしていないよ」

 ほっと息をついてから、水に浸していた布を取り出して強く絞る。それから目を覚まさない小景に向き直り、優しく彼女の頬を拭った。

 背後から頭を殴られたらしい。数日経っても意識の戻らない小景を、鈴音はほとんど付きっきりで看病していた。犯人はまだ捕まらないが、内部の人間の仕業なのは間違いないだろうと、他の者が話しているのを聞いた。

 光繁の怪我に続いて、事読みも倒れた。さらには内通の者の正体すらわからない。館にいる誰もが警戒し、常にぴりぴりと張り詰めた雰囲気が漂っている。

「可哀想に。大人の思惑に次々と巻き込まれて」

 力ない声でつぶやいた志穂の言葉に、鈴音は胸を痛めた。

 小景への襲撃を合図にしたかのように、湯白が大きな動きを見せ始めたという。国境に陣を張り、睨みを効かせているのだそうだ。

 緋浦側も迫る戦のために準備を始めている。部屋の外では慌ただしい足音が絶え間なく聞こえていた。今日の夕刻には館を出るらしい。噂によると湯白の国長も戦に出てきているそうで、怪我をしている光繁も兵を引き連れて国境へ向かうとのことだった。

 いつもの鈴音ならば、ともに連れていって欲しいと頼むところだ。しかし、今回ばかりは行きたいと口に出したりはしなかった。それよりも、少しでも長く小景のそばにいてあげたかった。

 妙の腕に抱かれて眠っていた喜与丸が、そのとき大きく身じろぎをした。鈴音はかすかに微笑んでから、志穂のほうへ目を向ける。

「どうぞお部屋で寝かせてあげてください。小景のことはわたしが見ていますから」

 うなずいた志穂が、気遣わしげに鈴音を見返した。

「そうね。そうさせてもらおうかしら。鈴音もあまり根を詰め過ぎないようにね」

 ふたりが退出し、日が傾いて、外の騒がしさもいつの間にか薄れて消えた。皆はもう戦の場に向かった頃だろうか。

 鈴音はたびたび小景の顔を拭ったり、ばんやりと寝顔を見つめていたりしていたが、やがてうとうとと眠気に飲まれてしまった。

 かすかな物音を聞いた気がして、はたと目覚める。

 辺りはすでに暗い。燭台の火が淡く部屋を照らす中、鈴音は音の正体が気になって、そっと立ち上がり廊下を覗き込んでみた。だが何も変わったことはない。ただ薄青い闇が広がっているばかりだ。

(気のせい、かしら……)

 きびすを返したその瞬間だった。廊下を駆ける足音がしたかと思うと、何者かの影が勢いよく部屋に入ってきた。とっさに身をよじった鈴音のすぐ目の前に、鈍く輝く刃物が突き出される。

 足がもつれてしまい、鈴音はその場で尻もちをついた。灯火を反射してぎらりと光る刃を見て、全身に震えが走る。

 声も出なかった。このまま刺されて死ぬのかもしれない。人影が小刀を振り上げ、鈴音はとっさに目をつむった。

 しかし、痛みを覚悟する必要はなかった。途端に複数の人間が部屋に押し寄せてきて、刃を持った者を一斉に組み伏したのである。

 何人かは手燭を持っていたため、状況はすぐに把握できた。犯人を取り押さえているのは、夕刻に出立したはずの武者たちだった。光繁と閃の姿もそこにある。

「え……? ど、どうして?」

 呆気に取られている鈴音を、光繁が一瞥した。

「巻き込んですまない。必ずもう一度、仕留めに来ると思ってな」

 言葉を交わしているあいだに閃が進み出て、乱暴に犯人の顔を上に向かせる。鈴音は信じられない思いで目を見張った。よく知った、そしてまったく予想していなかった人物だったからだ。

「六次さん……」

 つぶやく鈴音の声に被せて、光繁が唸るような口調で言う。

「残念だ。おまえのことは、父上の代から信頼していたのだが」

 ただの下働きであったはずの六次は、武者たちに取り押さえられた格好のまま、いつもの通りおどおどしながら声を出した。

「ええと、すみません。その、わしも緋浦で草むしりをしているほうが、気が楽でよかったんですがね。本当の主さまから命令されてしまいまして、仕方なく」

 本当の主、という言葉に光繁の眉が険しくなる。

「いつから湯白と通じていた」

「始めからですよう。といっても、内状を知らせる短い文を、たまに出していただけなんですが。いきなりこんな大それた役目を任されて、もう参っちまいました」

 鈴音は床にへたり込んだまま、唖然としてその言い分を聞いていた。へらりと笑う六次に反省の色はまったく見られない。彼にとっては、言われたからただやっただけ。悪いとすら思っていないのだろう。

 光繁はしばらく目を閉じてから、きっぱりと告げた。

「……牢に入れておけ」

 武者たちによって荒々しく連れていかれるあいだにも、六次は引きつるように笑い続けていた。


       *


 光繁たちは今度こそ国境へ向けて出立した。六次については戦から戻り次第、沙汰を下すという。

 慌ただしい夜が終わり、明るい朝日が部屋に差し込んだ。鈴音はほとんど眠れなかった目をこすりながら、小景の顔を覗き込む。このときばかりは寝ていてくれていてよかったと、心から思った。もう一度恐ろしい目に合わせなくて済んだのだから。

 鈴音はそっと手を伸ばし、小景の頬に指先で触れる。そのときだ。彼女の身体がわずかに動いたことに気づいて、覆い被さるように身を乗り出した。

「小景!」

「……鈴姉。また心配かけちゃった。ごめんね」

 弱々しく笑う小景に向かって、鈴音は勢いよくかぶりを振る。

「そんなこと! ああ、動いちゃ駄目、横になったままでいいから。すぐに妙さんを呼んでくるからね」

 腰を浮かせた鈴音の衣を、小景が掴んだ。動きを止めた鈴音に、彼女はか細い声で訴える。

「妙さんの前に、光繁さまを呼んできて。伝えたいことがあるの」

「光繁さまは……もう館にはおられないのよ。夜明け前に戦に出ていってしまって」

 答えを聞いた小景がはっと息を飲んだ。そのまま無理にでも起き上がろうとする様子を見て、鈴音は慌てて声をかける。

「駄目だったら。まだゆっくりしていないと」

「それ、湯白との戦? そっか、とうとう動き始めたんだ。……鈴姉、お願い。わたしを〈常凪の鏡〉のところまで連れていって」

 驚いた鈴音の衣を握り締めたまま、小景は必死に言葉を続けた。

「緋浦の国の事読みとして、出来る限りのことをやりたいの。お願い」

 見つめる青い瞳は真剣そのものだ。しばらく躊躇っていた鈴音だったが、ついにはその想いに負けてひとつ頷いた。

「わかったわ。でも疲れたら遠慮なく言うこと。いい?」

 ふらつく小景を支えながら歩いていくのは簡単ではない。〈鏡〉の置かれている場所にたどり着くまでに、かなりの時間をかけてしまった。

 たどり着いたのは、倉のような見た目をした高さのある建物だ。小景は手にしていた鍵を使い、慣れた手つきで錠を外す。

 鈴音を連れたまま中に入ろうとする様子に、思わず狼狽えた声が出た。

「ちょっと待って、わたしは事読みじゃないから……」

「大丈夫。ただのしきたりだもん。それで龍神さまがお怒りになるわけじゃないよ」

 なんでもないことのように言われて拍子抜けする。そういうものだろうか。鈴音は小景に肩を貸しながら、おっかなびっくり建物の中へ足を踏み入れた。

 内部はがらんとしていて、空気が少し冷えていた。天窓から差し込んだ淡い朝日が、宙を舞う細かな塵を粉雪のように照らしている。

 奥には祭壇があり、その上には平らな盆がひとつ置かれている。素朴な見た目にもかかわらず、目を奪われるほどの存在感があった。

 鈴音は小景の促すままに歩みを進め、やがて祭壇の前で足を止めた。

 盆には薄く水が張られていたが、ふたりが近づいてもまったく水面を揺らさなかった。鈴音から離れて膝をついた小景が、青い顔をしながらもくすりと笑う。

「鈴姉に見せるのは初めてだね。なんだか緊張しちゃうな」

 そう言って〈常凪の鏡〉に向き直り、目を閉じて呼吸を整え始めた。その様子を、鈴音は黙って見守ることしかできない。今ここで、〈御伺い〉が始まるのだ。

 ふいに小景の胸もとが輝き始めた。光を放っているのは、首飾りについた透明の玉。母親の形見と聞いていたが、〈御伺い〉に使う道具のひとつであったらしい。

 すぐに盆の中の水が細かく振え始めたのを見て、思わず顔を近づける。何もなかった水中には、いつの間にかふたつの影が現れていた。赤い魚と、白い魚だ。悠々と尾を振りながら、大きく円を描いて泳いでいる。

 しばらくすると水面が白く輝き出して、あっと想った瞬間に光が消えた。それを最後に、水盆はもうぴくりとも動かない。

「今の、どういう意味……?」

 曖昧な結果が出るのは知っていたけれど、ここまでだとは。鈴音の問いかけに、小景は横に首を振るだけだ。

「わからない。だけど、たぶん今起こっている戦に関係あることだと思う。早くこの結果を、光繁さまに伝えないと――」

 最後まで言い切らないうちに、小景の身体がぐらりと傾いだ。鈴音はとっさに手を伸ばして、倒れかけた身体をどうにか支える。

 鈴音の腕に抱かれながら、小景は真っ青な顔でうわごとのように繰り返した。

「まだ、倒れちゃ駄目。声を、早く声を届けなきゃ……」

 水から水へ言葉を届けるのも事読みの力だと、聞いたことはあった。けれど、今の小景にそんな力は残っていないだろう。それでも必死に勤めをまっとうしようとする姿を目の当たりにして、鈴音は心を決めた。

「わたしがいく」

「駄目だよ、鈴姉。やめて」

 懇願する小景を安心させるために、明るい声を出す。

「もちろんひとりではいかないわ。護衛として残ってくれている人に事情を話して、一緒に来てもらうつもり。大丈夫、絶対光繁さまのところまでたどり着いてみせるから」

「鈴姉……」

 小景は何かを言いたそうに口を動かしていたが、結局泣きそうな顔のまま黙り込んだ。他に方法がないのだと、頭のうちでは理解しているのだろう。それでも引き留めてくれたことが嬉しくて、鈴音は微笑む。

「戻ろう、小景。時間がない」

 つらそうにうなずいた小景の身体に手を回し、鈴音はゆっくりと建物をあとにした。

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