なあ、ここにいるんだろう――

 病室に集まったやおよろズの面々が、陽向の枕元で発光する形代を興味深そうに眺めている。最初に視線を外したよっちんが、「なるほどね」と呟いた。すでに窓の外は紅く染まり、漆黒と混ざっている。


「千晃氏、よく聞いてぇ。僕の見立てが正しければ、今から一時的に陽向氏は目を覚ます。一瞬かもしれないし、数分くらいは保つかもしれない」


 間延びした声ではあるが、よっちんにしては早口で紡がれる言葉。陽向が目を覚ます。それは俺が夢にまで見た奇跡である。だが、よっちんの言葉には、手放しでは喜べない含みがある。


「その間に、僕達が忘れている何かを引き出してほしいんだ。ここで失敗してしまうと、僕達はもう――」


 よっちんの言葉が途切れる。陽向に視線を移す。


「……ちあき、にい」


 小さな唇が、微かに動いた。焦げ茶色の瞳が、確かに開いた。


「陽向!」


 俺は感情を抑えきれず、陽向の頬に触れた。陽向は薄く笑うようにして、表情を動す。手のひらに、温もりが伝わった。


「……デリ、ちゃんは?」


 刹那、脳内で何かが弾け飛ぶような音がした。形代が、太陽のように病室を照らす。目を瞑らなければ耐えきれないほどの光量と共に、記憶が奔流する。吉田神社の大元宮での出会い、朝日を眺めながら交わした会話、加太で共有した思い出。その、何もかもが、涙と共に溢れ出してくる。


「デリ子は、デリ子は……あとでここに来るよ」


 俺の言葉に安堵したのか、陽向はまた目を閉ざしてしまう。よっちんが言う通り、本当に一瞬の出来事だった。だが、俺の胸中に不安や絶望は無い。陽向に「おやすみ」と告げてから、よっちんの顔を見やる。


「よっちん。どうして、目を覚ますとわかったんだ」 

「安井金比羅宮の形代と、僕達の御利益は相性がいいからねぇ。一瞬の奇跡なら容易いよ」

「一瞬ということは、俺たちはまたデリ子を忘れてしまうのか?」

「うん、恐らくね」


 よほど俺が間抜けな顔をしていたのか、よっちんは「仮説ではあるけど」と前置きをして、ぽつりぽつりと語り始めた。


「陽向氏って、昏睡状態で現実から切り離されていたでしょ。だから、デリ子氏に対する強い信仰心を抱いたままだったのかも」


 信仰心を抱く陽向が、デリ子の名前を呼んだ。それが俺達に伝播したというのか。いや、そもそも、陽向はデリ子を神として信仰していたのか。俺は必死に記憶を振り絞る。


 ――デリちゃんって本当に神様なの?


 陽向とデリ子が、初めて出会った日の会話。


 ――そうですよ。恋愛の運を司ってます。


 カップラーメンを片手に、威張るデリ子。


 ――えー、すごい!

 ――ふふふ。信仰してください。


 ああ、そうだった。確かめるまでもなかった。


「そして、陽向氏の信仰心が僕たちに伝播した。陽向氏が目を覚ました理由としては、縁結びの御利益が一時的にプラスに振り切ったんだと思うよぉ」


 良縁を切る状態に変化した御利益により、陽向は事故に遭ってしまった。裏返ったマイナスの御利益が雁字搦めに絡みついているのなら、デリ子自体をどうにかしなければ、解決しないのだろう。


「千晃氏が形代を持ったまま陽向氏のお見舞いをしなければ、発生しなかった奇跡だよぉ。いや、ここに訪れたこと自体が、縁結びの御利益に導かれていたのかもしれないけど……」


 よっちんはぶつぶつと可能性を提示しているが、今はどうでも良かった。過程より、結果である。俺はやおよろズの面々と、みほろに目配せをした。


「要するに、デリ子を救うラストチャンスが生まれたってわけだ。意地でも見つけて、この形代を渡す。信仰心を集める方法については、死ぬ気で探す。これでいいんだよな?」


 各々が、力強く頷く。いつのまにか、月の光が差し込む時間帯になっていた。面会が可能な時間は過ぎている。ひとまず病室を後にして、デリ子を探すことにした。久しぶりに聞いた陽向の声を、耳に焼き付けながら。



 手分けをして、京都の町を捜索した。俺はひとまず自宅に戻っている。もしかすると、陽向の部屋で膝を抱えているかもしれないからだ。御影通りを流れる車のヘッドライトを横目に、自宅への道を駆けていく。耳に挿したイヤホンからは、デリ子が好んだシティポップが流れている。夜を跳躍するように、俺はがむしゃらに走った。デリ子は泣いているのだろうか。存外たくましく、アイスを片手にソファで寛いでいるかもしれない。


 ふてぶてしい顔を思い浮かべると、自然と口元が緩んでしまう。角を曲がり、自宅へと到着する。扉を開き、呼び掛けてみるが反応は無い。靴を脱ぎリビングに向かう。電気を点けると、テーブルの上にはパンくずが散乱していた。


「デリ子、いるのか?」


 相変わらず反応は無いが、流し台にカップ麺の容器が放置されているのを認めた。残ったスープに指を浸けてみると、まだほんのりと温かい。俺は小走りで陽向の部屋に向かう。が、デリ子の姿はない。ベッドのシーツが乱れていたので、さっきまでこの家に居た可能性が高い。


「デリ子、どこだ!」


 何度もデリ子の名前を呼ぶが、薄暗い廊下に反響するばかりだ。俺は残された可能性を潰すべく、弾けるように家から飛び出した。いつもは近く感じる道のりが、やけに遠く感じた。信号待ちの時間が、煩わしかった。北白川の静寂が、何かの前兆のように俺を包み込む。大丈夫だ、デリ子は大元宮の社殿に居る。そう信じ、ただ前を向いた。


 吉田神社の大鳥居が視界に飛び込んでくる頃には、肺が大量の酸素を求めていた。一度立ち止まり、空を仰ぐ。空気を吸い込み、鼓動を落ち着ける。ふと、大鳥居の足元を見やると、一羽の鳩が呑気に佇んでいる。柳高校で、鳩の群れに襲われていたデリ子の姿を思い出す。鳩なんてどこにでも居るのに、どうしてもあいつと結び付けてしまう。


 あいつ?


 途端、寒気が襲い来る。俺は誰かを探してここまで来たのに、その誰かを忘れてしまっている。頬を叩き、短く息を吐く。大丈夫だ、まだ目的は忘れていない。スマートフォンと月明かりだけを頼りに、身体で闇夜を切り裂いていく。社殿に通じる門は、丹色の柵で閉ざされていた。俺はいつかのように乗り越える。ほっと息を吐きながら、地に飛び降りる。木々が揺れ、身を貫くような風が吹きすさぶ。月の光を浴びて、ぼんやりと輝く八角形の社殿。自分の足音が、玉砂利を踏みしめる音に変わる。


「ここに、いるんだよな」


 ぽつりと呟く。反応は無い。


「なあ、ここにいるんだろう――」


 名前を呼ぼうとしたのに、言葉が紡げない。

 かつて神だったものの名前。大切な、妹の名前。


「出てこいよ、なぁ……」


 俺と陽向にとって、とても大事な。


「なんで、なんで思い出せないんだよ!」


 俺は慟哭しながら、その場に崩れ落ちる。さっきまで、確かに覚えていた。明確な意思を持って、ここまで来た。それなのに、もう何も思い出せない。誰を訪ねてきたのかも、流れてくるシティポップの曲名さえも、何も、何も、何も。


 頭を掻きむしる。手掛かりはないかと、スマートフォンを漁る。涙で滲んで画面が歪む。何度も目を擦り、写真をスクロールする。桃色の髪をした女の子の姿が、満面の笑みをこちらに向けている。知らない笑顔なのに、どうしてこんなにも、胸が抉られるのだろう。


 ふと、玉砂利の音が一つ鳴る。


 俺は慌てて周りを見渡すが、誰の姿もない。それなのに、玉砂利の音は近づいてくる。普段なら恐れ慄いていただろう。だが、俺はその足音の主を知っている気がした。玉砂利を踏み鳴らす音が、俺の隣で停止する。相変わらず姿は見えない。手を伸ばしても、空を切るばかりで、何も掴めない。俺の涙と混じり合うように、足元の玉砂利に雫が落下する。足音の主も、泣いているのだろう。何故かはわからない。なんとなく、そう感じたのだ。


 何も手掛かりはないのか。


 スマートフォンのタブを切り替えて、メモ帳を開く。そこには、かつての俺が記入したであろうメモが残されている。内容に覚えはなく、「デリ子」なる人物について連連と記されている。


「デリ子、デリ子……」


 うわごとのように名を呟く。玉砂利の音が激しさを増した。


 ――認識できませんし、触れられません。


 誰かの声が脳内に響いた。少し舌足らずで甲高い、女の子の声だ。胸の底が、マッチの火で灯されたようにじんわりと暖かくなる。


 ――そのうえ、人間の記憶から抜け落ち、いずれ死に至ります。


 俺はこの声の主を知っている。俺はこの声の主を探している。半ば確信めいた閃きと共に、スマートフォンに目を落とす。


 デリ子なる人物の名前。俺は。


 ――文献には残るかもしれませんが、ただの文字の羅列に意味なんてありません。


 その瞬間、強い風が吹いた。胸の底に灯された火を吹き消すような風だった。俺はぼさぼさになった髪を手櫛で戻しながら、辺りを見渡す。誰もいない、脳内で流れるシティポップ以外、何も聞こえない。


 この曲は、俺の部屋で馬鹿みたいに流れていた。けれど、誰が流していたんだろうか。


「そもそも、俺はなぜこんな場所に来たんだ……?」


 問い掛けだけが、夜に溶け出した。


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