第2話 作家への道

「なるほどね。小説って、プロットを書いて、ある程度の設計をしておかないといけないものだとは思うんだけど、あまりにもきっちりしたプロットになっていると、融通が利かない話になってしまうこともあるわよね。でも、逆に中途半端にした書いていなかったり、プロットなしで書き始めたりなんかすると、内容が定まらずに、どこに向いて歩いているのか分からなくなるんですよね。きっと先生がその時書いていたのは、プロットは作っていたけど、途中で話がずれてしまったりしたのかも知れないわね。途中でいろいろ思いついて、悪い言い方だけど、忘れないうちにと思って、プロットを無視するような話に作り上げたりね。私もそういうことがあったのよ。だから、途中で話が膨れ上がりすぎて最後には収拾がつかなくなってしまうのよ」

 というのだった。

「どういうジャンルを書いていたんですか?」

 と聞いてみると、

「SF小説なのよ。ね、本末転倒でしょう?」

 とママが言った。

「なるほど、SFなどのように時間の感覚が長すぎたり、時間をテーマにすることで、却って薄っぺらくなってしまうのかも知れないね。僕もタイムトラベル系の話を書いてみようと思うんだけど、時間の超越がどうしても理解できないところに行ってしまって、最後の大団円に使おうと思っていた話を、我慢できずに、途中で書いてしまったりしてね。本当はそれが伏線であって、最後に回収するのであれば、それでいいんだけど、伏線になっていなければ、ネタばらしになってしまって、話が面白くなくなってしまうからね」

 というと、

「私はミステリーも書くことがあるんだけど、ミステリーのトリックというのは、大きな括りとしては、もうすでに探偵小説の黎明期と呼ばれてた時代で、すでに出尽くしていると言われていたのよね。だから、それ以降の探偵小説は、いかにそれらのトリックに読者を導くようにストーリーを作れるかということが重要になってくるの」

「その話は聞いたことがあるわ。大きく分けると、十もないくらいですものね。でも、それだって、物理的なトリックと、心理的なトリックを組み合わせたり、叙述によって読者をミスリードするような作風だったり、そういうことがミステリー小説として、今も読まれているものなんでしょうね」

 と、松永は言った。

「ミステリーの中には、してはいけないと呼ばれるものがいくつかありますよね。例えば、犯人を、ギリギリまで登場させない、だとか、読者が勘違いするようなあからさまな話を書いてはいけない。それは一種のウソを書いてはいけないということに結び付いているかも知れないけど、そういう曖昧な話もあれば、明らかに反則だと思うようなこともある。中には、語り手が犯人だ。あるいは探偵が犯人だというのも、読者を騙したような書き方で、やってはいけないことだと言われていたわよね。でも、それもありになってきたのよ。実際に一人称での筆者が犯人だったり、いつもの探偵が出てこない話だと思ったら、話の途中からいつもの探偵が出てきて、実際には最初から事件に関わっていた探偵が犯人だということも結構あったりしたわね」

 というママの話に、

「そうね、それが叙述トリックと呼ばれるものよな。さっきも言ったように、トリックが次第に出尽くしていくうえに、科学も発達していって、曖昧なことも性格に科学で解明されることができるようになってから、今まではトリックとして使えていたことが使えなくなったということも結構あったりするから、その埋め合わせに、叙述トリックもうまく使うことで、読者を見事に欺くというやり方の一つになるんでしょうね」

 と松永がいうと、ママはうんうんと頷いていた。

「アリバイトリックなども、電話だったり、その場にいなくても犯行が可能だったりすることもあるでしょうけど、今では監視カメラもいたるところにあり、死亡推定時刻もかなり正確に出るようになってきた。死体を動かすということだって、すぐに露呈してしまうし、死亡推定時刻のごまかしなど、なかなかできなくなっているでしょうね。それに、死体損壊トリックと呼ばれる、いわゆる顔のない死体のトリックだけど、これもm顔や指紋が分からなくても、DNA鑑定をすれば、ごまかしがきかないので、このトリックも今ではなかなか使えなくなってしまう。そうなると、いろいろなトリックを組み合わせたりしてうまくやる必要があるわよね」

 というママに対して、

「うん、ミステリーに関しては、なかなかいいトリックが思いつかないだろうから、トリックなどの解明による事件解決よりも、今は犯人の心理などの変化を巧みに描いて、推理小説の体裁を保っているのが、このジャンルだったりするのかも知れないね」

 と松永は言った。

「だから、私は探偵小説を読むようにしているの。推理小説ではなくね」

 と言っていた。

 元々、推理小説やミステリーと呼ばれるジャンルは、昔、探偵小説と呼ばれていた。その頃はSFであったりオカルト系を含んだ小説のジャンルで、それこそ、ミステリーという言葉が一番しっくりくるものだった。

「なるほど、戦前くらいのお話がいいのかな?」

 と聞くと、

「ええ、戦前のそれも本格小説がいいと思っているの、今読むと新鮮な気がするのは、きっとさっきの話ではないけど、トリックが充実していたからなのかも知れないわ。でもね、あの頃の小説も、今の私はトリックを中心に読んでいるわけではないの。今の小説と似たような感覚で読むことにしているの。そうすると、やっぱり今の小説が、その頃の小説を踏襲しているということがよく分かってくるのよ」

 とママは言った。

「時代背景が今とはまったく違っているというところも十分に魅力的なところですよね。特に、当時は動乱の時代であり、おどろおどろしい雰囲気を醸し出すにはもってこいの時代ですからね」

 というと、

「そうそう、何といっても、戦争があった時代じゃないですか、人が一瞬で何人も死んでいくのを知っている人たちで、人の死に対して感覚がマヒしていると思っているのに、一人の誰かが殺されたというだけで、下手すれば今よりも恐怖におののくかのような状況になっている。それを思うと、時代のブランクと、矛盾とが頭の中で却って、大きな不気味さを浮かび上がらせているように思うんですよ」

「まあ、それは言えるかも知れないですね。戦後などでは、もっとおどろおどろした作品があったりしますからね。もっとも、最初の頃は、検閲がすごくて、書くことすらままならなかったようですけどね」

 と言った。

「でも、そんな時代だからこそ、描ける雰囲気もあれば、考えられる発想もある、逆にそんな時代を知らない私たちは、だから想像力を豊かにできる。私があの頃の探偵小説が好きなのは、そのためなんです」

「そうなんですね」

「ええ、だから、その頃の小説を読んで、探偵小説のようなものを書いてみたいと思って書いてみたんですが、やっぱりどうしても、想像だけではあうまく書けないもので、さっき先生が言ったじゃないですか、自分の経験がどうしても入ってくるって、それと同じで、うまく書けないのはそこに理由があるのかなとも思ったんです」

 とママさんは言ったが、

「そうですね、今、ママさんが、うまく書けないと言った言葉なんですが、それは自分も感じたんです。うまく書けないということは何かってですね。そう考えれば考えるほど、矛盾が潜んでいるように思えてならなかったんですが、今のママさんの話を訊いて少し分かったような気がしました。その矛盾というのは、今のママさんのように、想像と現実のギャップにあるんじゃないかと思ってですね。つまりは、現実を想像のように書こうとしたり、想像を現実のように書こうとしたりしているうちに、どんどんうまく書こうという意識がそこから強くなってきているようで、本当は、今言ったことができていれば、すでにうまく書けるという要素は満たしているはずなんです、さらにそれ以上うまく書こうという意識を持つと、小細工に走るということになり、必要以上の小細工は、自分の望んでいることではなく、見ていても、読みにくい作品になってしまうんじゃないでしょうか?」

 と、松永はまくし立てるように言った。

「本当に小説を書くのって難しいですよね・想像と現実の矛盾という話を今言われていましたけど、私はその意見には賛成なんですよ。でも、もう一ついうと、それは矛盾ではなく板挟みのような気もするんですよね。矛盾と言ってしまうと、それぞれが反発しあっているだけのような気がするんですが、板挟みやジレンマというと、反発しあうというよりも、むしろ、近づこうとしているところに何かの障害があって、踏み込めない。つまりは結界のようなものが存在していると考えるとどうでしょうね?」

 とママさんは言った、

 またこの話を訊くと、何か、

「目からうろこが落ちた」

 というような感じを抱いてしまう。

「そうか、小説を書けないのは、矛盾からジレンマという一歩進んだ発想を抱こうとした時に、目に見えない結界に阻まれてしまったことで、結局矛盾を感じているというところまでしか意識をしていないので、結界があることも、ジレンマを感じたことも意識していないことが、自分のネックになっているのかも知れない。でも、どうして意識に残っていないんだろう?」

 というと、

「きっと、それが潜在意識だからじゃないですか?」

 とママさんは言った。

「潜在意識ということは、夢ということになるんでしょうか? さっきも似たような話があったと思ったけど」

 というと、

「ええ、夢というのは、潜在意識が見せるものだっていうでしょう? しかも、夢というのは、目が覚めるにしたがって忘れていくものだという。でも、実際には覚えていて、記憶として封印されていると、さっき言ったでしょう? それと一緒で、夢をいうのが、覚えていないのか、忘れてしまったのか、そのどちらなのかということを、一概にどちらともいえないところが、曖昧であり、そして、そこに結界が存在しているからなのではないかと私は思うんですよ」

「ママのいうことは分かるようで、最後のところまでどうしても理解することができない。これも何か結界があるように思うんだけど、その意識が、小説を書く上での結界になっているということなんだろうか?」

 というと、

「私には何とも言えないんだけど、でも、こうやって談義のように話をしていると、一人では分からなかったことが閃いてきたりするものだと思うのよ。一足す一が三にも四にもなる。算数の最初の一歩なんだけど、無限の可能性を秘めているような気がする。そういう意味で、人と話をするというのは、私にはいいことにしか思えないの。だからこのお店をやっているんだし、小説だって趣味として続けていられるんだって思うのよ」

 とママが言った。

 ママの話は難しすぎて、きっとすぐに忘れてしまうような気がした。それを思うと、夢の中では自分がバカになってしまっているから覚えられないのか、それとも、あまりにも非の打ちどころのないほどに完璧な理論を立てているので、ママの話を覚えていられないのと同じような気がしてきた。

「でも、正直、あまり考えすぎると、せっかく見つけた結論を見誤って、さらにその奥を求めようとし始めるかも知れない。そうなってしまうと、無限ループに陥ってしまうかも知れないので、そこは注意しておかないといけないと思うの」

 とさらにママが続けた。

「でも、気を付けるって、結論だと分かればそこから先を見ようとはしないだろうから、何を気を付ければいいというの?」

「そこが難しいんでしょうけど、何となくでもいいから、気を付けなければいけないという意識を持っていることで、封印している記憶の中の重要なこと。結界のようなものを引き出すことができるかも知れない。逆にいうと、その時に引き出すために、結界を記憶の奥に封印していると考えるのは、あまりにも都合のいい考え方だって言えるのかも知れないわ」

 とママさんは言った。

「なろほど、ママさんのいうことは分かる気がするな。ただ、やはり難しすぎて、どこまで理解できるか分からないけど、心の奥に封印されることなんだってことは分かった気がするな」

 と言った。

「でも、難しいけど、何か、明日からまた頑張れるんじゃないかって気がしてこない?」

 と言われて、

「はい、その通りなんです。この気持ちを最近忘れていたような気がしていたんですよ。こういう気持ちが必要だということは分かっているのに、なかなか気分的になれない。そういう意味で人と話すのもいいことなんでしょうね」

 というと、

「そうなのよ。だから私は先生を応援することしかできないけど、お話をさせてもらうのは本当に嬉しいことなのよ」

 と、ママさんは言った。

 そのスナックで最近、よく話をする人がいた。その人はママさんともよく話をする人で、ママさんと小説の話をしているのをよく聞いた。

「松永さんは、作家の先生だということで、一度お近づきになりたいと思っていたんですよ」

 というと、その横からママさんが声をかけてきた。

「松永さん、こちらは、新川教授と言われるんだけど、松永さんのことを話したら、結構興味を持ってくれたようで、新川教授はK大学の心理学の先生で、よくこちらに来てくださっているんです。仲良くしてあげてくださいね」

 とママが仲を取り持ってくれているような形になった。

 新川教授というのは、年齢的に少し松永よりも若く見えた。よくよく話を訊くと佐久間教授とは知り合いだということだった。

「そうですか、佐久間を知っているんですね。私は大学時代までは親友だったんですが、お互いに忙しくなったり、私のように、新人賞は取ったのに、鳴かず飛ばずの状態で、二進も三進もいかない常態になると、自然と関係も冷めてくるというもので、お互いにぎこちなくなって、話もしなくなって、縁遠くなってしまったということなんですが、佐久間は元気にしていますか?」

 と聞くと、

「ええ、少し体調を崩して、今は入院しているんですよ。私もこの間お見舞いに行ってきたんですけどね」

 というではないか。

「それは大変ですね。私もちょっと様子を見に行ってみようかな?」

 と言ってみた。

 本当は、もう少し自分がどうにかなってから会いに行きたいと思っていたのだが、あれから三十年近くもこの状態。よくもなるとは思えないし、そろそろ彼とのわだかまりも時効だと思い、

「逢いに行くのもいいのではないか」

 と思ったのだ。

「喜びますよ。彼はあれでやせ我慢なところがあるので、平気な顔をしていますが、本心では結構寂しがっていると思うんです。あなたが行ってあげるのが一番だと思いますね」

 と新川教授はいうのだった。

「松永先生は、最近では新作は書かれていないですか?」

 と訊かれて、

「ええ、そうですね、細々と書いてはいるんですが、発表するまでには至っていないんですよ。一応プロ作家ということではあるんですが、ここまで売れていないと生活もなかなかうまく行きません。小説関係のちょっとしたパートのようなことや、本当に誰でもできるようなアルバイトのようなことを適当にこなしながら、空いた時間で小説を書いているという感じで、小説家というのもおこがましいくらいです」

 と言った。

 小説に関係するアルバイトというと、自治体などが主催する、

「文芸講座」

 のようなもので、

「小説の書き方講座」

 ということを安いバイト代でやったりしていた。

 武芸コーナーにおいてある、

「文章の書き方」

 を、教材にしながら、自分の意見を軽く織り交ぜて話す程度の簡単な仕事だったり、それ以外では、下読みなどくらいであろうか。

 下読みというのは、数ある文学賞や、新人賞などに応募してきた作品の、第一次審査を行う連中のことだ。いわゆる、

「下読みのプロ」

 という人もいたりする。

 ただ、この場合は、自分が審査をするというよりも、作品の内容を見るわけではなく、文章としての体裁が整っているか、誤字脱字はないか、あるいは、違反行為、たとえば、文字数をオーバーしたり、ジャンルが違う作品を応募してきたりというものや、実際の文章体裁、段落が変わった時の一字下げであったり、三点ダッシュの使い方や、クエスチョンマークなどの後ろに一語空白が入っているかなどの、審査であった。

 よもや作品の内容などどうでもいいというのが、文学賞や新人賞の第一次審査である。これは、応募する人なら誰でも知っていて当たり前という程度の話であり、知らないのに応募してくること自体、無謀と思っている審査員もいることだろう。

 そんな小説でのアルバイトをしていると、次第に自分が情けなくなってくる。

「これをプロの仕事と言えるのか?」

 と思っていたが、

「自分の好きなことを仕事にしているんだから、いいじゃないか」

 という人もいるが、それは好きなことがどういうことかを知らない人だと思っている。

 というよりも、自分と考えが違うだけで、ひょっとするとそちらの方が一般論なのかも知れない。

 だからどうだというのだ。一般論がそんなに偉いというのか、少数派にだって正しい場合があることだって、どれほどたくさんあることか。

 仕事といってもアルバイト。決して表に出ることはない。

 高校生の頃までは、自分の好きなことというのは、表に出た時に、人生の誇りになるようなことだと思っていた。だから目標にするものは、表に出ることのできるものだった。一番手っ取り早いのは芸術だった。

 音楽にしろ、絵画にしろ、小説にしろ。芸術的なことは表に出やすいし、なによりも恰好いい。

 音楽や絵画は、自分には無理だということですぐに諦めた。

「じゃあ、どうして小説はあきらめなかったのか?」

 と言われると、正直ハッキリとはどうしてだか分からない。

 しいていうとすれば、

「本というものが好きだからかな?」

 ということであった。

 学校にある図書館のあの雰囲気が好きだった。本を読むことが好きだったわけではない。静かな、そして広い空間に、こすれる音だけが響いている。それは、本のめくれる紙のこすれる音なのだが、同じような音を、学校から美術鑑賞と称して出かけた県立美術館でも感じたことがあった。

 確かに図書館のように居心地はいい。しかも、図書館よりも数倍広い空間で、さらに音は響く。靴の乾いた音が一番響いていたが、図書館で紙のこすれる音と、どこが違うのかと感じたほどだったが、どうしても比べると、図書館には適わない。

 どこが適わないのかは分からないのだが、今から思えば、紙の匂いではなかったかと思うのだ。

 それに美術館は、そんなにしょっちゅう行けるものではないが、図書館は学校の中にある。毎日でもいける場所にあることで、すっかり自分に馴染んでしまった。

 そんな思いから、小説家を何となくだが目指すようになっていたのだ。

 そんなに簡単に新人賞が取れるなどと思ってもいなかったのに、それが数回の応募で、あれよあれよと賞を獲得した。一番信じられないのが自分だったことだろう。

 しかし、いきなりと言っていいほどのスピードで新人賞を獲得したのだから、有頂天にならない方がおかしいというものだ。

「俺って天災なんじゃないか?」

 と、真面目に考えていた。

 怖いものなしの気持ちが、有頂天を増幅させる。本当は一番陥ってはいけない壺に落ち行ってしまったのだろう。

 底なし沼のようなところに足を突っ込んでしまったことに気づいたのは、すでに口当たりまで身体が沈み込んでしまっていた頃だった。

 すでに、顔を動かそうものなら、口がふさがってしまう。動くことができないのだから、逃れることなどできるはずもない。

 そんな状態で沈んでいくしかない運命の中で、いつ、人生に諦めをつけるかということが、松永にとっての運命の分かれ道だった。

 割り切る場所によっては、この場面から逃れられるという予感があった。だが、どこかうろたえることにウンザリしている自分がいる。

「別に助かりたいなんて思わない」

 そう考えた瞬間、目が覚めた。

 夢を見ていたのだが、その瞬間、自分が有頂天な状態にいることを思い出した。

 思い出してしまうと、夢で絶望を割り切った瞬間があったことだけ覚えていて、その内容も、何を割り切ったのかということも覚えていない。

「怖い夢を見たな」

 と思ったのだが、ふと不思議に感じたのが、

「怖い夢だったら、忘れるはずはないんだけどな」

 という思いだった。

 ただ、それはあくまでも自分の勝手な思い込みであって、少し考え方は違っている

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