09.振り返れば、彼女がいる。
部の現状を訊いてみると、嶋崎先生による被害が毎日のように生じているらしい。自分が作詞した曲を歌わせようとしたり、女子への指導時――そもそもろくなアドバイスができないらしいが――にやたらと肉薄してくることもあるという。
と、ここまでは上機嫌なときであり、虫の居所が悪いと指導内容が二転三転し、反抗的な男子を個室に呼び出して叱責することもあるという。それも録音されないようスマホを奪ってからという徹底ぶりで。
「そんなのすぐに報告すべきですよ!」
『誰に報告するの? アイツは職員室じゃ猫をかぶっているし、私たちみたいな前科持ちを信じる先生なんていないわよ』
前科というのは建学祭でのトラブルのことだ。あのときに部員(桑原)が謹慎処分をくらわせてしまったのが響いているらしい。
ちなみに桑原は、嶋崎先生にいつも下手にでているという。彼が部員たちを守ってくれれば泉さんの負担だって減らせるのに、どうやら僕みたいな弱そうな人間にしか大きな態度をとらないようだ。
「でも、泉さんたちは強豪部ですよ。必死に伝えればわかってくれる先生もいると思います」
『そのことについても嶋崎に利用されているのよ』
「どういうことですか?」
全国ライブで優秀賞をもらったときのカヴァー曲が嶋崎先生の知ってる曲であり、代理顧問になる前に指導をしたのだと吹聴されてしまったのだという。
「本当に指導されたんですか?」
『廊下で立ち話したときに曲名を教えただけよ。あんな猿がそんなことできるわけないでしょ』
だが他の先生は信じており、厳しい指導があってこそ実力が身につくのだと同調する空気すらあるらしい。他にも本来の顧問よりも積極的に練習に立ち合う姿勢も評価されているという。
『たしかに今までは顧問が不在だったから図に乗っていた部分もあるわ。こうなったのも自業自得なのかもしれない』
「でも……!」
『安心して。元の顧問も奥さんが落ち着いたら戻ってくるし、アイツがいるのもせいぜい一、二週間。それまで私が耐えきれば済む話なのよ』
「耐えるって、このままじゃ泉さんが壊れてしまいますよ?」
僕は真剣にそう思っているのだけど「大袈裟ね」とまたしても鼻で笑われてしまう。僕は少しむっとするも怒りを抑えた。
「本当は辛いんじゃないですか? そうでなければあんなふうに叫んだりはしないはずです」
『あれはダイヤのことを考えている最中だったから。気分がいいときに嫌な話題をふられるとイラっとするでしょ? それと同じよ』
「本当ですか?」
『そんなに私が心配なら景品を貰えるようにもっと頑張りなさい。どんなことがあってもダイヤちゃんさえいれば私は平気だから』
「それは、もちろんです……」
そういえば梨香さんも挫けそうなときはパールのことを思い出して元気を取り戻していたと言っていた。泉さんも彼女と同じく、辛いことがあればカルルピで心を癒しているようだ。
だんだん彼女の現状が、かつての梨香さんの姿に重なっていく。問題を抱え込みがちで、それを癒してくれるのは学校で秘密にしている趣味だけ。むしろ頼れる副会長(せんぱい)がいない泉さんのほうが危険な状況にある気がしてきた。
『愚痴を聞いてくれてありがと。今週末のこと頼んだわよ?』
電話がきられた。
僕はしばらくスマホを握ったまま立ちすくんでいた。なにかいい手だてはないかと考えていると、背後から凛に声をかけられた。
「凛? どうした?」
「だって呼んでも下りてこないんだもん。まさかずっとお電話してたの?」
「ああ。友だちの相談にのっていたんだ。待たせちゃってごめんな?」
「ううん。遥兄ぃと一緒じゃないと美味しくないもん」
僕らはリビングに戻ると、すっかり冷めてしまったワッフルを食べる。うん。美味しい。生地は固くなっているけど、それでも味は変わらない。
凛からも絶賛を受けながら、僕はどんな味を増やそうかと考える。でも、ダメだった。その日は泉さんのことが頭から離れず、これ以上お菓子のことについて計画を練られなかったのだった。
その後、僕らは普段通りに学校生活を送った。
当初は放課後にお菓子作りに付き合えと言われていたけど、写真で見せた試作品の評価がよかったので中止となり、僕は生徒会役員の、泉さんは軽音部の活動に集中することになった。
彼女のことは心配だったけど、うちの軽音部は学外で他校と合同練習をすることが多く、そのときだけは嶋崎先生に介入されないとのことで安心できた。
彼女とは学校で挨拶を交わすようになったものの、人前でべたべたと話すような関係には発展していない。お互いがいつもと変わらぬ日常と距離感を保ちながら過ごすうちに、やがて約束した週末を迎えることになるのだった。
□■□■
土曜日の午後。僕は泉さんのマンションへ向かっていた。
久々に雲一つない青空が広がったのは嬉しいけれど、蒸し暑さのなかをぎらついた日差しが降り注ぐのは少しキツい。しかも僕は両手にワッフルの材料を提げており、傷まないよう足早に進んでいた。イチゴ等の冷蔵品もあるので、できるだけ急いで届けたかったのだ。
ようやくマンションに到着し、僕はエントランスでインターフォンを押した。しかし応答がない。なにか用事をしているのかもしれない。もう少し待ってみようと立ちすくんでいると、ガラス扉の向こうに人影が見えた。
泉さんかと思ったが、現れたのはまったくの別人だった。
僕は道を空けると、外へ出て行く彼女を見送る。ずいぶんと変わった人だったな。銀色の長髪に黒のフリルブラウスにミニスカートという姿は、なんだかアニメのキャラクターのようだった。
「それにしても泉さん遅いな。電話させてもらおうかな」
「ねぇ。ちょっと」
「あれ? 着信音が近くから聞こえる」
「なにしてのよ根岸」
「はい、根岸でございます?」
振り返れば、先程の彼女がいる。
「ハ、ハロー……。あの、エクスキューズミー?」
「外人じゃないわよ。同じボケを繰り返さないでくれる?」
「同じって……。えっ、まさか貴女が泉さん?」
「そうよ。髪はウィッグで、目はカラコン。あんたと一緒にいるのを誰かに見られたくないから変装しているの。伝えるのが遅れたけど、クッキングスタジオの利用券をママから貰えたの。だから今日は外でお菓子を作るわよ」
「今からショッピングモールに行くんですか?」
クッキングスタジオはモール内にあるテナントだ。充実した設備を時間制で利用できるところだけど、ワッフルを作るだけなら自宅で十分な気がする。
「スタジオなら照明が凝ってて写りがよくなるでしょう? 少しでも選考に残れるよう使えるものは何でも使わなきゃ」
「たしかにそうですね。調理師さんからのアドバイスもあれば、今より上手く作れるかも」
クオリティの面だけでなく、家の外なら泉さんに危険な道具を持ち込まれる心配もないだろう。手提げ袋に入れておいた保冷剤もモールに着くまではもちそうだ。
こうして僕らは一緒にショッピングモールへ向かうことになるのだった。
バス停はマンションの目と鼻の先にあり、すぐに乗車することができた。
泉さんとは離れて座り、モールに到着してからも距離を保っていた。
彼女はともかく僕は変装なんかしていない。恋人がいるのに他の女子と外出しているところを知り合いに見られるわけにはいかないのだ。
幸いなことにスタジオの調理スペースは仕切り戸によって通路から見えないようになっていた。これなら安心して料理に集中できる。
「思ってたよりもすごいところね。なんだか緊張してきたわ」
泉さんにつられて待合室から調理場を覗いてみる。ここはモールと違って床がフローリングになっており、調理台は見るからに高性能でお洒落なものになっていた。しかも天井にはどでかい排煙ダクトや解説用のモニターまで完備されている。たしかにここまですごいとは予想外だった。
「そもそも私、うまく作れるかしら?」
「大丈夫。僕は練習済みですし、今日は泉さんも一緒ですからあのときよりも上手く作れるはずですよ」
「ふん。煽てるのが少し上手くなったじゃない」
泉さんが顔を綻ばせてくれた。
なにかを作るのなら支え合える誰かと一緒のほうがいいだろう。
と、そこでスタジオ内にアナウンスがかかった。
「お待たせしました。ご予約された『ダイヤぺろぺろの会』の二名様。準備が整いましたので奥へどうぞ」
僕は卒倒しそうになった。
「ふらふらしてどうしたの?」
「泉さん、なんでこんな名前で予約したんですか!」
「はぁ? なにを驚いているのよ?」
「普通は驚きますよ! 変装までして秘密にしたいのなら無難な名前で予約すべきだし、しかも僕をメンバーにしないで下さい!」
僕は重い足取りで調理台へと向かう。幸いなことに隣の利用者は料理に夢中で名前を聞いていない様子だった。
僕はほっと胸を撫で下ろす。泉さんには悪いけど、梨香さんがいる前でこんな変態みたいな組織名を名乗りたくない。
僕は具材を調理台の上に並べ、レシピを書いたノートを広げた。
気を取り直してお菓子作りに取りかかろう。簡単とはいえ油断すれば失敗してしまう。梨香さんの前でそんな醜態をさらさわけにはいかないのだ。
「え? 梨香さん?」
僕は隣の調理台を見た。
梨香さんがいた。
もう一度振り返ると、やはり彼女がいる。
梨香さんがいる。
梨香さんがいらっしゃる……。
スタジオに、ここに梨香さんがいるじゃないか……!
なんで? なんでここに梨香さんがいるんだ?
他の女子と来ていることを知られたら浮気だと思われるじゃないか!
頭が真っ白になり、滝のように汗が流れていく。またしても僕は卒倒しそうになるのだった。
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