月曜日にわたしは教室で栗須と顔を合わせた。けど、栗須は視線を避けて自分の席についた。教室ではわたしと関わらないというあからさまな意思表示だった。カチンときたけど、ムリには話しかけなかった。

 授業の合間にある短い休み時間、栗須は新聞の懸賞の数独を解いていた。シャーペンを持ち、新聞を抱きよせ、机に覆いかぶさるようにしているさまは、クレヨンで落書きしている幼稚園児みたいだった。きのう二人で話したときの魔法は解けていた。教室の騒がしさのなかだと、栗須はただのネクラだった。

 わたしは自分の机で、ヤッフェの『ママは何でも知っている』の文庫本を読んでいた。隣の席で、土屋がブックカバーをつけた文庫本を読んでいる。たぶんライトノベルだ。教室の後方では、翔子がクラスメイトたちと立ったまま談笑している。翔子は自分からは話さず、あいづちを打っている。

 耳障りなデカい声が響く。

「いや、マジ受験やッべーわ!」

 男子の木村だ。サッカー部に所属していて、目が細く、ワックスをベタベタつけたバカだ。

「志望校選びとかマジヤバくね? おれバカだからさー、ランク低いとこしかいけないわー!」

 大声で言う。サッカー部の仲間が笑う。木村は自然さを装っていたけど、そう言うとき、ただでさえデカい声がさらに甲高くなっていた。

 わたしの視線に気づき、木村がこちらにくる。

「佐藤から聞いたんだけどさ、キリン、京大志望なんだって?」

 女子はわたしをあだ名で呼ぶけど、男子は遠慮して名前で呼ぶ。木村だけは馴れ馴れしくあだ名で呼んでいた。

 木村は土屋の机に腰かけた。

「いやキリン、頭良かったんだな! 知らなかったわー。マジ尊敬するわ」

「睡眠学習の音声のおかげだよ。これがよくできててさ。テストの問題用紙をおいて寝ると、朝、起きたときに完璧な答案ができてるんだよね。この音声を聞きはじめてから、なぜかタンスに記憶にない血で汚れた服が入ってるのが欠点なんだけど」

 木村はポカンとしていた。わたしは心のなかで舌打ちした。木村はしつこく話しかけてくるから、何度か冗談を返したことがある。けど、そのどれも木村には理解できないみたいだった。

 もう木村の尻は土屋の机の半分を占領していたけど、土屋は頑固に机に居座っていた。文庫本を睨んでいるけど、さっきからページは動いていない。

 木村はわたしの言葉を聞かなかったことにしたらしい。

「おれマジバカだからさー! キリン、こんどおれに勉強教えてくんね?」

 また同じことを言う。わたしはイライラしてきた。

 翔子がきて、木村とわたしのあいだに立った。

「ちょっといい?」

「え? おれ邪魔? おれ邪魔?」

 木村が声をあげる。

 翔子はおざなりな笑みを見せたけど、そのおざなりさは木村を黙らせるには十分だった。

 わたしを教室の隅に近い、黒板のそばに連れていく。

「志望校のこと話されたくなかった? だとしたらごめん」

 翔子はわたしの目を見て謝った。翔子には大げさでなく、さり気なく謝ることができるといういいところがあった。

「ううん。べつにいい」

「そう。話は変わるけど、志望校どうするの? そろそろ予備校を決めなきゃいけないでしょ」

「やめてよママ。いくらわたしがいつも捜査中の殺人事件を相談してるからって」

 わたしはポケットに入れてきた『ママは何でも知っている』を見せた。

 翔子はイライラしていた。

「真面目な話ね。予備校の同じコースを取れたらいい、って思ってたから」

 真剣な様子に、わたしは落ちつかない気分になった。

「翔子と同じとこにするかも」

「なんで? 教職課程をとるの?」

 翔子は不審そうにした。

「うん。小説の参考になるかもしれないし」

 目つきが冷たくなる。

「ネタ集めのためにひとと接するのはやめたほうがいいよ。そんな人間が小説家になれるとは思えない」

「そうだね。気をつけるよ」

「ほら、自分のことしか考えてない」

 翔子に言われ、わたしはなにも反論できなかった。うろたえて話題を変える。

「最近、なにか推理小説読んだ?」

「べつに。もともと倫子に勧められて読んだだけだったし」

 わたしはすこし心が傷ついた。翔子は言った。

「でもホームズ・パスティーシュは読んでる。ハドソン夫人とワトソンの妻が探偵役のやつが良かった」

「ああ。わたしも読んだよ」わたしは視線を落とした。「フェミニズムでホームズを再解釈するとか、ああいうのはわたしは好きじゃないな…」

 翔子は心外に思ったみたいだった。眉を寄せる。

「知ってた? コナン・ドイルは婦人参政権に反対してたんだよ。国会議員に立候補したときは、そのことを政治信条に掲げてる」

 初めて知ることだった。顔が熱くなる。むしろコナン・ドイルは進歩派だろうと思っていた。

 声を抑えて反論する。動揺を見せないように気をつけていた。

「でも、それとホームズの本編は関係ないでしょ。作者と作品は別なんだから」

「あるよ。倫子の好きな『最後の挨拶』に。ドイツ人スパイの秘密工作に、婦人参政権の政治運動が挙げられてる。サフラジェットのこと」

 授業の予鈴が鳴っていた。わたしはゆっくりと席に戻った。先生や近くのクラスメイトに注目されたくなくて、机に教科書とノートを出した。けど、それが限界だった。心が痛くてなにも考えられなかった。


 その日は心療内科の診察日だった。ママは車を出すためにパートを休んでいた。

 マンションの地下駐車場で、わたしは車の後部座席に乗りこんだ。ママは車を地上に発進させた。

 午後でよく晴れていた。わたしはぼうっと車窓を見ていた。大通りに新築のマンションが並ぶ。モダンなデザインで、曇りガラスのバルコニーが画然と並んでいた。

 車は自然公園の横を走った。樹木の葉陰が、まだらになってボンネットを過ぎていった。自然公園の広々とした芝生では、親らしい大人たちが、小さな子供たちを遊ばせていた。

 車窓の光景を見ているうち、わたしは嗚咽がこみ上げてきた。ママはチラリとバックミラーを見ると、またフロントガラスに視線を戻した。

 以前、こうして通院しているとき、わたしは自分でも理由のわからないまま突然泣きだしてしまったことがある。そのときはわたしもママも、ひたすら気まずい時間を過ごした。そのときから、ママはわたしを助手席には乗せない。

 一時間ほどして、診療所の真新しい建物についた。

 待合室の低いソファに座る。壁紙は白く、タイルも白い。ソファの奥にシダの観葉植物が置かれている。加湿器が音を立てて蒸気を噴霧していた。

 わたしは両手を組みあわせ、そこに額をのせ、診察時間がくるのをただ待っていた。

 歯車がズレだしたのは、二年生のときだった。

 数学の授業中、それは訪れた。三角関数がわからない。微積分が理解できない。方程式より難しくなった数学に、わたしはついていくことがまったくできなかった。何度理解しようとしてもムダだった。

 それまでわたしは、自分のことを頭が悪くないと思っていた。いや、それすら欺瞞だった。わたしは自分のことを賢いと思っていた。けど、そうじゃなかった。

 国立大学の試験は数学の科目がある。漫然と立てていた、京都大学に進学するという計画は崩れた。そして、わたしは自分の人生に直面させられていた。

「本木さん」

 看護師に呼ばれ、わたしは診察室にいった。

 心療内科の医者は、丁寧にアイロンがかけられた白いシャツに、青みがかった灰色のスーツを着ていた。その上から白衣を羽織っている。目つきは優しく、目尻に小皺がある。

 わたしは医者と向かいあうように座った。医者は肘かけのある事務イスで、わたしに問診をした。医者は尋ねた。

「最近、学校で友達と話すことはあったかな」

 なぜか栗須とのことはひとに話したくなかった。けど、診察を受けて黙っているわけにもいかないから、仕方なく話した。

「日曜日にクラスメイトと出かけました」

「みんなで?」

「いいえ。二人です」

 医者はゆっくりとうなずいた。

「それはいい傾向だね。不安や悩みを話せる相手がいるとわかっていれば、気分は和らぐよ。実際に打ち明けばなしをしなくてもね」

「そんなわけない!」

 怒鳴り声が出る。

「友達ができたってなにも変わらない。他人はやることが決まりきっててロボットにしか見えないし、仕事はどれも薄っぺらでイカサマにしか思えないし、政治でどんなニュースが流れても茶番劇としか考えられない。わたしになにがあったって、社会が変わらないなら意味ないんじゃないですか? わかってますよ。社会は変わらないし、先生はわたしを変えたいんだって。でも、そんなのムリ…」

 目の端から涙があふれる。

「わたしがこの社会になじめるはずがない」

 急に怒鳴ったりしたにもかかわらず、医者は落ちついていた。穏やかな表情でわたしを見ている。

「社会になじむことはできなくても、誰かになじむことはできるんじゃないかな?」医者は言った。「すくなくとも、その友達はきみのことを認めているんだから」

 診察を終えて、わたしは待合室に出た。窓口に処方箋を提出する。処方薬を調剤しているあいだ、わたしは低いソファに座って待った。両手を合わせた拳で口元を押さえる。

 担当医にはなるべく正直に話すようにしているけど、それでもわたしが話していないことがあった。推理小説家になりたかったということだ。

 いや、いまでも推理小説家にはなりたい。正確には、職業としての推理小説家になりたいということだ。

 一般的なハードカバーなら、価格が千円から二千円で、初版五千部というところだろう。印税が十パーセントで、収入は五十万円から百万円だ。これで生計は成りたたない。

 挫折するまで、そのことは真剣に考えてこなかった。そしてそのときに気づいた。わたしは本気で推理小説家になりたかったわけじゃなかった。ただ人生からの逃避先として、推理小説家という道筋を選んでいた。京都大学に進学するというのは、保険付きのオプションだった。

 女でこれといった特技もないなら、できる仕事は限られる。わたしは人生に向きあわなければならなかった。

 けど、どの仕事もわたしにはできそうになかった。やりはじめても長続きしそうになかった。だって、わたしには人間関係を築くことができない。どの仕事にも意味を感じることができない。

 よく「世界に居場所がないように感じる」という言葉を聞く。けど、そんな言葉は意味がない。だって、はじめから世界に居場所なんてものはない。世界はただの世界だ。居場所は自分で作るしかない。そして、わたしにはその気力がなかった。

 教室ではみんな、どこに遊びにいくとか、だれとだれが付きあったとかいった話をしてる。けど、それがわたしにはよくわからない。全部、小説のなかの出来事のような気がする。

 殺人事件ならわかる。殺人事件が起これば、被害者と親しかったひとは悲しむだろうし、反目していたひとは後ろめたくなるだろう。そして、だれが犯人か捜査がはじまるだろう。

 推理小説の登場人物の役割は明白だ。それなら、わたしは自分の役割を理解することができる。だから、わたしは殺人事件が起きてほしかった。

 けど、わたしはみんな好きだった。翔子も、栗須も、土屋も、バカの木村でさえ好きだった。嫌いなのはわたしだけだった。わたしには他人がわからないけど、おかしいのがわたしだということはわかってた。

 だから、わたしは被害者になりたかった。

 早朝、だれかが教室に登校してくる。すると、教室の中央に仰向けに倒れているわたしを見つける。わたしは胸をナイフで刺されて死んでいる。

 だれかは職員室にいき、先生が警察に通報する。近くの交番の警察官が来校する。けど、その前に同級生たちが登校してくる。同級生たちはわたしの死体を遠巻きに眺める。数日して、学級会のようにクラス全員が教室に集まり、謎解きがはじまる。

 それがわたしの夢だった。


 次の日、わたしは昼休みに自習室の休憩コーナーにいった。

 栗須が両手で抱きかかえるようにして乾パンを食べている。わたしは背中から近づき、小さな肩に両手をおいた。栗須がビクッと体を跳ねさせる。

 この日、また校庭に机が円形に並べられていた。

 栗須はビクビクしつつ、肩ごしにわたしを見た。

「な、なに?」

「用件はわかってるでしょ。事件だって。詳しいことは聞いた?」

「うん…」

 栗須は気乗りしない様子でうなずいた。

「新聞紙上を賑わせる霞ヶ関の汚職事件。事件の謎を解くカギは、東京駅、十三番線ホームから十五番線ホームが見通せる空白の四分間にあった! 十五番線ホームの富士そばで霞ヶ関の役人が天そばの勘定をすると〈百円玉が一枚、二枚、三枚、四枚。オヤジ、いま何時だ〉〈へい、五時ですが〉〈はいよ。五百三十円〉。

 これには裏があると睨んだ福岡署の老刑事、鳥飼重太郎は上司がとめるのも聞かずに孤独な捜査をはじめる! そのころ、汚職事件を捜査していた警視庁捜査二課の刑事、三原紀一は裏金が一億円から一億百円に増えていることに気づいて…」

 わたしは笑いながら栗須の肩を揉んだ。

 栗須は疲れた表情を見せた。

「今日はとくにテンションが高いね」

「それより、はやく調査にいこう」

 特別教室が集まる翼棟は生徒が少ない。だれもおらず、足音が反響する階段を降りる。

 栗須は手摺に手をかけ、足をとめてふり返った。

「なにかあった?」

「ちょっとね」

 そっか、と言うと、栗須はまた階段を降りはじめた。なにも尋ねずにいてくれるのが嬉しかった。

 前回と同じように、校庭に六脚の机が並べられていた。ただ、今回は校庭の端のほう、別棟のすぐ前だ。

 また、机をどこから調達したかが異なった。平日に、一年生の教室から机を運ぶことは難しい。予備の机と椅子は、いまでは美術準備室に収納されている。けれど、この日は美術の授業のために、美術室から机が廊下に出されていた。普段は美術室の隅に押しやられている教室机だ。

 二年生の美術の授業で木工があり、机を廊下に出して、その上で作品のニスを乾かしていた。机は全部で十脚、廊下に出されていて、そのうちの六脚が使われた。机の上に載っていた作品は、床に下ろされていた。

 四脚の机が廊下に残っている。通行の邪魔にならないように、壁に着けられている。二メートルほどの壁の天井の部分は、明かりとりのガラス戸が付いている。その内側が美術室だ。

 机から作品を下ろす手間を入れても、所要時間は十分ほどだ。換気のため、敷地の外縁への扉は開けっぱなしにされていたから、なおさら容易だ。美術の授業がなければ、ここは人通りもない。授業の合間にされたことだけど、だれにでもできただろう。

 二年生らしい女子の二人が、見物にきていた。

 二人に声をかける。

「この作品をつくったクラスの子?」

「あ、はい。そうです」

 ひとりがわたしの身長にたじろぎつつ答える。

「災難だったね」

「いえ、べつに。作品も無事ですし。そもそも単位さえ取れればどうでもいいんで」

 二人は笑いながら廊下を去っていった。

 栗須が美術準備室の扉を開けていた。

「鍵がかかってない」

 なかを覗くと、わたしたちが移動させた机がそのままになっていた。

「美術部が使うからね。施錠しっぱなしだと不便なんだろうね。でも、ここから机を出したほうが早かったのに、まぬけな犯人だね」

 栗須は美術準備室の扉から離れた。残った机の一脚を見つめている。わたしはその隣にいった。

「どうしたの?」

「これ見て」

 机には木工が三つ載っている。簡単な卓上用の戸棚だ。新聞紙が敷かれ、その上に名札とともに置かれている。

 栗須が指したのは机の天板だった。だれかがニスをこぼしたらしく、水溜りのように薄く透明な塗料が広がっている。そして、そこにくっきりと丸い跡がついていた。透明なまま、天板の木目を歪ませている。

 わたしは言った。

「不注意な犯人だね。シャーロック・ホームズの出番はなさそう。もし犯人がつけた跡ならだけど。指紋なり手形なりがついてた?」

「ううん。この大きさと形だと手のひらみたいだけど、掌紋はついてない」

 わたしは顎に手を当てた。

「これからどうする? この美術の授業を受けたクラスに、話を聞きにいく? 今回、机を並べた犯人が前回と同一犯とは限らないし」

 栗須は気の毒そうな表情で言った。

「それはやめたほうがいいと思う」

 次の言葉に、わたしは殴り飛ばされたような衝撃を受けた。

「だって、机を並べたのは本木さんでしょ?」


 わたしが言葉に詰まっていると、栗須は言った。

「嘘を考えなくていい。瞳孔が拡散してる。わたしが本木さんを犯人だって言ったときじゃなくて、いまね。脳の血流量が増えて、自律神経が活性化してる証拠。ひとが嘘をついているか確かめるには、瞳孔の拡縮を見ればいい。生理的反応は偽れない」

 栗須は重たい前髪の下からわたしを見上げていた。

 わたしは言い訳をあきらめた。

「どうしてわたしが犯人だってわかったの?」

 制服のポケットからノートと鉛筆を取りだす。鉛筆を構えたわたしを見て、栗須はなんとも言えない表情をした。

「このニスの跡を見れば明らかだよ。こんな風に丸い跡がつくときは限られてる。うっかり手をおいたってことが多いんだろうけど、そうじゃなかった。物を置いたのでもない。机の上にボール状のものを置く機会があればいいけど、そんなことはあまりない。つまり、だれかが机にのって、膝立ちになったんだよ。その膝の跡がついた。そして、そんなことをするのは犯人しかいない」

 自分の行動が再現されることに焦りながら、わたしは反論した。

「犯人だってそんなことはしないでしょ」

「するよ」栗須は壁の天井近くにある明かりとりを見た。「美術室のなかを覗くために」

 わたしは黙った。

「ここは人通りも少ないし、廊下に誰かがきたらすぐに逃げられる。でも犯人の心理として、美術室のなかに誰かいないかは確認しておきたいよね。だけど扉を開けるわけにはいかない。もしだれかいたら、顔を見られるから。だから机にのって、天井の小窓からなかを覗いた」

 わたしは無言のまま聞いていた。

「そして犯人は女子生徒だった」

 ここでわたしは反論した。

「どうしてそう言えるの?」

「ニスの跡をつけた犯人はズボンを履いてない。だから、スカート履きの女子生徒になる」

 わたしはフッと笑った。

「ボロが出たね。犯人がうっかりしてズボンで生乾きのニスに膝をつけたなら、ズボンにニスがついてるはずだって言いたいんでしょ。でも、そのときは体育の授業でジャージを着てたのかもしれない。そもそも全校生徒のズボンを見たわけでもないしね。いまから調べにいく?」

「その必要はないよ」

 栗須は平然としていた。

「だって、ズボンを履いてなかった証拠はこのニスのほうだから。もしズボンでこのニスに跡をつけたなら、制服のサージなり、ジャージの化繊なりの繊維がついてるはず。でも、このニスは綺麗でしょ? だから、跡をつけたのは剥きだしの膝で、犯人はスカート履きの女子生徒になる」

 わたしは絶句した。苦しまぎれに言う。

「女の先生のだれかかも」

「それはない。だって美術準備室の鍵は開いてた。犯人が先生なら、そのことは知っていたはずでしょ?」

 わたしは自分が追いつめられているのを感じた。栗須は言った。

「だけど、ここで疑問が出てくる。机の上にのるとき、普通は足で立つ。だとしたらニスには足跡がついてるはず。上履きの靴跡か、靴下の足跡が。でも犯人は膝立ちで天井の小窓を覗いた。つまり、それだけ身長が高かったことになる。机の高さが七十センチで、小窓の高さが二メートルくらいだから、犯人は低くても身長が百七十センチはある。この高校の女子生徒で、身長が百七十センチを余裕で超えるのは…」

 栗須はわたしを見た。

「本木さんだけだよね」

 グッ、とうめく。

「面白い推理だね。次の小説に使わせてもらうよ」

「それ、推理小説家が犯人だと名指しされたときのパターンでしょ」

「印税は〈サムの息子〉法で被害者遺族の補償に当てられる予定」

「往生際のいい犯人だ…」

 わたしはノートにいまの推理をメモした。

「本当に参考にしてるし」

 栗須はわたしを見上げた。

「どうしてこんなことをしたの? 前回の事件の模倣犯ってことだけど」

 わたしは唖然とした。

「じゃ、栗須はわたしが前回の事件の犯人だとは思ってないんだ。つまり、前回の事件の犯人がわかってるってこと?」わたしは言いなおした。「ちがうな。わかってたってこと?」

「うん。黙ってるつもりだったけど、本木さんがこんなことをするくらいなら話したほうがいいか」

 昼休みはもう終わりかけていた。栗須は放課後にまたくるように言った。


 放課後は吹奏楽部の練習がある。栗須はそのあとまで待ってくれた。

 待ちあわせた校庭にいく。放課後のうちに、わたしが並べた机は校舎に戻されていた。

 わたしは靴の爪先で、校庭の砂地に溝を掘った。

「ホントに犯人がわかってるの?」

「うん。そもそも、本木さんはどうして机が円形に並べられてたのか理解してない。前に円形に並べられてたから、ただ真似しただけでしょ」

 いかにも推理小説の探偵役じみた、挑発的な言いかたは癇に障った。

「ミステリーサークルでも、なにかのメッセージでも、理由はいくらでも考えられるでしょ」

 栗須はため息をついた。

「本木さんは円形って言うけど、六脚の机の配置なら、どっちかって言えば六角形じゃない?」

「そんなのどうとでも言えるでしょ」

 カッとなって口走る。そう口にした瞬間、わたしに電流が走った。そうか、意味はないんだ…

 栗須は言った。

「そんな机の配置に意味なんかない。犯人はただ机を目立たせたかっただけ。そうすれば、第三者が机を別棟に片づけてくれるから。実際には、月曜日まで放置されることになったけど」

 わたしは怪訝に思った。

「なんでそんな必要があるの?」

「カンニングの証拠隠滅のため、かな」

 思わずフッと笑う。

「机が並べられてたのは模試の前だよ。つまり、カンニング未遂の証拠隠滅って言いたいんだ。未遂なら証拠なんてどうにでもできるじゃん。そもそも、試験中は監督員が巡回するし、カンニングなんてできないでしょ」

「監督員に見つからない方法のカンニングだったから、どうにもでもできなかったんだよ」栗須は一語一語、区切るように言った。「机の天板の裏に彫りこんだ。試験中は、指の腹で彫りこんだ単語なり公式なりを読みとればいい」

 わたしは虚を突かれた。たしかに、それなら見つからないし、簡単には証拠隠滅できない。

「でも、なんで実行しなかったの?」

 わたしが尋ねると、栗須はうなずいた。

「うん。だから、犯人は座席が受験番号順に割り当てられることを知らなかったんだよ。いつもの座席表で受験するつもりで、机に細工をした。でも試験当日、そうじゃないことに気づいた。しかも、自分がどの座席を割り当てられるのかもわからない。だから机を交換することもできない。それで証拠隠滅することにした」

 わたしは両手で空を切って、栗須の言葉を遮った。

「待って。犯人がチクられないことを考えなかったとか、ランダムに机を交換して、犯人がだれかをごまかすだけで良しとしなかったとか、それはいいよ。それだけカンニングの発覚を恐れたってことで説明がつくから。でも、そのはなしだと、犯人はわざわざ一年生の教室と机を交換したことになる。どうかしてるよ。適当に、試験で使われない教室と机を交換するだけでよかったじゃん」

「試験が終われば、生徒はすぐに下校させられる。翌日の開門時間になれば、他の教室と机を交換するのは危険すぎる。だから、犯人は机を別棟に片づけさせなければいけなかった。時間さえあれば、天板の裏の彫刻は、紙ヤスリかなんかで消せる。見方を変えれば、自分の机、一年生の机、予備の机、って三点で交換したことになるかな」

「そんな面倒なことをしなくても、じかに別棟にある予備の机と交換すればよかったじゃん」

「そうはできなかった」栗須は鋭く言った。「別棟との渡り廊下の前には通用口がある。通用口には業者がいたんだよね。なら目撃されずに、校舎内を通って別棟に行くことはできなかった」

 わたしは呆然とした。必死に反証を考える。

「でも、校庭に机を並べるのだって、それなりに目撃される危険があるじゃん。そうだ、校舎の外を通ればよかったんだよ。渡り廊下の両側にはトタン板がついてて、目隠しになる。屈めば、通用口のほうから見られずに机を運ぶこともできる。校庭に机を並べることを考えるくらいなら、そのくらい思いつかなきゃおかしい。あのときは、わたしも自習室から外を見てなかったし。そっちの扉から別棟に入れる」

 栗須はイライラした表情を浮かべていた。

「本木さんが実際には外を見ていなかったから、犯人が特定できるんだよ。つまり、犯人は普段、本木さんが外を眺めているのを知っていて、目撃されることを恐れた。実際には外を見ていなかったにもかかわらずね。

 ここまで話したことから、犯人は一人に絞りこめる。第一に、犯人は模試の座席が受験番号で決められることを知らなかった。だから、生徒会長の田中くんは除外できる。田中くんは二年生のときから模試に参加してた。第二に、犯人は本木さんが、よく自習室の窓から外を見ていることを知っていた。だから、本木さんが顔を見たことがないっていう、下級生は除外できる。残るはひとり。わたしたちのクラスの土屋くんだよ。本木さんからはなしを聞いたときに、犯人がだれかはわかった」

 わたしはため息をついた。

「見事な推理だったよ。学歴社会が生んだ悲劇だね。〈日常の謎〉らしく、事件からメッセージを読みとらないとね。わたしたちも、シンナーを吸ったりスプレーで落書きしたりしよっか」

「面白くないよ、本木さん」

 栗須は冷たく言った。

「ごめん」

 自分でも、口調に棘があったことに嫌な感じがしていた。

 栗須の推理はたしかに鮮やかだった。けど、わたしの心は暗かった。

 見事な推理だったのに、作りものみたいで現実感がなかった。考えて、その理由がわかる。動機だ。土屋に動機があると知っていれば、ストンと胸に落ちたのだろう。まるで、胸のムカつく心理主義とか現実主義とかを知れって言われているみたいだった。

 こんな不自然な事件でも、うまく語れば〈日常の謎〉らしくなるのだろう。けど、いまのわたしにはその気力がなかった。

「どうしてこんなことをしたの?」栗須が尋ねる。

「え?」

 わたしは声をあげた。

 栗須はまっすぐにわたしを見つめていた。

「だれがどうして机を並べたのかはわかってなかったんでしょ。なら、どうして本木さんは模倣犯をしたの?」

「そうだね…」

 思いを言葉で表せず、言いよどむ。栗須はふと気づいたように、わたしの手元を見た。

「そういえば、今度の推理はメモしないんだね」

「小説のネタにならないから。わたしはもっと驚くような真相を期待してた。机が校庭に出されてたとき、〈日常の謎〉とはいえちょっとドキドキしてた。非日常だって。けど、真相は下らなかった」

「現実は推理小説じゃないからね」

「それがわたしが机を並べた理由」

 栗須は不審そうな顔をした。わたしは昨日からのことを話した。翔子にコナン・ドイルの政治意見を教えられたこと。進路の選択がうまくいかずにイラついていたこと。もともとこの現実が嫌いだったこと。心療内科に通院していること以外、全部話した。

 これだけ長く話したことは初めてだった。翔子にさえ、ここまで秘密にしていることを話したことはなかった。

 日差しは傾き、赤く色づいていた。塀の影が、地面から折れて建物に伸びていた。栗須は黙ってわたしの話を聞いていた。

「これがわたしの犯行動機」

 最後まで話したときには、わたしの息は上がっていた。

 栗須はうなずいた。

「話してくれてありがとう」

 そう言うと、背中を向けて校舎に戻った。わたしたちは別れの言葉もいわなかった。


 それから何日かして、栗須が教室で話しかけてきた。

「今日の放課後、時間ある?」

「うん。今日は吹部の練習もないし」

 そう言ってから、栗須はそのことを確認してからきただろうな、と思った。

「じゃ、待ちあわせしてもいい?」

「いいけど。学校帰りに直接いけばいいじゃん」

「準備がいるから。学校で目立つことはしたくないし」

「いったいなに?」

 気になりはしたけど、それ以上は尋ねなかった。学校でもできることらしいから、前にいった、朝霞市中央公民館で待ちあわせした。

 中央公民館の玄関ホールは薄暗い。ガラス張りのファサードから外光が差し、床のタイルを濡れたように光らせている。

 玄関ホールはいくつかの机と椅子がある。机は脚が鉄パイプの安物だ。わたしはそのうちのひとつで待っていた。

 栗須がくる。リュックサックを背負っている。なにを入れているのかと思ったら、栗須はリュックサックを床に置き、なかから数冊の本を取りだした。栗須は苦労して本を抱えると、机に上げた。

 本はすべてハードカバーで分厚かった。栗須が対面の椅子に座る。本の山で体が半分隠れている。栗須はそのうちの一冊を開いた。子供が大人の真似をして大きな本を読んでいるみたいだった。

「なにやってるの?」

 わたしは呆れて聞いた。

 栗須は本から顔を上げた。

「本木さんがコナン・ドイルの政治活動が意外だったって聞いて、わたしも気になったんだ。有名人なのにほとんど知らなかったから。それで、自分で調べてみた」

 たしかに山積みされている本は、すべてコナン・ドイルの伝記と書簡集だった。

「栗須、ホームズが好きだったの?」

「劇場版『名探偵コナン』で見た」

「たしかに『ベイカー街の亡霊』は名作だけど」

 ガクッと椅子からずり落ちる。ホームズの熱狂的ファンだけど、コナン・ドイルについてはほとんど知らないというひとは多い。けど、ホームズを読まずにコナン・ドイルの伝記を読むというひとははじめて見た。

 栗須は本をめくった。

「コナン・ドイルが歴史小説を書きたかったけど、お金のために仕方なくホームズを書いてたってことくらいは、わたしも聞いたことがあった。けど、調べたらそれはちがってた。コナン・ドイルの歴史小説、『マイカ・クラーク』も『白衣の騎士団』もベストセラーになってる。『白衣の騎士団』はアイゼンハワー大統領の子供時代の愛読書だったくらい。コナン・ドイルの歴史小説がウケなかったって言うのはムリがある」

 へえ、と感心した声が出る。わたしもコナン・ドイルの歴史小説はウケなかったとイメージしていた。

「誤解の原因はコナン・ドイル本人にあるみたい。コナン・ドイルはホームズの作者としてインタビューを受けることは避けてた。で、珍しく受けたインタビューでは、本当は歴史小説の作家として知られたかったのに、ホームズの作家として知られてるってコメントした。つまり謙遜したんだ。私信では、ホームズの原稿について客観的に見ていい出来だって自賛してる。これはアメリカの雑誌に原稿料をはずまれて、ホームズの連載を再開したときでもそうなんだ」

「『空き家の冒険』」

 と、わたしは言った。

「そんなタイトルだった? とにかく、コナン・ドイルは正義感が強くて、公平でいようとしてた。医者だったとき、診療所の共同経営者のジョージ・バッドと仲たがいしてハメられる。独立するなら出資するって持ちかけられて、実際に独立したら資金を出されなかった。このときのことは自伝的小説の『スターク・マンローの手紙』に書いてる。けど、コナン・ドイルはジョージ・バッドを非難しなかった。ただ変人だった、ってだけ言った。それで、コナン・ドイルの女性観だけど、スペイン人のハビエル・マリアスの『書かれた人生』にこういうエピソードが書かれてるんだって」

 栗須は本をめくった。

「コナン・ドイルが家族と南アフリカを旅行して、列車に乗っているとき、息子のひとりが通路を通りすぎた女が醜かったと言った。息子がそれを言い終わらないうちに、平手打ちが見舞った。そして顔を真っ赤にしたコナン・ドイルが、とても静かな声で言った。〈おぼえておきなさい。醜い女というものはいないのだ〉」

 パタン、と音を立てて本を閉じる。そしてわたしを見た。

「コナン・ドイルは正義のひとだったんだよ。もちろん、コナン・ドイルの政治意見はいまの時代では受けいれられないけど、それでも公平であろうとしてたんだ」

 わたしは机に肘をつき、両手を固めた。そして、その親指に額をつけた。眼球の奥が熱くなっていた。

 わたしは顔を伏せたまま言った。

「ありがとう」

 顔を上げると、栗須は納得のいかない顔をしていた。きっとわたしの言葉の意味がわからなかったのだろう。けど、わたしや土屋を犯人だと推理したときより、いまの推理はずっと嬉しかった。

 栗須は小さい顎をそらした。

「神経科学で共感の働きはもう特定されてる。おもに関わるのは脳の前頭前皮質の前帯状皮質。これは脳の各分野の働きを連関させる。これができないと、他人の心理を再現できない」

「なんの話?」

「他人の言動を分析して、その心理を推測することはできるけど、これは共感じゃない。これだと、心にもないことを思ってるように振る舞えるから。よく言うサイコパス。自閉症の神経科学的な特徴は、脳梁の未発達と、偏桃体の肥大。そのせいで共感の働きが弱くなる。その代わり、認知科学的なヒューリスティックやバイアスに影響されずに、物事をありのままに見ることができる」

 わたしは口を手で押さえた。あくびが出てくる。栗須は言った。

「不正を受けいれられなくて、公平だけど怒りっぽい。わたしが思うに、コナン・ドイルもそういう性格分類のひとりだったんじゃないかな」

 わたしはガッカリした。どうして文学の話でやめてくれなかったのだろう。うさん臭い認知科学の話で、わたしはすっかり冷めていた。

 わたしが失望していることに気づかず、栗須は言った。

「前に、わたしを頭蓋骨が空っぽで、クルミみたいな脳が入ってるだけだと思ってた、って言ってたでしょ。あれは当たってるよ。わたしみたいな人間は、偏桃体… 脳の中心にある、クルミみたいなアーモンド状の器官が孤立してるんだ。だから他人や社会を理解することはできないんだよ。本当の意味ではね」

「ああ。あのとき黙ってたから、怒ってるんだと思ってた。そんなこと考えてたんだ」

「怒ってたよ!」

 子ども議長のように、栗須は両手で机を叩いた。

 わたしはあくびをしながら言った。

「それって疑似科学でしょ」

「わたしがまちがってるとしても、認知科学がまちがってるわけじゃない」

「でも、わたしは栗須の言うことには、ぜんぜん実感がわかないな」

 栗須は笑った。

「うん。だから本木さんはわたしとはちがう。他人や社会を理解できる側の人間だよ。本当の意味でね。すくなくとも、本木さんはひとりじゃない。だって、他人がわからないってことを、わたしに伝えられたんだから」

 わたしはなにも言えなかった。安物の椅子に背中をそらす。椅子は軋みをあげた。

 両手を頭の後ろで組む。ふと、気づいて言った。

「そういえば、去年の夏にあった〈日常の謎〉の話をしたけど、栗須は真相がわかってたんだね」

「え?」

 栗須が首を傾ける。

「ほら、吹部の地区大会で、会場の文化センターに誕生日ケーキが届いた話。栗須は〈犯人〉って言葉を使ったじゃん。でも普通、あの話で犯人って言いかたはしない」

「ああ…」栗須は頭を振った。「失敗したな」

 わたしに促され、栗須は説明をはじめた。

「あの話で、誕生日ケーキそのものに意味はないみたいだった。なら、誕生日ケーキに付属するものが必要だったのかもしれない。そう考えれば、夏でケーキの配達にかならず付属するものが思いつく。保冷剤かドライアイス。しかも本木さんの話だと、大型楽器は玄関に置くことになってた。公共施設のガラス張りの玄関に。そうなれば、楽器は温度の影響で使用感が変わる。とくに金属製の金管楽器は。慣れた演奏者なら、そのことを見越しておくだろうけど、楽器が冷えてたら、逆にそのせいでトチることになる。

 注文されたのが誕生日ケーキだったのは、単純に大きいから。その分、付属する保冷剤かドライアイスも多くなる。どちらかは店によって決まるけど、ドライアイスだったはず。だって、それなら証拠がなくなるから。犯人は前にその店を利用したことがあって、ドライアイスを使うって知ってたんだと思う。犯人は配達されたケーキを受けとって、ドライアイスを抜きとると、用済みになったケーキは放置した」

 わたしは小さく拍手した。

「ドライアイスが入れられてたのは、わたしのチューバのハードケース。チューバはデカい分、はやめに息を吹きこまなきゃいけなくてタイミングが難しいんだ」

「佐藤さんがそのことに気づいたの?」

「地区大会の日は、はやく楽器を控え室に運びこめってうるさかったよ。聞かなかったけどね。それで、あとになって推理した真相を教えてくれた。ちなみに、犯人は去年の部長」

「じゃ、演奏に失敗したの?」

「さあ。部長はわたしが本番前のリハでトチることを期待してたみたいだけど、そのときはもう、わたしの頭から演奏のことは吹っとんでたから。だって〈日常の謎〉だよ? 部活も大会も課題曲も、そんなことは〈日常の謎〉に比べればどうだっていい。そのときわたしは、ようやく推理小説のような謎に出会えた、これで退屈な日常とはサヨナラだって有頂天になってた。調査のために文化センターのなかを飛びまわってた。大会の順位なんかどうでもよくて、リハも本番も拘束されることにイライラしてた。けど、その真相は退屈な日常そのものだった…」

 栗須は小さな口をポカンを開けて呆れていた。その反応はもっともだろう。

 わたしはこの真相を翔子に説明された。話を聞いて、わたしはガッカリした。〈日常の謎〉だと思ったものの真相が、部活内の人間関係のいざこざなんていう、ありふれててつまらないものだったからだ。けどそんなわたしを見て、翔子はイライラしていた。いまから思うと、あのときからわたしと翔子に距離ができはじめた。

 わたしは言った。

「その部長、ちょっと異常でさ。自分を物語の主役みたいに思ってて。というか、その自覚がないのがヤバかったんだけど。熱を吹いてるときに聞き流したりしてたから嫌われてるとは思ってたけど。それでも卒業式に、礼儀として挨拶にいったら、すごい目で睨まれた。

 わたしは犯人には、意外な人物だったり、特別な動機をもっていたりしてほしかった。でも真相は、ぜんぜん陳腐で退屈なものだった。そんなものが真相なら〈日常の謎〉なんか意味がない。でも、そのとき気づいた。〈日常の謎〉に限らない。殺人事件だってそうだって。ただ自分勝手だったり、我慢のできない人間が、感情を抑えられなかっただけだって」

 深いため息をつく。

「推理小説みたいな非日常なんかどこにもない。わたしたちはこの現実から逃げられない」

 栗須は黙って聞いていたけど、眉を寄せた。

「本木さんの言ってることはおかしいよ」

「だろうね」

「前から思ってたけど、〈日常の謎〉ってなに? わたしは推理小説を読まないからわからないけど、殺人事件が起きたって、関係者には日常が続くんじゃないの?」

「そこから!?」

 わたしは悲鳴をあげた。

「だってそうだよ。殺人事件の被害者遺族にとっては、そのあとも事情聴取、検死、葬儀。犯人が逮捕されても、十数年もかかる長い裁判に、損害賠償の民事訴訟があるんだから。そのあいだも、生計を立てるために仕事をしなきゃいけない。これは日常そのものだよ。非日常なんて、部外者が勝手に言ってるだけだよ。

 東日本大震災を考えてみて。死者、行方不明者が二万二千人で、いまもまだ四万人が避難生活をしてる。大災害が起きても日常が終わったりはしなかった。いま仮設住宅で暮らしてるひとたちの生活は、日常としか言えない。どんな出来事があっても続くのが、日常の唯一の定義なんだから」

 その話は受けいれにくくて、わたしはしばらく考えた。やがて、それもそうだな、と思った。

 それから、わたしは唐突に閃いた。椅子を倒して立ちあがる。

「そうだ!」

 栗須はびっくりしてわたしを見ていた。わたしは栗須を無視して、中央公民館に隣接する朝霞図書館にいった。

 目的の本を貸し出しして、すぐに戻ってくる。栗須はまだ硬直していた。

 わたしは床に倒れた椅子を起こした。腰かける。

 栗須に本を見せる。借りてきたのは『シャーロック・ホームズの冒険』だった。『赤毛連盟』のページを開く。

「これを見て。いまの栗須の話は、どこかで聞いたことがあるような気がしたんだ。『赤毛連盟』は『ストランド・マガジン』に連載がはじまった第二作。その冒頭で、シャーロック・ホームズがこんなことを言ってる。

 〈きみは以前、ぼくが言ったことをおぼえていると思う。すこし前にぼくらがメアリー・サザーランド嬢に訪れたごく単純な問題を解決したときのことだ。ぼくたちは奇妙な結果や超常的な組み合わせというものを日常それ自体に求めなければならない。それはどのような空想の産物よりすばらしいものなんだ、とね〉」

 わたしは本を開いて机に置いたまま、また立ちあがった。両手を広げて、公民館のタイルの床でクルクルと回る。

 栗須はポカンとしてわたしを見ていた。わたしは叫んだ。

「『赤毛連盟』は〈日常の謎〉だったんだ! いや、この世界そのものが〈日常の謎〉だったんだ! シャーロック・ホームズは、コナン・ドイルはそのことをわかってたんだ!」

 グッと拳を握る。

「殺人事件は特別じゃない! 殺人事件が起きないことが特別なんだ! 十万人の市民がこの平和な社会を守ってる。そのことが奇跡なんだ!」

 わたしが歓声をあげて回っていると、栗須はあきらめた様子で『シャーロック・ホームズの冒険』を読みはじめた。わたしは疲れるまで、いつまでもそうして踊っていた。


 昼休み、わたしは自習室の休憩コーナーにいった。

 栗須はいつもどおり乾パンを食べていた。わたしは家で用意してきたハンバーガーをパクつきながら近づいた。平山夢明の『ダイナー』で〈ブリキ男の心臓〉と呼ばれていたものだ。普通のパティの代わりに、岩塩をかけたコンビーフを挟んでいる。岩塩は辛みがとげとげしく、コンビーフは脂気がしつこすぎるはずだけど、両者がうまく中和しあっている。

 栗須の正面に座る。椅子に足をのせて膝を立て、片手でハンバーガーをかじりながら栗須を見た。

「模試の成績表が返却されたでしょ。栗須はどうだった?」

「本木さんは?」

 栗須は疑い深そうにわたしを見た。

 わたしはニヤニヤして言った。

「京大法学部の合格判定、D判定だった」

「なんで嬉しそうなの?」

「E判定だと思ってたからね」

「本木さんみたいなひとばっかりだったら、予備校はどこも来年には倒産してるだろうな」

 結局、わたしは志望校を京大法学部と、都内にある私立大学の文学部に決めた。やっぱり、わたしは推理小説家になりたい。そのための勉強ができる学部を選んだ。

 予備校では国立大学を受験するためのコースの他に、私立大学の受験に必要な三科目のコースを取ることにした。

 そのことを翔子に説明すると「滑り止めがわたしの本命なのは気にいらない」と言った。

 わたしは机にノートを広げた。

「前から気になってたけど、栗須の名前ってなんて読むの? クラス名簿に〈恋愛〉って書いてあるけど。新学期の自己紹介のときはよく聞いてなかったからさ。まさか〈れんあい〉って読むわけじゃないでしょ」

 わたしの言葉に、栗須は動きをとめた。しばらく静止してから、弱々しい声で言った。

「こ、ここあ…」

 爆笑すると、栗須は不機嫌そうになった。

「本木さんに、電話で名乗るたびに〈どういう漢字を書くんですか〉って言われるひとの気持ちはわからないよ」

「御手洗潔みたいなことを言うね。〈恋愛と書いてここあです〉って言えばいいじゃん」

「そのときは、さらに〈恋と愛の恋愛です〉って言わなきゃいけなくなるの」

 わたしは笑いながらいまの話をノートにメモした。

「本木さん、いいかげん笑うのをやめてよ」

「倫子」

「え?」

 栗須は不思議そうな顔をした。

「倫子って呼んでよ。その代わり、わたしも栗須のことを〈クリスティー〉って呼ぶ。アガサ・クリスティーからとって」

「そこは名前でいいでしょ」

「じゃあ〈アガサ〉で」

「そっちじゃない!」

 わたしがなおも笑うと、栗須はむくれて乾パンをかじりはじめた。

 このあいだ、わたしは栗須にすこし嘘をついた。だってわたしがこの世界に生きようと思ったのは、本当は、現実が素晴らしいって思ったからじゃなくて、現実に名探偵がいるってわかったからだったから。


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