第9話 不安な心、縮まる距離

 ハツが指令室に籠っている中、彩晴と涼穂も遊んでいたわけではない。彼等は学生であり、その本分を果たす為、自習を行っていた。


 地球に戻ったら単位足りなくて留年なんて泣くに泣けない。出席日数はどうにもならないが、温情措置を受ける為にも、自主学習を怠るわけにはいかないのだ。


 自習の内容は座学だけに限らない。体力づくりのトレーニングは勿論、射撃や格闘術といった実技の訓練は日々行わないとすぐに感が衰えてしまう。


 ハツヒメ艦内にある12メートル四方のトレーニングルームは、0~3Gまで重力の調節出来るようになっている。床や壁には、形状や固さ、色を自在に変化させる、特殊な形態変化素材が使われており、ボクシングリングや、相撲の土俵のような各種競技場を形成することも可能だ。


 人口重力が切られ無重力空間となったトレーニングルームで、彩晴と涼穂はそれぞれ向かい合うように壁際に待機する。


 服装はジャケットやスマートギアを外してウォールスーツのみ。涼穂はいつもポニーテールにしている長い黒髪が無重力空間で広がらないように、しっかり束ねてまとめている。


 ピッ!


 ホイッスルが鳴るのと同時に、ふたりは軽く壁を蹴る。


 距離が近づく。


 ふたりが行うのは、無重力レスリングと呼ばれる、無重力空間での徒手格闘訓練だ。


 蹴ったり殴ったりといった打撃技は反動で自分も吹っ飛んでしまうため禁止。床や壁も使用しない。空中で相手と組み合い、相手の関節を極めるか、締め付けるかで相手を拘束にすれば一本となる。


 涼穂を掴もうと手を伸ばす彩晴。だが、思った以上に速度が出ていた事と、涼穂が身を捻ったことで、空振りに終わる。対して涼穂は器用に足で彩晴の腹を引っ掛けると、それを支点に絡みつくように背後を取る。


(やられた!)


 振り払おうとするが、足でしっかり組みつかれ、脇と首に腕を回されて拘束されてしまう。


「ぐえっ!?」

「ふふっ♪」


 思わず変な声が出てしまった彩晴の耳元に、勝ち誇る涼穂の吐息がかかる。


 ピッ!


 涼穂の1ラウンド先取を示すホイッスルが鳴る。


 本来、そこですぐ離れるが、涼穂は甘えるように彩晴の背中にしがみ付いたままで、離れる様子がない。


「こら、早く離れろ。次やるぞ」

「はぁい」


 涼穂が彩晴を開放して、双方再び壁際に戻る。


 試合は先に2ラウンド取った方が勝者である。


 ピッ!


 ホイッスルが鳴る。1ラウンド目と同じように、壁を蹴る涼穂に対して、彩晴は僅かに壁から離れる程度で、動かない。


 最初に壁を蹴るところから始まる無重力レスリングにおいて、あえて動かず、落ち着いて相手を迎え撃つのも作戦のひとつだ。


 お互いが動くと相対速度が速くなりすぎて難易度が上がる。そうなれば、どうしても動体視力と運動神経に優れる涼穂が有利になる。彩晴が勝利するには、正面から涼穂を捕え、体格にものを言わせて抑え込むしかない。


(さあ、こい!)


 正面から受け止めようと、手足を広げて待ち構える彩晴、みるみる近づいてくる涼穂を捕えようとしたその瞬間、涼穂が身体を捻りバレルロールを行いながら、彩晴の内股を払う。


(無重力内無双!?)


 その場で回転する彩晴の下腿を両腕で捕え、股で頭を挟みこむ。


「ふがーーっ!?」


 ピーーっ!


 試合終了の長めのホイッスルが鳴る。2ラウンド先取により涼穂の勝利だ。


「私の勝ちー!」

「ふぁふぁっふぁ(わかった)。ふぁふぁっふぁふぁふぁ、ふぁふぁふぁふぁふぁふぁ!」(わかったから、早く放せ!)」

「どうしよっかな♪」

「ふぁふぁーー!!(こらーー!!)」


 悪戯心を発揮した涼穂により、ぎゅっと締め付けが強くなって悲鳴を上げる彩晴。


 その後、どうにか拘束を解かれた彩晴は、頭を股に挟まれるという衝撃体験の動揺を覚られないように、静かに深呼吸をする。


「どう? もう1試合やる?」

「いや、やっぱ俺じゃ勝負にならんだろ? ハツを呼ぶか?」

「訓練だし、私は全然構わないよ? それに、ハツは今忙しいし」

「まあ、そうだな。すずの馬鹿力でハツを壊したら大変だし」

「そんなことしないよ!」


 アンドロイドであるハツの身体能力は人間より遥かに高い。涼穂の練習相手として申し分ないだろう。しかし、もし壊れても修理が出来ない今の状況では、あまり負担をかけるわけにはいかない。


「ねえ、やろうよ! 普通のレスリングでもいいし、柔道でもお相撲でもいいから! ね?」


(ね? じゃねーよ。なんで取っ組み合うのばっかりなんだよ!?)


 彩晴の精神が既にいっぱいいっぱいなのに対して、涼穂はまだ全然物足りないようだ。試合時間にして数分。あまりにもあっけなく勝負がついてしまったので仕方がないのかもしれない。


「いや、少し休憩させてくれ。ちょっと無重力酔いしたみたいだ」

「無重力酔い? あやってそんなに酔いやすかったっけ?」

「少し調子が悪かったんだ。重力入れるぞ」


 人工重力をオンにしたことで、トレーニングルームに少しずつ重力が戻る。


 軽やかに着地した涼穂は、その場に座り込んだ彩晴の顔をのぞき込む。


「うーん。確かに顔が赤いような? 大丈夫? 医務室行く?」

「大丈夫だ。ちょっと顔洗ってくる」

「うん。じゃあ、私も」

「……」


 当然のようについて来る涼穂。無邪気に彩晴の背中にじゃれついてくる。


「こら! 子供じゃないんだぞ? ひとりで行けるって! はーなーれーろ!」

「だって、彩晴の背中落ち着くんだもん……」


 ウォールスーツは、熱を遮断し、衝撃を吸収する為、感覚や体温をダイレクトに感じるわけではない。それでも、重さや、息遣い、少女の匂いは17歳の彩晴の心を容易に揺さぶってくる。


(くそーっ! こいつ人の気も知らないで!)


 ここ数日の艦内生活で、これまで以上にふたりの距離が近くなっている。特に涼穂から彩晴へのスキンシップが増しており、やたらと甘えてくるようになった。入浴に誘うだけでなく、一緒に寝ようとまで言ってくる始末だ。


(帰れるかどうかも分らない状態で、すずも不安なんだろうけど……)


 涼穂は元々彩晴に精神的に依存しているところがあった。それがここ数日で酷くなっている。


 彩晴と涼穂が置かれた状況は、ある日突然、家族も友人も、全てを奪われ知らない世界に飛ばされたのに等しい。


 いくら優秀とはいえ、涼穂もまだ17歳の女の子だ。普通なら不安と悲しみに押しつぶされて、部屋に引きこもってしまってもおかしくないのだ。涼穂の心は彩晴の存在によってなんとか保たれている。甘えてしまうのも無理はない。


 彩晴だって同じだ。心に穴が空いたような、寂しさと不安を抱えている。そこに片思い中の女の子が甘えてくるとなれば、何時までも理性的でいられるはずがない。彩晴は今すぐにでも涼穂を抱きしめて押し倒したい衝動を必死に抑えている。


(まだ、帰れないって決まったわけじゃないからな。なし崩し的にすずを傷つけるわけにはいかない)


 でも、地球への帰還が絶望となって、この宇宙に骨を埋めなきゃならないって決まったら?


「あや……どうしたの?」


 つい考え込んでしまった彩晴を、涼穂が不安げな瞳で見つめてくる。それは儚げで、今にも壊れそうで……


(これはマズイ。マズ過ぎる状況だ……)


 色即是空、煩悩退散、邪念撲滅。


 17年間鍛え抜いた童貞力で、衝動を抑え込む彩晴。


「すまん。俺、トイレ行きたかったんだ!」


 とはいえ、涼穂の気持ちを思うと乱暴に彼女を振り払うことは出来ず、女人禁制の安息地。男子トイレへと逃げ込んだのだった。

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