第四話 夫のメモ帳

 癌が見つかった。もう何度も手術をしたがそろそろ限界かもしれないと思う。それならどうしても最後にあの人に逢いたい。どうしても、どうしても。


 私は我儘を通して自宅に帰った。娘の佐奈子にも美代子にも怒られた。こんな状態で独り暮らしなんて信じられないと大声も出された。いろいろ調べてもらったら地区に訪問看護をしてくれる個人病院が見つかった。そこにお願いできることになって、娘たちはしぶしぶ折れてくれた。手首に体調管理のためのブレスレットをつけた。ベットは寝室にしていた和室に置いてもらった。


 まだ七夕には早い六月初め。介護タクシーに揺られて自宅マンションに戻って来た。


 帰宅して三日目。雨が降った。私は這うようにして窓辺のソファーに座った。薄い毛布にくるまって一心に窓の外を眺めた。今まで雨の七夕には夫に逢わせてくれた窓だ。


 夕方訪問してくれた看護師さんが私がベットを離れているのを見て驚いたが、この後観たいテレビがあるのよと答えると、やる気が出ましたかと喜んでくれた。彼女に頼んでカーテンを全部開けてもらった。


 ソファーでうつらうつらしていうちに日がすっかり落ちていた。看護師さんが点けていって行ってくれたのだろう。廊下と台所と和室に照明が入っていた。和室の灯りをバックに、ガラスにはソファーに横になる私が映っていた。


 窓に映る食卓に佐代子の姿があって、心配して来てくれたのかと思ったがその姿がとても若かった。それでああ、これは昔のことなのだとわかった。廊下の方から美代子も現れた。夫がその後をついてきて、台所の「私」に声をかけた。これはいつのことだろう。


 美代子は小さなケーキ屋の箱を持ってきていた。それは我が家行きつけのお店で、ロールケーキが有名なところだ。「私」がお皿を持ってくるとそれを佐奈子が受け取った。箱からフルーツが乗ったロールケーキが現れ、夫がそれにロウソクを立てた。久しぶりに食卓に四人が揃った。ああ、これは私の誕生日だ。


 ケーキを食べ終え女ばかりで会話が弾み始めると、夫は席を外しテレビをつけた。夫はソファーに深く腰を掛けると、座面の下から手帳を取り出して何かメモをした。それからまたそのメモ帳をソファーに隠した。


 夫の座るソファーと、私が横たわるソファー。窓ガラスの中で二人の姿が重なって、まるで夫の膝を枕に私が寝ているように見えた。私は思わず枕にしているひじ掛けを撫でた。


 その日は幸せに眠りについた。


 翌朝も雨だった。私は思い出してソファーの座面を探った。指に何か固いものが触った。苦労して引き出すと、それはは窓の中で見たあのメモ帳だった。夫の字で「覚え」と書かれていた。中を見て私はくすくす笑った。手を伸ばしてペンを取り、夫の字の脇に一言書き添えた。


 ああ、もう十分かもしれない、そう思えた。

 


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