巫女戦士ナムリア(ふじょせんしナムリア)

@philomorph

第1話 旅立ち

 大陸中原の南に位置する大国アルテニア。「中の海」に面するその首都、アルテノワ。


 港湾を望む岬の上の丘にはこの国の人々が守護神と崇める知恵と戦いの女神、アルテナの神殿がそびえている。


 月のない夜であった。


 星明かりだけがあたりを照らしていた。


 神殿へと続く坂道をゆっくりと登っていく白い巫女の装束の人影がひとつあった。


 巫女とおぼしき人影は、やがて丘を登りきり、神殿の入り口に立った。


 巫女はひとりで神殿の中に入っていった。


 祭壇の横を通り過ぎ、地下に続く階段を下りていった。


 狭い階段をくぐり抜け、やがて神殿の最下層に到達した。

 

 一室の前で巫女は足を止め、扉を叩いた。


「祭司長様。ナムリア、参りました。」

 よく通る声で巫女が名乗ると、室内から返事があった。


「よく来てくれました、ナムリア。お入りなさい。」

 ややしわがれた女の声が答えた。


「失礼いたします。」

 ナムリアと名乗った巫女は祭司長と呼んだ女のいる部屋に足を踏み入れた。


 装飾の少ない、質素な作りの部屋だが、頑丈そうで年季も入っている。


 周囲の壁は隣室に通じる扉一枚を除き書架となっていて、魔法や占いなどの専門書がぎっしりと詰まっていた。ここがアルテナ女神に仕える祭司長の執務室なのである。


「ナムリア、お座りなさい。」

 祭司長はナムリアに自分の座っている机の反対側の椅子を指し示してナムリアを促した。


 ナムリアは黙ったまま祭司長の言葉に従った。


 燭台の明かりに二人の顔が映し出された。


 ナムリアは、理知的な黒い瞳と意志の強そうな濃い眉毛が印象的な、美人と言っていい顔立ちの若い娘だった。


 一方、祭司長も、初老にさしかかっているとはいえ、端正な面影をとどめている。なにより、その青い瞳は、深い叡智を感じさせる光を湛えていた。


 この大陸中原で一、二を争う大国であるアルテニアは、政治体制としては共和制を執っている。


 政治・軍事の最高権力者である執政官は国民の直接投票によっており、その任期は二年である。


 しかし、国名が由来するとおり、女神アルテナを国民を挙げて信仰するアルテニアの真の最高権力者は、アルテナ巫女団の祭司長であるといわれている。


 祭司長の任期は終身であるが、処女神アルテナに仕える巫女は終生独身を守らねばならないため、当然祭司長は世襲ではない。


 ただし、慣例として次代の祭司長は現祭司長の指名によっている。


 若い巫女ナムリアは、そういうアルテニアの事実上の最高権力者であるアルテナ祭司長と向かい合っているのだった。


「ナムリア、あなたは何歳におなりですか?」


「はい、今年で二十五になりました。」


「もうそんな年に・・・知らず知らずのうちに立派になったものですね。あなたが初めて修道院に来たのは確か五つの時でしたのに・・・」


 ナムリアには祭司長が何かを言い出すことをためらって話をそらしているように感じられた。


「あの・・・祭司長様、今夜はどんなご用で私をお呼びでしょうか。」

 ナムリアは祭司長の目にまっすぐ視線を合わせたまま問うた。


 祭司長はしばらく黙ったまま、視線を落として考え込んでいるようであったが、やがて顔を上げて再びナムリアと視線を合わせた。


「昨日、アルテナ女神の託宣を授かりました。」

 突然増した祭司長の気迫の強さにナムリアはたじろいだ。


「・・・『北からの脅威が大陸を席巻するだろう』と。」

 祭司長は抑揚のない口調で言った。


 ナムリアは背筋に冷たい戦慄が走るのを覚えた。


「北から?またマラトとの戦争が起こるのでしょうか?」

 ナムリアは問い返した。


 マラトは中原最大の大国で過去数百年に渡り、何度もアルテニアと戦いを交えている。


「・・・マラトではありません。今度の敵ははるか北の果ての地からやってきます。」

 祭司長は答えた。


「北の果て?まさか・・・ヒュペルボレアスから?」

 驚きを込めてナムリアは言った。


「おそらく・・・託宣では名前までは授かりませんでしたが・・・」

 祭司長は再び視線を落とし、ため息をひとつついた。


 ヒュペルポスは中原の北の果てに広がる大国であるが、隣国とほとんど国交を絶っており、過去数百年、他国と戦争をしたことはない。


「あの、その時期はいつ頃になりましょう?」

 ナムリアは不安を感じながら問うた。


「『遠くはない』とだけ。」

 祭司長はぽつりと言った。


「祭司長様、私をお呼びになったのは、そのことと関係があるのでしょうか?」

「・・・そうです。あなたに北に行ってもらいたいのです。」


「北に?ではヒュペルボレアスへ?」

 ナムリアは驚いて問うた。


「託宣にあった、『北からの脅威』がそれを指すのならそうなりましょう。けれど、その前にまず、マラトをはじめとする何カ国かと同盟を結ぶ交渉を頼みたいのです。」

 祭司長は強い意志を感じさせる表情を取り戻して答えた。


「マラトと同盟を!そんなことができるでしょうか。」


「ヒュペルボレアスの動員力は二十万とも三十万とも言われますが、たとえ二十万としても、マラト同盟や我がアルテニア同盟の陸軍力、それぞれ約十五万を凌ぎます。

 つまり、今回の敵には、我がアルテニアだけでも、マラトだけでも勝つことはできないでしょう。ただ一つの方法は両国が同盟を結び、ともに戦うことだけなのです・・・いえ、マラトだけではありません。できるだけ多くの中立国とも同盟を・・・執政官殿との合意は得てあります。使者としてあなたに行ってもらいたいのです。」


「・・・」

 ナムリアは言葉を失った。


 アルテニアとマラトは過去数百年に渡って数十回も戦火を交えてきたのだ。


 ナムリアの父も、二十年あまり前、マラトとの戦いで戦死したと聞かされていた。


 アルテニアとマラトが同盟を結んだことは過去一度もない。


 なお、中原の中小国の大部分は、アルテニアとマラトのいずれかと同盟を結んでおり、アルテニアとマラトの争いは、ほとんどの場合、それら同盟国を巡って戦われてきた。


「祭司長様の仰せなら、私はどんなことでも従うつもりです。ただ、この度のことばかりは私の力の及ぶところとは思えません・・・」

 しばらく考えた後、ナムリアは答えた。


「大任であるのは承知しています。だからこそ、あなた以外にこの役目を果たせる巫女はアルテナ巫女千名の中にも他に見あたらないのです。」

 祭司長は微笑して答えた。


「祭司長様・・・仰せに従います。」

 ナムリアには他に返す言葉がなかった。


「よろしい、ナムリア。では、お入りなさい、テミスト殿。」

 祭司長は、ナムリアに頷くと、後ろを振り向いて呼びかけた。


 すると隣室に通じる扉が開き、軍服を着た若い長身の男が現れた。精悍な体つきの美男子で、参謀の肩章をつけた軍服の着こなしも板に付いていた。


「アルテニア陸軍参謀本部次席参謀、ファエリス・テミスト少佐です。」

 男は拝跪の姿勢をとって名乗った。


「お顔をお上げなさい。テミスト殿。ナムリア、このテミスト殿があなたに同行します。」

 祭司長は言った。


「テミスト殿、お初にお目にかかります。アルテナ女神一級神女、ナムリアと申します。」

 そう挨拶したナムリアは、テミストと名乗る男が現れても驚きはしなかった。


 この部屋に入ったときから、隣室に何者かがいる気配に気づいていたからだ。

「こちらこそ、よろしくお願いいたします、ナムリア殿。」

 テミストはまだ膝をついたまま答えた。


 祭司長に限らず、アルテナ女神の巫女は一般人から特別な尊敬の念を持って見られているのだ。


「テミスト殿、お立ちなさい。ナムリアとあなたの二人に知らせておかねばならないことがまだあるのです。」

 祭司長に言われてテミストはようやく立ち上がった。


「は、仰せのままに。」

 三人の相談は深更まで及んだ。


 相談が終わり、ナムリアが祭司長から何通かの書状を受け取ると、祭司長はナムリアを残し、テミストに退室するように命じた。


 二人だけになると、祭司長は謎めいた表情でナムリアに告げた。


「先ほど言わなかったアルテナ女神の託宣の続きをあなただけに教えておきます。『その者達は三人で旅立ち、七人で還るであろう』と。」

「三人・・・私とテミスト殿と・・・他に誰が?」


 ナムリアの疑問には答えず、祭司長は言葉を継いだ。

「信頼のできる仲間を集めなさい。彼らが我が国を護る力になってくれることでしょう。アルテナ祭司長とアルテニア執政官の名の下に、有能な人材に出会えば、自由裁量で登用することを許します。ただし、『ある者には気を許すな』と。それがアルテナ女神の託宣の最後の言葉です。」


「『ある者』?それは誰のことなのでしょうか?」

「はっきりとは告げられませんでした。あなたが旅の途上で出会う何者かのことかも知れません・・・」

 祭司長の話はそれで終わった。


 神殿を出たナムリアの頭上には、秋の星座が煌めいていた。


 翌日、ナムリアとテミストは昼過ぎまでかかって旅支度を調えた。


 テミストは最初から私服で待ち合わせの場所に現れた。精悍な長身によく似合った旅装であった。


 一方、物心ついたときから巫女の装束以外着たことがなかったナムリアはこの大国アルテニアの首都、中原でも最大の大都市のアルテノワに育っていながら、同年代の若い娘が当然するようなおしゃれと全然縁がなかった。


 アルテナの巫女は普段巫女の装束しか着ないのだ。


 今回の旅は隠密行であり、身分は隠さねばならない。私服を入手する必要があった。


 ナムリアはアルテノワ市街の商店街で衣服や靴などを買い集めた。


 閉口したのは、巫女姿のナムリアに商店街の人たちが代金を受け取ろうとしなかったことだ。


 やむを得ず、ナムリアはまず最初の着物屋でテミストに代わりに服を買ってもらい、近くの公衆便所でその服に着替え、巫女の装束は袋にしまって町人のふりをして買い物を続けた。


 アルテナ巫女は国民から深い尊敬を受けており、誰もが進んで施しをするのだった。


 ナムリアは、テミストに助言を求め、『なるべく目立たない町娘に見える衣装』を探した。ナムリアが巫女であることを知らぬ二軒目の着物屋は、ナムリアの美貌を褒めそやし、流行の服を奨めようとしてナムリアを困らせた。


 ちなみに巫女の頭巾を脱いだナムリアの髪型は少年のような断髪である。


 無理矢理試着させられて、テミストからまでも、

「よくお似合いです。」

 とおだてられて、ナムリアは自分でもまんざらでもないと思ったのを恥じた。


 結局ナムリアは旅の目的を思い出し、克己心をふるってその衣装を買うのはやめ、もっと地味な動きやすいものを選んだのだった。


 商店街でその他旅に必要な品々を揃えた二人は港に近い船宿に向かった。


 二人は翌日、アルテノワの北東にある同盟国ラステニアの首都ラステノワに船で向かう予定である。


 その後は陸路でマラトの首都、ディストートに向かう予定であった。その後のことは・・・ナムリアにもまだわからない。


 ともかく、大都市であるアルテノワでは、二人のそれぞれの宿舎から港までは歩いて数時間かかる。そこで港近くの宿に泊まって、翌日早朝出航する客船に乗る予定であったのだ。


 二人は別室に別れて泊まった。


 食事を食堂で一緒に摂った後、ナムリアは自室に戻り、祭司長の言葉を思い返し、旅の日程に思いを馳せていた。


(『三人で旅立つ』・・・『三人』ってどういう意味かしら・・・私とテミスト殿と、他には?それに気を許してはならない『ある者』とは・・・)

 ナムリアは祭司長が最後に言った言葉を反芻していた。


 その時、ナムリアは階下に人の気配を感じた。その気配は足音を殺してはいたが、確実にナムリアのいる二階を目指して登ってきて、ナムリアのいる部屋の前に止まった。


 しかし、扉には鍵がかけてあった。ところが、まもなく、かちゃかちゃと音がしたかと思うと、鍵は外された。


「どなたですか?」

 ナムリアが言うと、扉がすっと開いて中年男が一人、影のように素早く入っていた。


 手にしている短剣の刃が照明にきらめいた。


「すまないが、しばらく黙ってじっとしていてくれないか。」

 男は右手に持った短剣を椅子に座ったナムリアの首筋に突きつけて言った。


 左手には古びた旅行鞄を抱えていた。


「あなたはどなたですか?」

 ナムリアは落ち着いて男に尋ねた。


「肝の据わったお嬢さんだな・・・悪いがあんたに人質になってもらう。」

 男はナムリアに立つように促した。


「人質?あなたは官憲にでも追われているのですか?それとも誘拐なら私は銅貨一枚にもなりませんよ。」

 ナムリアは素直に立ち上がり、尋ねた。


「ふっ、俺としたことがドジを踏んじまってな、ここの近くのアルテニア陸軍工廠に忍び込んで、設計図を盗んだのはいいが、憲兵に見つかって追われているところさ。まもなくこの宿にも追っ手が現れるだろう。」

 男は苦笑を浮かべていった。


「あなたは泥棒さんなのですか?」

「泥棒といえばまあ、そうだが、金銀財宝のたぐいを盗むのは俺の趣味じゃあない。中原を旅して各国の軍事機密、政治機密といったたぐいの情報を盗んで他国に売るのが俺の仕事さ。」


「では、あなたは間諜なのですか?」

 ナムリアは興味深げに問うた。


「間諜とはちょっと違うな。俺は特定の国家に属しているわけじゃない。国から国を旅して、それぞれの土地で商売のタネを仕込んで他の国に売るのが俺のやり方だ。」


「アルテニアの陸軍工廠から何を盗んだのですか?」

「あんたに言ってもわかるまいが、アルテニア陸海軍の共同計画で、『陸上軍船』というとんでもない新兵器の情報さ。この鞄の中にその設計図が入っている。」

 男は左手に持っている鞄を示した。


「ただでさえ警戒厳重と言われる陸軍工廠で、そんなたいそうな軍事機密をよく盗み出せたものですね。」

 ナムリアは感心したように言った。


「俺もちょっとばかし無謀なことをしたもんだと後悔しているよ。官憲に追われたのは初めてじゃないが、今回ばかりは進退窮まったかもしれないな。本来なら人質を取ったりするのも俺の主義じゃあないんだぜ。」


 ナムリアが抵抗する気配を示さないので、男は短剣をナムリアから離した。


「おっしゃるとおり、憲兵隊がこの宿にも近づいているようですね。」

「?・・・耳がいいんだな。おれも耳には自信があるんだが・・・」


実際はナムリアが悟ったのは聴覚によってではない。気配を直感的に察したのであった。


「私を人質にしてどうなさるおつもりですか?」

「小舟を用意させてアルテニア国外に脱出する。あんたには途中まで・・・ドメツにでも同行してもらうが、身の安全は保障する。素直についてきてもらえればいいが・・・手荒なことはしたくないからな。」

 男はナムリアに懇願するように言った。


 ドメツはマラトと同盟を結ぶ港湾都市である。


(この人は『気を許してはならない』ひとではない・・・)

 ナムリアはそう直感した。


 ナムリアは微笑を浮かべて答えた。

「あなたは優しい人なのですね・・・けれど、あなたにとってもっと安全で確実な脱出法があるのですけれど、私に任せていただけないでしょうか?」


「そんなことができるのか?しかし、いったいどうやって?」

 男はいぶかしげに聞き返した。


「その説明はともかく、いよいよ憲兵隊がこの宿に入ってくるようですよ。考えている時間はあまりないと思いますが・・・」


 ナムリアは冷静に答えた。男の耳にも、男たちの喚声と、靴音が近づいてきているのが聞き取れた。


「・・・わかった。あんたを信じよう。」

 男はため息とともに言った。


 まもなく、階段を上る靴音が響いてきた。


「名前を名乗り合っておきましょう。私はナムリア。あなたは?・・・偽名でもかまいませんが。」

「俺はサマルド・ルグレン。本名だ。」


 男が名乗ってまもなく、部屋の扉が激しく叩かれた。


「どなたですか?鍵はかけていませんよ。」

 ナムリアがよく通る声で答えた。


 間を置かず、数人の憲兵がどやどやと入ってきた。


「夜分失礼する。今夜、陸軍工廠に入った賊の捜査で協力願いたい。」

 憲兵の班長とおぼしき男が述べた。


「私はナムリア。明日の朝の船で出立するため、この宿に泊まっております。供の者が別室におりますが。」

 ナムリアは落ち着いて答えた。


「その、奥に立っている男は何者ですか?」

 憲兵がうさんくさげな目つきでルグレンを見た。


「この者は、この度の旅の案内人として、私が雇った者です。詳しい旅程について相談をしていたところです。」


「そうですか。念のためにお二人の持ち物を検分させていただくがよろしいか。」

「あいにくですがお断りします。」

 ナムリアはぴしゃりと言い放った。


「そうはおっしゃられても、我々にも任務が・・・」

 押し問答になりかけたとき、戸口にテミストが現れた。


「ナムリア殿、何事ですか?」

「ああ、テミスト殿、やはりこのルグレン殿に案内人になってもらうことに決めましたわ。」

 ナムリアはそう言って後ろに立っているルグレンを指し示した。


「え、は、はあ、そうですか・・・」

 事情がわからぬまま、テミストは曖昧に答えた。


「あの、テミスト様とおっしゃると、陸軍参謀本部次席参謀の・・・?」

 憲兵の班長は驚きを隠せない顔でテミストをまじまじと見た。


「いかにもそうだが、今は忍びの身、どうか内密にして置いてほしい。」

 テミストは高級将校の威厳を覗かせて憲兵に言った。


「では、このお嬢様がたは?」

「詮索しない方が身のためだ。」


「は、し、失礼いたしました。全員、他を当たるぞ!」

 憲兵たちはどやどやと部屋を出ていった。


 部屋にはナムリアとテミスト、そしてルグレンの三人だけが残された。


「テミスト殿、おかげで助かりました。」

 ナムリアは言った。


「ナムリアよ、あんた俺を助けるのに、この参謀殿が途中で入って来るのを見越していたな?」

 ルグレンがナムリアに問いかけた。


「あら、隣の部屋にいれば、この部屋で何かあれば駆けつけてくるのは当然でしょう?」

 ナムリアは微笑して答えた。


「ナムリア殿、どういうわけですか、この男は何者です?」

 テミストはナムリアを問い詰めた。


「この方は、先ほど短剣を構えてこの部屋に入ってきた人です。」

 いたずらっぽい微笑を浮かべてナムリアは答えた。


「な、なんですって?」

 テミストは驚愕して叫んだ。


「ま、待ってくれ。このひとを傷つけるつもりはなかったんだ。テミスト参謀殿。」

 ルグレンは両手を広げて慌てて答えた。


 ルグレンはナムリアに語ったのと同じことをテミストにも語った。


「・・・それではやはりこの男を憲兵に引き渡すべきだったのではありませんか?」

 テミストはナムリアに言った。


「お待ちください。この方は、中原諸国を旅して各国の事情に通じていらっしゃいます。先ほど申したとおり、この方に案内役になっていただければ、私たちとしても好都合ではありませんか?」

 ナムリアは答えた。


「・・・ルグレンと言ったな。貴様、ヒュペルボレアスへ行ったことはあるか?」

 しばらく考えた後、テミストはルグレンに尋ねた。


 その言葉を聞いた途端、ルグレンは顔色を変えた。


「あんた達、ヒュ、ヒュペルボレアスに行くつもりなのか!」

「行ったことがあるのか、ないのか?」

 長身のテミストはルグレンを上から睨め付けるようにしながら言った。


「・・・あ、ある・・・一度だけだが・・・もう十二年も前のことだ。」

 ルグレンはうろたえながら答えた。


「・・・そうか、あるのか・・・ナムリア殿、私もこの男を案内役に雇うことに賛成します。途中で逃げ出さないかが心配ですが。」

 テミストはナムリアを振り向いて言った。


「あんた達は命の恩人だ。裏切りはしないさ・・・それより、お嬢さん、陸軍参謀をお供に連れているあんたの正体、何者だ?」

 ルグレンはナムリアを向いて尋ねた。


「そうですね。あなたはもう、仲間なのですから、お教えしてもいいでしょう。私はアルテナ女神の巫女です。」

 ナムリアはおだやかな表情で答えた。


「ア、アルテナの巫女?あきれたな。アルテニア参謀本部の参謀とアルテナ巫女が二人で忍び旅だって?舞台劇の『退役将軍漫遊記』じゃああるまいし。しかも行き先が・・・」

 ルグレンはナムリアの言葉を聞いて、驚きあきれ、うろたえた表情で言った。


 アルテナ巫女の名は異国人のルグレンにも強い感銘を与えたようだった。


「・・・旅の行く末のことはゆっくり考えましょう。ひとつだけ確認しておきたいことがあります。私達三人は『旅の仲間』としてこの旅の間、ずっと運命を共にしなければならないということです。」


 ナムリアは一転してきまじめな表情で二人に諭すように語りかけた。


「私はナムリア殿にすべてをゆだねる覚悟です。」

 テミストは厳かな口調で宣誓するように言った。


「乗りかかった船というやつだな・・・俺もあんたを信じるよ、巫女様。」

 ルグレンはため息をついていった。


「二人とも、ありがとうございます。ただし、この旅の間は、やむを得ない場合以外、お互いの身分は秘密にすることを守ってください・・・それよりも、ルグレン殿。」


「な、なんでしょうか?」

「この鞄の中身を返して来てくれませんか?」 ナムリアはルグレンの鞄を指さして微笑した。


「この中身を・・・」

 言うまでもなく、その中身は陸軍工廠から盗み出された設計図である。

「しかし、今から工廠に戻ったのでは、捕まえてくれと言うようなものでは・・・」

 ルグレンは困った顔で言った。


「その計画は陸海軍の共同だとおっしゃいましたね?」

 ナムリアはそういって悪戯っぽく笑った。


 翌早朝、港の船着き場に立つナムリア達三人の姿があった。

 そこに駆け寄ってくる憲兵が一人あった。


 昨夜、ナムリアの部屋に入ってきた憲兵の班長であった。


「お三方、昨夜は大変失礼いたしました。」

 憲兵はテミストの前に立ち、敬礼した。


「頼むからもう、我々に構わないで貰えないか。」

 テミストは辺りを見回して—人影はまばらだったが—小声で言った。


「いえ、失礼とは思いましたが、昨夜の事件が無事解決いたしましたので、御出立前に報告申し上げようと思いまして。」


「そうか。犯人が捕まったのかね?」

「いえ、そもそも犯人などいなかったのです。今日未明、海軍工廠の担当者の机から、紛失したと思われていた書類が発見されました。陸軍の担当者の勘違いだったようで、大変申し訳ありません。不審者の正体は分からずじまいでしたが、見間違いだったのかも知れません。いずれにしろお騒がせいたしました。」

 憲兵は深々とお辞儀した。


「そなたに責任はあるまい。ご苦労だった。では、我々は出航の時間が近いのでそろそろ失礼する。」

 テミストは努めて無表情を保ったまま憲兵に答えると、きびすを返して船着き場に向かった。


 ともに歩くナムリアとルグレンは内心、笑いをかみ殺すのに必死だった。


 ラステノワ行の船は時間通りに出航した。太陽暦で十月三日のことだった。


 ナムリアは港の端にそびえるアルテナ神殿をいつまでも見つめていた。丘の上には紫衣の人物がひとり見送っていた。

                第一話了

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