第6話 マジデカ時代

 検査の日。

 ぼくは前日から全く食事を取っていない。

 ちょっと辛いけど、病院からの指示じゃ仕方がないよね。

 いやいや、これは予想以上に大変だぞ。

 胃はシクシクするし、はっきり言って気持ち悪い。


「よし、いいよ」


 診察台から降りると、服装を直す。


「ふむ、経過は良好だな。あまり激しくなければ、運動をするのは大いに結構。バイトも問題ないよ」


「はい、ありがとうございます」


 城医師はカルテに何か書き込むと、ぼくに向き直った。


「まあ、次で何ともなければ、もう来なくて大丈夫だ」


「本当ですか!?」


「ああ。さすがに若いだけあって、快復が早いようだからね」


「ありがとうございます!」


 病院を出ると、そのまま学校に向かう。

 変にバスを待つよりも、歩いた方が早い。

 普通ならどこかで時間を潰してサボりたい、と思うだろう?

 ぼくはそんな不真面目な生徒じゃない。

 病院からまっすぐに学校に行く。

 教室に行けば斉藤さんと会えるからだ。

 足取りだって軽くなっちゃうね。

 校門をくぐるとちょうどチャイムが聞こえてくる。

 二時間目が終わる時間だ。授業中の教室に入るよりも目立たないから、タイミング的には一番良い。

 教室はいつも通り騒がしくて、ぼくが入っていっても誰も気にとめることはない。

 最初にまず斉藤さんの席に目をやる。

 大丈夫、今日もちゃんと来ているぞ。


「あれ」


 斉藤さんは何だかつまらなそうな顔をしていて、ぼくから目をそらした。

 近くの席の友達と楽しそうに談笑していて、ぼくと視線が合うことはなかった。

 おかしいな、どうしたんだろう?

 いや、一度だけ視線が合ったぞ。


「……ふっ」


 なんだその表情?

 なんかこう、嘲ってるような。

 ぼく、なんかしたかな? ……したか。

 思い切りやらかしたよな。

 ぼくは教室の後ろに足を進めた。


「あのっ、斉藤さん」


「もう授業よ。席に着いたら?」


 斉藤さんの言うとおり、授業の開始を知らせるチャイムが鳴り始めた。

 仕方がないので席に着く。

 話は昼休みにしよう。

 どうにかして呼び出して……どこに?

 ろくに頭に入らない三時間目の授業を終え、トイレに行って戻ってきた時のことだ。


「あれ」


 斉藤さんの席は空席になっていた。

 竜宮院に聞いてみると、ぼくがトイレに行っている間に早退したらしい。


「斉藤に何か用か?」


「いや、大したことじゃないんだけどね」


 竜宮院はわずかに顔を傾けると、口をへの字にして腕を組んだ。ぼくを頭の上から足下まで一瞥すると頭の後ろで手を組んだ。

 椅子を傾け、いささか乱暴に両脚を机の上で組む。


「気になるか? でもあいつはやめとけ。悪いことは言わん」


「どうしてさ」


「噂じゃどうも、社会人の彼氏がいるとか、いないとか……」


 目の前が真っ暗になる。

 これは比喩じゃない。

 手足もろくに言うことを聞かないし、ぼくは情けなく床に転がる。


「おい、どうした! しっかりしろ山田! おい誰か手伝え! こいつ気絶してやがる! 保健室! 保健室!」


 教室は大騒ぎになったらしいけど、ぼくの記憶には無い。


 *


 目を開けると、白い天井。

 レールに吊された白いカーテンを見て、思わず病院に送り返されたのかと思ったけれど、どうやら保健室だ。

 昼休みらしく廊下が騒がしい。

 枕元でポタポタと水音がしたかと思うと、額に冷たいタオルが乗せられた。


「雲雀ヶ崎……?」


「あ、起こしちゃいましたね、ごめんなさい。……気分はどうですか? 山田先輩」


 水音は洗面器でタオルを絞った音らしい。

 でも雲雀ヶ崎るなが、どうして保健室にいるんだろう。


「うん、だいぶいいよ」


 嘘だけどね。あの斉藤さんに彼氏かぁ……。


「本当ですかあ?」


 雲雀ヶ崎は怪訝な顔をしてぼくを覗き込んだ。

 よく見れば目元は赤いし、腫れている。

 まるで泣いていたみたいに。

 どうして泣いていたのかはわからないけど、いずれにしろ無駄に心配をかけるのはよくない。


「本当だよ」


「なら、いいですけど」


 そのまま横の丸椅子に腰を下ろした。

 油の切れたキャスターがきしむ。


「廊下でたまたま竜宮院先輩に会ったんです。それで、山田先輩が急に倒れたって聞いて。竜宮院先輩は心配ない、ほっとけ、って言ってたけど、その、るなはどうしても心配になって。いてもたってもいられなくて……」


 雲雀ヶ崎は眉間にしわを寄せて、鼻をすすると唇を噛んだ。


「えっと……雲雀ヶ崎?」


 泣きそうだ。

 どうしたんだろう!

 何か泣かせるようなこと言っちゃったかな。

 まるで思い当たらないけど……。


「先輩……死んじゃ嫌です」


 ええー? ぼくだって死にたくはないし、死ぬ要素はこれっぽっちもないぞ。

 ぼくはベッドを飛び降りると、両腕で力こぶを作った。


「誤解! 誤解だよ! いやだなあ、それじゃまるで、ぼくが不治の病みたいじゃないか! ぼくは盲腸だったんだ。手術は成功したし、あと一回検査を受ければもう来なくていい、って先生に言われてるんだから!」


「本当ですか?」


「本当だよ」


「本当の本当ですか?」


「本当の本当さ!」


「じゃあ何で倒れたんです?」


「それは――」


 ぼくは言いよどんだ。

 斉藤さんに彼氏がいるかもしれないと聞いて、それで倒れただなんて言えるはずもない。


「昨夜から食事を抜いてたから、かな。検査があったから。ほら、ぼくは腸をやったから、検査の時はご飯を抜かないと」


 嘘ではない。

 というか、半分くらいはこれが原因だと思う。

 実際、かなりきつかったのは確かだ。


「そうですか、よかったぁ……」


 どうやら納得してくれたらしい。

 涙はどこかに引っ込み、嬉しそうな笑顔になった。

 よかったあ。


「あんまり無理しちゃダメですよ。るな、本気で心配したんですからね」


「ごめんごめん」


 昼休みの終了を告げるチャイムが鳴った。

 あと五分で五時間目が始まる。


「さ、もう戻りなよ。ぼくもすぐ行くから」


「はい。重ね重ね言わせてもらいますけど、無理はしないでくださいね」


 雲雀ヶ崎は立ち上がると、保健室を出て行こうとする。


「待って」


「はい」


「タオル、ありがとう。今日は部活にも出るから、後でね」


「……はいっ!」


 雲雀ヶ崎はコロッと笑顔になった。

 健気だなあ。

 妹が居たら、きっとこんな感じなんだ。

 ごめんよ、お兄ちゃんが無理しすぎたよ。


 *


 どうにか時間を見つけて弁当をかっ込み――早食いは止められていたけど、仕方がない――午後の授業に出る。

 新年度早々かなり休んでしまったから、取れる単位は取っておかないとね。

 でも、肝心の授業といえば、休んでいた間にずいぶんと進んでしまってチンプンカンプンだ。

 それでもどうにか今日の授業を乗り越え、ぼくは部活で使うジャージを取りに行く。

 まだ二年目なのに、けっこう痛んでるみたいだ。

 体育でも使うから、横着しないでちゃんと作業服を着たほうがいいな。

 今までは教室の後ろにあるロッカーに教科書も入れていたんだけど、こりゃ持ち帰って勉強しなきゃまずい。

 ジャージを入れた袋を取り出し、鞄を開けて教科書を詰め込んでいると、近くで井戸端会議を開いている女子の話が耳に入る。

 まだ高校生なのに、ご近所のおばちゃんと同じ事やってるな。

 先が思いやられるよ。


「斉藤さん、大変よねぇ」


「そうそう。中学の時、病気で一年休学したって言ってたじゃない?」


 マジでか。年上とは知らなかった。

 どうりで大人びている訳だ。

 去年はクラスが違ったし、全く面識が無かったからな。


「でもさあ、医者の彼氏は羨ましいわ。医者と患者の立場を乗り越え……なんて、ロマンチックねぇ」


「マジでか」


「は?」


 思わず口に出てしまったらしい。

 女子たちはいぶかしむような視線をぼくに向けてきた。


「ああ、いやいや。こっちの話。独り言。ニューギニア原産のマジデカっていう草をどうしても育てたくてさ。ほら、ぼくは園芸部だから」


 そんな植物は無いんだけどね。

 本気にされて検索でもされたらちょっと困るな。


「まあ、山田は草でも食べてるのがお似合いよね」


「バカにしやがって。お前らだって野菜を食うだろうに。それに最強クラスの陸上動物はみんな草食じゃないか。ゾウとかサイとか。ヒグマだってほとんど木の実を食べてるんだぞ」


「そのくらい知ってるし。いいからとっとと行ってらっしゃい。リア充は死んでね」


「リア充? 何の話だよ。そもそもリア充とか死語だろ。古いって」


 彼女は舌打ちで答えた。

 そんなに嫌わなくたって……。

 ぼくを無視して友達との井戸端会議を再開する。


「あ~あ、私も彼氏欲しいな~、山田以外の」


「失礼だなあ」


 そんなことはどうでもいい。

 ショックですよ。ええ、そりゃあもうショックですよ。

 ショックのあまり間違えて女子更衣室に入るし、あまつさえズボンを前後逆に履いて気がつかないくらいにはショックですよ。

 こっちは病み上がりだってのに。

 職員室に呼ばれて貴重な時間を無駄にしてしまったぞ。

 今度やったら停学だと? どうでもいいよ、もう。


「医者って、誰だ? まさか城先生じゃないだろうな」


 だとしたら、ぼくは恋敵に腹を切られ、内臓を引っ張り出されていいようにされた事になる。

 確かに城先生はそこそこにハンサムだし、スマートで背も高いし、腕はいいし、落ち着いた大人の男だし、医者だけに給料も高いだろうし、そもそも医者はどこも足りないから引く手あまたで失業もありえない、ってこれじゃあぼくなんかどうしようもないな。


「……クソだな」


「そりゃ確かに、肥料の原料は牛や鶏のウンチですけど。考えないようにしてるんで、それは言わないでください」


 雲雀ヶ崎は都合よく誤解してくれたけど、訂正はしないほうがいい。

 相手は医者だ。

 ぼくなんかじゃ勝てっこない。


「時代は化学肥料だよ。空気からパンを作る魔法の技術だ」


「空気からパン? 何を言ってるんですか?」


「冗談でも寝言でもないよ。高温高圧で鉄を触媒に窒素と水素を反応させると、アンモニアができるんだ。それを硝酸と反応させて硝酸アンモニウム、つまり化学肥料を作る、と。ハーバー・ボッシュ法ってやつさ」


 雲雀ヶ崎は袋に手を突っ込むと、中身の白い粒を手に取った。


「さすが! 先輩、詳しいんですね!」


「常識だよ、常識」


「常識をわきまえてて、すごいです!」


 雲雀ヶ崎は良い子だなあ。

 カマボコの原料が魚だと言ったら「ととなの?」って言ってくれそう。

 本当は竜宮院が休み時間に熱く語っていた事の受け売りなんだけどね。

 その時はぼくだって驚いたよ。

 インターネットの百科事典サイトを調べて本当だと知った翌日、ぼくは珍しくあいつに謝ったんだ。


「何気なく使ってるけど、これが空気だなんて本当に魔法みたい! るなも最初はそう思いました!」


 僕にかけられた恋の魔法は爆薬で吹っ飛んだけどな。

 ハーバー・ボッシュ法は爆薬を作るのにも使われる技術なんだ。

 というか硝酸アンモニウムがすでに爆薬みたいなものだ。

 科学は使い方次第で善にも悪にもなるんだねぇ、医学も科学だから使い方次第で人を傷つけることもあるよねえって、関係ないか。

 全国のお医者さん、ごめんなさい。

 ただし城は除く。

 あのヤブ医者はとっとと左遷されて、失意の中、辺境で孤独に野垂れ死ぬべきなんだ!


 その日の夜、夢を見た。

 斉藤さんが城医師と、とても親密そうな様子で腕を組んでぼくの前を歩いてるんだ。

 ぼくは二人の関係を糾そうとするんだけど、声は出ないし足はぬかるみにはまって一歩も動けない。

 泥濘に這いつくばって、それでもどうにか手を伸ばそうとするんだけど……斉藤さんと城医師はぼくなんかまるで目に入らないみたいに、キスをした。

 目覚めは最悪だった。

 起きた直後に実際にゲロを吐く程度には最悪だった。


 歯磨きをしながらふと思う。

 雲雀ヶ崎のやつ、べつにぼくを褒めてはいなかったな。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る