第41話

 次の日は地味で動きやすいドレスに着替えてコスタス様と治水工事の視察に行った。水はもう流れていて、護岸工事をされている所だった。周りは牧場で、草を食む牛がいたりのんびり過ごしている。堆肥のにおいに動物ってこんなにおいがするんだと呆けていると、こら、とコスタス様に腰を抱かれてしまった。ふぁっ!? となっていると、呆れた顔をされる。


「サーニャ、牛は珍しいかもしれないけれど、今は視察中だよ。仕事が先」

「そ、そうでしたね、すみません」


 ぺこりと頭を下げて、帽子の中にまとめた金髪のおくれ毛を押し込む。苦笑されて、ほら、と川を見せられた。水量は私の腰ぐらいだろうか。時々牛が来て水を飲んでいる。営農用水としてきっちり用を成しているのは、見ていてホッとするところだった。地図を見せられて、今いるのがここだね、と示される。水路を描いているその設計図によると、山があるのはうちの領地ぐらいらしかった。そこで集められた水が流れて、後は平地を進んで行く。侯爵領にある海にまで向かうそれを見ると、改めて大工事だった。


「お水足りるんですか?」

「大丈夫だよ。この山系は水をためているからね、雨の季節になると橋が流されたりしていたぐらいだ。今は穏やかな方さ」

「へぇ……そんんな暴れん坊だなんて知りませんでした」

「屋敷までは水も来ないからね。流石に。そこは考えて町は高台に作っている。この辺りは酪農や農地ばかりだよ。水が必要な所だ」

「なるほど」

「山の水は地下水源にもなっているからね。町で使ってるのはそっち。どっちも山のお陰さ」


 息を吐いてみると丸く白いものが出た。でも寒くないのはショールを掛けているからだろう。それと、厚手のドレスとコートををナターシャさんが出してくれたからだ。思わず川を覗き込んでしまうと、作業員の人たちが泥だらけになりながら川縁を作っていた。

 足りるかな、と思って、私は馬車から持って来たポットを抱きしめる。ほら、とコスタス様に促されて、こくんっと私は頷いた。


「皆さんお茶にしませんかー!?」


 視察に来ていた侯爵夫人の突然の言葉に、固まったのが十数人の作業員さん達だった。え、え、と戸惑っているのに、私は大きなポットを抱え上げ、メイドさん達が用意してくれた簡易テーブルに向かう。おずおずと川から出て来た人たちは、泥だらけだ。それに躊躇している様子だったので、はい、と一人に椅子を引いて座らせる。すると戸惑いがちに、彼らは座ってくれた。やっぱりメイドさんが用意してくれたカップ群にお茶を入れ、お砂糖菓子を出すと、戸惑いは最高潮になっている。

 くすっとコスタス様が笑った。侯爵夫人自ら給仕しているのは、やっぱり貴族らしくないんだろう。でも私はそんなの気にしない。コスタス様だって気にしない。それが私だからだ。


「冷めちゃう前に身体を温めて下さいね。こんな寒い中、ご苦労様です」

「あ、ああ、はい」

「ありがとうございます……って美味いなこの紅茶」

「本当だ、ジンジャーが入ってるのか。身体が温まって気持ち良いな、こりゃ」


 わいわいしていく人々に、私は笑みを漏らす。泥の汚れなんて洗えば取れる。今はこの人達に休んでもらいたい。もうひと踏ん張りの所を、背中を押してあげたい。


 と、牛が近づいて来た。近くで見ると大きいな。そーっと撫でてみると、冬毛がふわふわしていた。白と黒の斑で、えーと、ホルスタイン、って言うんだっけ。冬の雪には強い種類だと本に書いてあった気がする。酪農の殆どが牛であるうちの領地では珍しくない品種だ。他には豚とか鳥とか馬とか、色々手広くやっている。男爵領だけで国の自給率の二十パーセントぐらいを賄っていると、これも本に書いていた。

 牛はうりうりと頭を押し付けて私に懐いて来る。ふわふわの毛が心地良い。と、ずりずり押されていることに気付いた。


 水を飲みに行きたいんだろう、私は避けようとするけれど、いつの間にかコートの裾を踏まれていて動けない。じりじりと川に向かって行く牛に引きずられる。これは。まずいのでは。でもお茶してる作業員の人たちは誰も気づいていない。声を上げて良いものなのか。それともそんなことと笑われてしまうのか。背中が確実に川に近付いて行く。まずい。これはまずい。


 ぐらりと身体が揺れていよいよと目を閉じた瞬間。

 腰に何かが巻き付いて、ぐいっと引っ張られる。

 牛はコートを放して水を飲みに行く。

 目を開けると、鞭を持ったコスタス様がほっとした顔をしていた。


「危ない時はちゃんと声を上げてくれ、サーニャ。流されはしないだろうけれど落ちたら風邪をひいてしまうよ。下手をすると肺炎だ。やっぱり持って来ておいて良かったよ、この鞭」


 談笑している作業員さん達をしり目に、コスタス様は私を鞭でくるくると抱き寄せる。誰も見ていなかったのにコスタス様だけは私を視界に入れてくれていた、それが嬉しくて顔を赤くし、はい、ごめんなさいと私は謝る。牛は悠々自適に水を飲んだ後は帰って行った。なんてマイペースな生き物なんだろう。はふっと腰に巻き付いていた鞭を取ると、お茶を渡された。


「君も交じって行くと良い。勿論僕もそうする。あちこちの領地から来た人たちだからね、色々と聞いていて楽しいものだよ。訛りとかそう言うのも含めてね。君は侯爵夫人だから、色んな人を相手にすることになってしまうだろう。結婚式でもたくさんの人と言葉を交わす。その練習に思ってくれればいい」


 言ってコスタス様は腰掛けた。そのまま作業員の人たちと談笑に入って行く。滑り込むタイミングが良いな、と思った。と、また牛がやって来たので私も椅子に着く。確かに訛りはあちこちあるみたいで、それが面白かった。私も伯爵領の訛りがあったけれど、人と話す機会がないからそれはあまり出ない。でもこの人達は違う。普段は畑の世話をして、色んな人と交渉して生業にしている人たちだ。弁舌軽やかで気持ち良い。

 おっとりとそれを聞きながら、私は紅茶を飲む。外気温で殆ど冷めていたけれど、ジンジャーシロップのお陰で身体はぽかぽかした。

 それにしても鞭、凄いな。否、コスタス様の腕力が強くなったのか。やっぱり成長期。自分にはなかったものだから見ていて呆けてしまう。


 帰りの馬車では仕立て屋に向かい、私はサイズをあちこち測られた。ウェディングドレスの準備だろうと思うと、ちょっとどきどきしてしまう。コスタス様はドレスのカタログを真剣に見つめ、プリンセスラインかマーメイドラインかをまず悩んでいた。私も並んで、頭を突っつき合わせて考える。


「マーメイドラインだと身体の形が露骨に出てちょっと恥ずかしいです」

「じゃあプリンセスラインかな。母上もそうだったし」

「レースはそんなになくても良いです。庭の薔薇に引っ掛けちゃうでしょうから」

「でもスカートのボリュームは出した方が良いと思うよ。腰の細さが出る」

「細くもないですけど、対比としてはそうですね……」


 くすくす笑って私たちを眺めている仕立て屋さん夫婦は、穏やかだ。穏やかな場所に来たんだな、と思う。強盗に襲われそうになったこともあるけれど、うちの領地は基本的に穏やかだ。私なんかが入って良いのか戸惑うぐらいに。

 私もコスタス様のように、領民に愛される夫人にならなきゃいけないな。

 ふんっと鼻を鳴らして、私は見たこともないような複雑なレースにちょっと心を躍らせていた。

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