下水道の亀

鰹節の会

下水道の亀

亀がいた。

生まれたばかりであった。


 亀は、池に打ち付けられた木の杭の上に鎮座して、自らが生涯を過ごすであろう小さな溜池を見渡すのが好きだった。


熱い陽の光に甲羅を晒しながら、何も考えず、ただボーッと景色を眺めるのが日課であった。


 池は小さなものだった。


緑色の水を湛え、歪んだ円を描いている池の中心には、小さい社のようなものがたっている。にんげんが建てたものらしい。

 そして池の隅の方····。生い茂る草に隠れた薄暗い所には、排水管が、まるで自然物のようにヌッと生えているのであった。


 この排水管がくせ者だった。


甲羅を暖めた亀にとって、ほんのり日陰となった排水管の上は絶好の涼み場だった。

 だが、この排水管───、排水管と名がついている通り、一本の長い筒である。


それも、生まれたばかりの子亀の身体がすっぽり通ってしまうほどなのだ。


 よって、この排水管の上で涼むには、落ちないように細心の注意をはらっている必要があった。

そうしないと脚の力が抜けて、真っ逆さまに排水管の中へ落ちていってしまうからだ。


 危険ならば辞めればいいものの、便利なものがあれば危険を冒してでも使ってしまうのは、子亀も人間も同じらしい。

 今日も子亀は、排水管の淵に四つ足を置いて、踏ん張りながら日陰を楽しんでいた。


 昨日は豪雨であったため、約一日ぶりの甲羅干しをしてきたのだ。子亀は甚だ上機嫌であった。


 しかしここで、思わぬ誤算が明らかになる。

昨日の豪雨で眠っていた子亀とは違い、排水管はしっかりと仕事をしていた。


 その唯一の使命である排水機能を一心不乱に遂行していたのだ。よって、その輪の淵は、池のぬめりけを含んだ雨水によってとても滑りやすく濡れていた。


 ふぅ、とため息をついて子亀が力を抜いた瞬間、つるりと手足の爪が滑って、子亀の体は真っ逆さまに排水管の中へと転がり込んだ。


 しまった!


·····そう思う間もなく、亀の爪は凹凸のない排水管の内側を無意味に引っ掻きながら下降を続ける。

 気がつけば、子亀は真っ暗な淀んだ空気の中で仰向けに転がっていた。



 慌てて体を元通りひっくり返した子亀は、オドオドと辺りを見回した。


足裏から伝わる感触は冷たく、子亀には新しいものだった。·····冷たく、無機質で、硬かった。



 上方、亀と同じように落ちてきた汚れや土のみが、柔らかかった。だが、それらはもう大分長くここにいたようで、すっかり周りと同じように冷たくなっていた。


 子亀は落ち着いていた。


それは、丁度求めていた涼しさが、ここには充満していたからであった。


 しかしそれと同時に、天井についている排水管を登って元の池へ戻るのは難しい事だ、という事も理解してしまった。


どうやら自分はしばらくここに居なければならないらしい。

子亀は大きくわざとらしいため息をついて、肩を竦めた後に、首を伸ばしたまま眠りについた。




 子亀が眠りから殆ど覚めかけた頃、排水管の輪から見える景色では、もう日が沈みかけているらしかった。


 気持ちの良い眠から覚めた割に、子亀の心は穏やかではなかった。



 ここから出なければ。


子亀は壁に爪をかけた。ザラザラした壁に爪が引っかかる。よしいいぞ、と思い、もう反対の手もかけようとした瞬間、爪が壁から外れ、亀は無様に転がった。



 今日はもう暗い、ここから出るのは明日にしよう。


 さっきまでの決意はどこへやら、亀は甲羅に頭を引っ込めて、再び眠りについた。




 子亀が目を覚ますと、自分の足元が水に浸かっていることに気がついた。


上を見上げると、排水管から水が流れ込んできている。···どうやら雨が降っているらしい。


 これでは脱出のしようがない。水の流れ落ちている排水管を登るのは不可能だ。残念だが、計画は見送ろう。


 子亀は頭を半分ほど水につけながら、再び眠りについた。


計画などと嘯いていたが、そんなものははなから無かった。



 その後、子亀は何日も何日も、脱出の日を先延ばしにした。


この薄暗い下水道から逃げ出したいのは山々であったが、もしも脱出しようと頑張ってみて、それが失敗に終わった場合·····、子亀は一生ここから出られないような気がするのである。


 それが酷く怖くて、子亀はなかなか決心がつかないのだ。


しかし責めることなかれ、この亀は子亀である。このような試練を与える世界の方こそ酷であると言わざるおえない。


 三年が経った。·····長い月日である。


なぜ、もっと昔に頑張っておかなかったのだろうか。


亀は排水管から僅かに漏れる陽の光に甲羅を当てながら、そう思った。

 この三年間で、亀の甲羅は少しばかり成長した。そして、その成長は、排水管を通れなくするには充分すぎた。


 甲羅が小さいうちに挑戦しておけば、きっと外に出られたのに·····。いやいや、もう過ぎた話だ。やめよう。


そう決心するも、土に濡れた水草を食べ、弱く柔らかくなった爪で硬い地面を引っ掻いていると、何度も何度もその思考が亀の頭の中に浮かび上がってくるのであった。


 その感情が溢れ出て、我慢できなくなると、亀は壁に爪をかける。そして、思い切って力を込めてみるのである。


必死の思いで入れた満身の力がかすり、壁から爪が外れると、亀はどこか満足した表情で、「今日はなかなかよかったぞ、こういう積み重ねが大切なんだ」と呟くのであった。


 長い地下の生活の中で、亀の体は歪んでいった。


爪と甲羅は白っぽく柔らかくなり、顔の皺も増えた。歩く動作も、覇気のないよろよろとしたものになった。


 毎日毎日、排水管の円から見える青空を見つめては、亀は全身をのたうたせたいほどに苦しい気持ちになる。


しかし、長くゆっくりと、月日をかけて亀を蝕んだ〝絶望〟は、苦痛に発狂する元気すら取り除いてしまった。

 外への魅力に取り憑かれた時、亀の体は指一本動かなかった。ただ心の中だけでのたうち、暴れ周り、自らの不運を嘆いて泣き喚くのである。



 下水道には、一本だけ道がある。


どこへ続いているのか分からぬ、暗闇の道である。亀は今まで何度か進んでみたものの、どこまで行っても明かりを見つけることができず、空腹と恐怖に耐えかねて引き返してきた道である。


 いっそ、ここでこうして排水管から漏れる太陽だけを楽しみに生きていくよりは、未知の進路を切り開いて行ければ良いのではないか。·····亀は時々そう思う。


 そして何度か、実際にその道へ行ってみる。


しかしついぞ進みきること叶わず、またすごすごと引き返してきてしまうのだ。

 ここには慎ましい食料もあれば、僅かながらの太陽もある。


真っ暗闇の中で、絶望に包まれて餓死するよりも、遥かに素晴らしい生涯を送れるはずだ。

 この考えがついぞ頭から離れず、亀はどうしても空腹になった時点で道を引き返してしまうのであった。


 私は欲張りをした。不必要な日陰を求め、その結果にここへ落ちた。


 だからこそ、もう二度と高望みをしてはならない。·····そういう思考が、亀の心に重石となってしがみついているのである。


 チョロチョロと流れる小さな水の束に腹を浸けながら、亀は弱々しく息を吐いた。雨の日にはしっかりとした流れとなる下水も、今は弱っている。


 この水が枯れれば、亀の体は乾いてしまう。


そうなれば、もっと推進の深い暗闇の道へ移動しなければならない。·····あの食物も光もない所へ。


 暗闇の道からいつもの住処へ餌を取りに、何度も往復する行為は、亀の脆い体をすり減らす。


 ああ、嫌なものだ。


亀は思った。


排水管から漏れる光は無い。今日は曇りだ。





 ·····亀は眠りから目を覚ました。


足を覆う水位を見て、雨が降っていることを悟る。太陽を見るのはまだお預けのようだ。


 亀は少し悲しい気分になって、排水管の外へ耳を傾けた。

ザアザアと、かなり激しい雨が降りしきっている。



ここまですごいのは初めてだ。一体どうなるのだろう。


 足元から首までせり上がってきた水の流れを見下ろして、亀はほんの少しおもしろい気分になった。全くこんな気分になったのは、ここへ落ちてから初めてかも知れない。


 るるるる、とうねる水の流れを見ながら、亀は体を揺らした。景色は大洪水なのに、なんとも言えない渇いた清々しさを感じていた。


 大雨のようだ。


 水かさはどんどん増していく。もう首元まで上がってきた。亀は足をバタバタ動かした。体が少し浮き上がった。



 泳げるぞ?


亀は思った。


 カリカリと地面を引っかいているうちに、とうとう体がふわりと浮き上がり、亀は水の中を泳ぎ出した。


 水の流れは早く、とても逆らう事はできなかった。

仕方がなく、亀は暗闇の道の方へ波に乗って行くことにした。


 もしかすれば、光のあるところまで行けるかもしれない。


少なくとも、この濁流に乗れば今までとは比べ物にならないくらい奥まで進めるはずだ。


 亀の体はゆっくりと水中を流れて行った。



 濁流は、どんどんその流れを早めていく。

もはや弱り切った亀の体では、進路をコントロールする事はできなくなっていた。


 おお、はやいはやい。


 亀は目を回した。


しばらく進むと、ゴミが増えてきた。


 壊れた家電製品、灰色になったペットボトル·····。その他大勢の障害物が、下水道の深い暗闇の中で、ひそひそと浮いているのだった。


 目の前の電子レンジと正面衝突して、亀は思わず呻いた。

骨と皮だけの首に、白い傷ができる。



 危なくなってきたぞ。


亀は呟いた。


強い流れの中で、亀は手足をバタバタ動かした。その動作は懸命であったが、果たして効果があるかは分からなかった。


 割れた蛍光灯の、鋭く尖った先端が亀の腹を突き刺した。

甲羅は凹み、体中から出る血を水に溶かしながら、亀はただ流れて行った。



 ここから出るのだ。もっともっと昔にするべきであった事を、今するのだ。


 亀の目は、もうほとんど見えてはいなかった。

それでも亀は、時々空中で息継ぎをしながら必死に足を動かし続けた。





 下水道の出口は、海へと繋がっている。



人気の少ない岩場。汚く得体の知れない泡や、砂ざらしになり歪んだペットボトルが溜まっている、ああいう岩場である。


 そんな場所に、出口は真っ暗な口を開けているのだ。


昨日の豪雨で、汚い泡や汚れは流されていた。それでも、科学的な泡は浮いて、相も変わらずムカムカとするような光沢を水面に浮かせた澱みが、波の振動を受けて毛虫のように揺れていた。



 そんな岩場に一つ、亀の死骸が、ひっくり返って落ちていた。


力なく垂れた四肢は、生白い切り傷が無数に刻まれている。歪んだ形をした甲羅は、不自然にベコベコしていた。体中の傷からは赤いものが滲んでいる。


 その目が開いているのか、それとも閉じているのか、わざわざひっくり返して確かめる者などここには居ない。



 どこか気持ちの悪い泳ぎ方をする小魚が、亀の傷口をつついている以外は、何も無い、とても静かなものだった。



 テラテラと嫌な光を放つ水面に片足を浸けた亀は、何も言わない。じきに、その体は起き出した蟹か蝿に食われるのであろう。


 そうすれば、亀という存在は、きれいさっぱりこの世から消えるのである。


最早そこに、かつて亀が生きていたという証拠もなく、ほんとうに、跡形もなく消えるのである。


 岩場は·····冷えた朝日に照らされた岩場は、シャボン液のような虹色の光を水面に浮かせて、ただそこにあった。




 誰もいない、亀の死骸が一つ、そこにあるばかりである。








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