第7話 ゾウが踏んでも壊れない

 マラソン大会はいつだって好成績だったが、自発的に長距離を走りたいと思ったことはない。にもかかわらず、槇志はこの日、朝っぱらから土手の上を走っていた。前方には長い黒髪を揺らしながら逃げつづける少女の背中。それに向かって彼は大きな声を張りあげる。


「待て天咲、俺の話を聞いてくれーっ!」


 なんだか、一昨日の再現のような状況だったが、今度は槇志がエッチな発言をしたわけではない。彼の顔を見た途端、空色が怯えたように逃げ出したのだ。

 登校中の生徒たちが興味深げな視線を注いでくるが、それに構っている余裕は無い。空色は一昨日以上の速さで走っており、槇志もほぼ同時に走り出したにもかかわらず、今日はほとんど差がつまってくれない。

 このまま学校に逃げ込んでくれれば、必然的に追いつくのだが、空色もさすがにそんな愚は犯さず、土手の斜面を駆け下りて河川敷へと向かった。

 魔法でも使われてしまえば捕まえようもないところだが、さすがに人目を気にしてか、突然消えたりする様子はない。しかし行く手には背の高い草むらが群生しており、その影へと逃げ込まれてしまえば、それも保証の限りではなかった。

 槇志は意を決して邪魔なカバンを放り出すと、一気にスピードを上げた。差は見る見るつまりはじめ、ちょうど草の影に差しかかったところで彼は空色に追いつき、背後から飛びかかった。


「きゃあぁぁぁっ!?」


 いきなりのことに悲鳴をあげる空色。前回のように腕をつかんで引き止めるような余裕がなかったためだが、いくらなんでも勢いがつきすぎだったようだ。必然的にもつれ合うような形で、二人は地面を転がるはめになった。


「がうっ――!?」


 後頭部をしたたかに大地に打ちつけ、空色がおかしな悲鳴を上げる。

 結果としてのしかかる形になった槇志は、彼女の柔らかな感触にドギマギしながらも、冷や汗を流していた。端から見ればまるで女生徒に襲いかかった変質者だが、それ以上にいまの悲鳴が気になる。大慌てで身を起こすと、槇志は空色の肩を軽く揺すった。


「おい、天咲?」

「…………」


 空色はピクリとも動かない。打ち所が悪かったのだろうか。


「おい、しっかりしろ、天咲!?」


 やや乱暴に体を揺さぶると、空色の体は軟体動物のように力無くふにゃふにゃと揺れた。

 図らずも魔女を抹殺してしまったのだろうか。そんな考えがちらりと脳裏をかすめたが、少しも嬉しい気持ちにはなれない。

 さらに間の悪いことに、焦る槇志の背後から何者かの足音が近づいてきていた。慌てて周囲を見回し、とっさに空色を隠すべきか、自分が隠れるべきかと犯罪者のようなことを考えてしまう。だが判断を下すよりも先に、足音の主はこの場にたどり着いてしまった。


「なに考えてるのよ、笠間くん!」


 怒りの声に振り向くと、ひとりの女生徒が、荒く息を弾ませながら、怒りの形相でこちらを見おろしている。

 空色の親友、彩河さいかわ綾子だ。

 先ほど空色に声をかけたとき、その隣を歩いていたので、遅ればせながら追いついてきたのだろう。


「さ、彩河……」


 槇志はうわずった声を発した。綾子は容姿も性格も含めて、彼の好みのタイプではあったが、本屋の一件もあり、なんだか苦手意識を感じている。


「空色を避けたり、気持ち悪がったり、挙げ句の果てに押し倒すなんて、いったいどういう精神構造をしてるの!?」


 綾子の剣幕に思わず後ずさりしながら、槇志は慌てて弁明した。


「た、たしかに行動だけ見れば、我ながらわけわからん変な奴だが、これにはなんだかんだと事情があるんだ」

「どんな事情よ!?」

「えーと……。あやまろうと思ったら逃げられた」


 簡潔に答えると、綾子は顔をしかめたものの、彼に対する怒りを増したわけではないらしく、大きくため息を吐いてから、ぼやくような声を発した。


「だからって、飛びつくことはないでしょうに……」

「いや、反省はしてるさ。けど、それよりたいへんなんだ。天咲のヤツ、さっきからピクリとも動かなくって……」

「大丈夫よ。空色は象が踏んだって壊れないわ。一度眠ると、象に踏まれても起きなかったりするけど」


 綾子は本気か冗談か判断のつかない顔で答えると、空色の足下に屈み込んで片方の靴を脱がした。細い足首を片手でつかむと、ソックスの上から軽く足の裏をくすぐりはじめる。


「きゃはははっ、やめて、くすぐったい!」


 効果は覿面だった。空色は嬌声が入り混じった悲鳴をあげて目を開く。


「――あれ?」


 目覚めたものの、状況がすぐには把握できないらしく、空色は不思議そうな顔で周囲の様子を見回した。

 最初に綾子を見て首を傾げ、つづいて槇志の姿に気づくと、びくっと怯えるように身をすくませた。

 たびたび感じることだが、どうにも立場が逆の気がする。とにかく空色を刺激しないようにと、槇志はなるべく穏やかな声で話しかけることにした。


「あのさ、天咲」

「な、なに?」


 怖々とした様子で、上目遣いに見つめ返してくる。


「一昨日はごめん」

「え?」

「どうかしてたよ、俺。君がせっかく友だちを助けてくれたのに、怖がって逃げちまうなんてさ」

「笠間くん……」

「本当に悪かった。もうあんな態度は二度と取らない。約束する。だからゆるしてくれ、このとおりだ」


 槇志は深々と頭を下げて詫びた。


「ま、待って笠間くん。わたしべつに怒ってるわけじゃないの」


 空色は慌てたように草むらから跳び起きた。片方の靴を履いていないことに気づき、片足立ちのまま、両手を広げてバランスを取る。


「ただ、その……。友だちになって欲しいだけで」


 かかしのようなポーズのまま、真顔で告げてきた。


「友だちに?」


 槇志の脳裏に、ふと悪夢の光景が浮かんだ。そういえば前世の自分は、なぜ彼女とふたりきりで見つめ合っていたのだろうか。


「ダメ……かな?」


 不安そうなその声で我に返る。


「ダメなわけないだろ。俺からも頼むよ、友だちになってくれ」


 軽く笑って槇志は右手を差し出た。空色は綾子から靴を返してもらうと、頬をわずかに朱に染めながら、そっと彼の手を握り握り返してくる。小さくて柔らかい、実に女の子らしい手だった。


「良かったわね、空色」


 綾子が親友の肩を軽く叩くと、空色は実に嬉しそうにうなずいた。


「うん」 


 ふたりは本当に仲がいいようだ。もしかしたら空色が魔女であることさえ、綾子は知っているのではないだろうか。

 なんにせよ当面の予定どおり、空色と仲直りすることができて、槇志は心底ほっとしていた。

 不思議なことに、この日を境に槇志は世界が滅びる夢を見ることがなくなった。日々の生活は極めて順調で、平凡ながらも楽しい毎日がごく当たり前に過ぎていく。

 空色はおかしな動向を見せるどころか、魔法さえ滅多に使うことがなく、ともすれば彼女が超常の力を持つことさえ忘れてしまいそうなほどだった。毎日のように言葉を交わすうちに、槇志の心に根を張っていた恐怖と警戒心は自然に薄れていく。

 やがて暦は五月から六月へと変わり、いつしか夏の足音が聞こえはじめていた。

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