第二回「化粧」

 私が化粧を覚えてから、もう何年が経つのだろうか。高校時代、クラスメイトに勧められて始めたのが最初の一歩だった。あの頃はまだ自分の顔に何を塗ればいいのかも分からず、何もかもがまるで未知の領域だった。


 最初の化粧品を手に取った時、胸の奥にはわくわくした気持ちが広がったのを覚えている。


 鏡の前に立ち、ゆっくりとファンデーションを顔にのばす。初めて見る自分の異様に真っ白な顔に、驚きと緊張を半々ずつ感じたものだ。


 だが、次第に慣れていき、自分の顔が変わる様子を見る度に、新たな自己表現の可能性に胸を躍らせていた。あの頃は何もかもが初心者。メイクのノウハウを覚えたのがきっかけで人前に立つ自信を得て、やがてはバンド活動を展開してゆくことになるのだが――。


 それはまた後の機会に語るとしよう。


 当時の私には、自信がついた以上に大きな学びと発見があった。化粧とはすなわち、自己を演出する一つの手段であり、個性を表現するためのツールなのだと感じたことだ。


 リップスティックの色を選び、アイシャドウで目元を彩り、自分の魅力を引き出す。その単純かつクリエイティブな作業を行うことで、自身の内面から溢れる自信や美意識を外面に映し出すことができる。


 確か、あの頃は化粧の技術を磨くために、YouTubeのチュートリアル動画を観るのにに没頭していたっけ。


 化粧筆の種類からコンシーラーの使い方、眉の整え方、睫毛の上げ方などなど、ぎこちない手つきで徹底して練習した。


 そうして自分の顔に対する理解が深まる過程で、またひとつの気付きを得た。化粧とはただの外見の装飾ではなく、自己探求や表現の手段であることに。


 化粧は現代人だけの文化にあらず。紀元前4,000年頃の古代エジプト文明では既に鉱石をこまかく砕いた粉末を目の周りに塗り、目元を強調する“アイライナー”や“アイシャドウ”の文化が存在していたとされる。


 日本でも、平安時代に化粧が男女を問わず、宮廷における絶対的な必須事項だったことは多くの人が知っている通り。


 あの時代は照明の技術が発達していなかったため、薄暗い部屋でも顔がよく見えるよう白塗りが奨励されていた。それはやがて利便性の問題を超え、貴族社会の中で一種の作法と化していった。国風文化が花開いた後、時代が進む中で社交の場や儀式における礼儀作法として慣習付けられていったのだ。


 あなたは今川義元公をご存じだろうか。私が敬愛してやまない、室町時代末期に駿河・遠江・三河の三か国を収めた戦国武将である。


 ステレオタイプ的なイメージかもしれないが、義元公は京を中心とした公家文化と共に、化粧を好んでいたことで知られている。私の中で義元公といえば「平安装束と立烏帽子に白塗りメイク」だ。2017年の大河ドラマ『おんな城主直虎』にて、春風亭昇太師匠が怪演した姿を覚えておられる方も多いかもしれない。


 通史において、義元公が桶狭間の戦いで敗れた、所謂“やられ役”として浸透している所為もあってか、そうした化粧は義元公の軟弱さの象徴として誹られることも多い。


 だが、私はそうは思わない。義元公にとって化粧への嗜好は“強さ”のひとつであり、自分らしさを表現するすべのひとつであったからだ。


 今川家は清和源氏の一族であると同時に、足利将軍家にも連なる高貴な家柄。義元公はゆくゆくは足利に代わり自らが天下を獲らんと志していた。それは天文22年に『今川仮名目録』に21条を追加し、室町幕府からの独立・離反を表明したことからもはっきりとうかがえる。


 天下を獲る、すなわち上洛を目指す義元公が。非常に重んじていたのはイメージ戦略。自分あるいは今川一族が「弱体化した足利氏に代わる武家の棟梁」であると広く印象付けるため、積極的に京都の文化を身に着け、また取り入れていったのだ。


 歌人の冷泉為和を招聘して歌会を開いたり、本拠地の駿府で京都に模した都市造営を行ったり、軍事のみならず文化の面でも都の将軍家と同格以上になろうとした。


 中世的な価値観が次々に崩れていった戦国乱世といえど、古めかしい権威が依然として信仰を受けていた時代。単に軍事力を強化するだけでは及ばぬと考えていた義元公の“強さ”が、そこにはあった。


 また、政治的戦略だけに留まらず、義元公は自身の個性や美意識を示すためにも化粧を活用していたと私は思う。


 当時の武将たちは華やかな甲冑や家紋、旗印を身に纏うことで他者に自己の存在感をアピールしていた。義元公にとっては化粧もその一環であり、彼自身の内面から溢れ出る魅力や気品を外面に反映させる手段だったと考えられる。


 個性や美意識を高め、戦場で相まみえる敵将や征服地の民衆たちに自身の存在を印象づける。そのためにこそ、義元公は化粧を積極的に取り入れたのだろう。


 今川義元という御仁の中で、化粧は無くてはならない大切な自己表現であったのだ。


 そんな義元公と比べるのもおかしな話だが、化粧は私にとっては日々の生活における一つの儀式となっている。


 朝の準備時間に鏡の前で静かに化粧をする時間は、自分自身と向き合う大切な瞬間である。戦国武将風に云えば出陣前の儀式、三種の肴や三献にも相当しようか。


 鏡に映った自分を観て「きょうも一日頑張ろう」と思う。それは自己愛の表現であり、自分自身を守り、大切にすることの一環でもある。


 よほどの事情にでも襲われない限り、私が化粧をせずに外へ出ることは無い。コンビニへ行くにもきっちりとメイクを施し、アイライナーまで完璧に引いているくらいだ。初めて化粧に触れた高校生の頃から、ずっとそうだった。


 すっぴんでの外出は本当に躊躇われる。誰にも見られたくないし、見せたくもない。それはある意味では化粧という行為に依存している証左なのかもしれないが、別に苦悩したことは無いし、これからも私は変わらないだろう。


 ただ、マクロな視点で論ずるならば、現代社会を生きる日本の女性の中にあって、化粧が一種のかせと化してしまっているのもまた事実。


 社会人となった女性が公の場にノーメイクで出ようものなら忽ち「常識知らずだ」と非難を受け、基本的な化粧の作法を会得しておくことは大人として当然のルールとされる。就活戦線においても、メイクの善し悪しは女子学生の運命を左右する重要な要素。私がかつて働いていた職場でも、選考会の終了後に「さっきの子はアイラインがおかしかったよね」と嘲笑混じり陰口を叩く面接官の姿を見たことがある。


 就活における化粧の主目的とは、身だしなみを整えること。男子学生のそれがせいぜい顔の油を取ることで済んでいるのに対し、女性だけが丹念なメイクアップを強制されるのは明らかな偏りであろう。これは男女の雇用機会均等の観点から考えれば悪しき実情であり、公平公正な社会の実現にて適切なものでないことは言うまでもない。


 だが、現実問題として、女性は化粧をおぼえなくては世を渡れないのだ。悲しいかな、これは反ルッキズムの取り組みが世論の一翼を形成しつつある昨今でも揺るぎはしない。社会における絶対的な規範になってしまっている。


 にもかかわらず、成年前の女性、とりわけ中高生が化粧をおぼえることは何故か非難の対象となる。


 化粧を校則で全面的に禁止している高校は少なくなく、所によってはメイクを施してきた生徒は校門前で門前払いされ、ひどい場合は生活指導の教師によって強引に水道でクレンジングさせられるといった事案も存在する。


 この二面性は甚だ疑問だ。事実上の大人の常識として女性に化粧を強要するなら、むしろ早いうちからメイクのいろはを学んでおくべきだろう。


 教育は単に知識を伝えるだけではなく、社会生活における実践的なスキルや価値観を育む場だ。化粧は、その子が自分自身を表現し、自信を獲得する手段の一つであり、社会的な対話や人間関係を構築する上でも重要な役割を果たす。


 かつて自分の顔に生まれながらにコンプレックスを持っていた私も、化粧をおぼえたことで外見と内面の両方で成長できた。それまで嫌でしか無かった己固有の顔面の特徴でさえ、メイクは個性に変えてくれた。自らのルックスを生まれて初めて、愛することができたのだ。


 自分自身の経験が必ずしも全ての人に当てはまるとは限らないが、私は高校生のうちに一度は化粧に触れておくべきだと主張したい。中等教育のカリキュラムにも含めて頂きたい。早い年齢で化粧をおぼえることで、個々の自己表現の幅を広げ、社会的な場での自信と交流能力を向上させることができると信じている。


 理想論を言えば、化粧をする・しないが個人の価値観や判断によって選べる社会が理想だ。


 これからも私は自らを高める手段として化粧を続けていくだろうし、その習慣を変えるつもりは無い。されど、ノーメイクでいることを選ぶ人に余計な茶々を入れるつもりもさらさら無い。誰もが好きな自分で、ありたい自分であれば良いのだ。


 私が化粧を覚えてから今日に至るまでの時間は、まるで一瞬のように感じられる。しかしながら、その一瞬の中で、私は自己表現や自己愛、成長の達成を得ることができた。今や化粧私の日常に欠かせない存在となり、私自身の一部となっている。


 来週もまた、鏡の前に立つ時間が楽しみだ。

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