溺れる海豚

 一仕事終わった後は焼き肉に限る。家でなくて、店で食べる焼き肉。網の上に煙がもうもうと上がって、髪と服ににおいが付いてしまうような、気を遣っていないお店で食べる焼き肉がいい。後、ひとりじゃない方がいい。

 だからいつも、一仕事終わった後は、家族に一報を入れて、真っ直ぐ帰らず、寄り道をするのだ。まずは、共同研究室。何時に立ち寄っても、何人か学生が居るから、数を揃えるのにちょうど良い。私のおごりで焼き肉に行くぞ、と伝えれば、飢えたピラニアのごとく食いついてくる。男子学生だけでなく女子学生もそうである、大学生とはすべからく飢えているものだったか。そうだったか。自分もそうであった気がする。

 焼き肉とおごりに食いついてきた学生を引き連れて、大学の敷地を出るまでの間に、どの店に向かうかを決める。大学から歩いて行ける範囲に、焼き肉店はぎりぎり片手で足りるくらいの数がある。そのうちどこがお気に入りとかおすすめとかは特になくて、その日の気分とか、集まった面子とかを見て、じゃああそこの雰囲気が良いかなとか、適当に決めるのだ。

 今日は、夕方過ぎに仕事が終わって、共同研究室に居たのは顔なじみの男子学生が数人だったから、歩いて一番遠い店に決めた。一番広くて、一番賑やかな店だ。ビールを人数分頼むとピッチャーが出てくる。ホルモン盛り合わせが安い。アルバイトの留学生の日本語のたどたどしさが微笑ましい。

 注文はいつも学生に適当に任せてしまうが、さすが顔なじみの連中だけあって、私が文句を言わない注文をよく分かっている。別に焼き肉通を気取っている、ことはないが、タン塩から始めて塩もの、次いでタレもの、ホルモンで〆。網が汚れにくくて良いじゃないか、と思う。

 網に、ぺらっぺらにスライスされたタンを四枚並べる。肉の表面が徐々に潤んできて、かと思ったら端から白っぽく色が変わり、反り返る。トングで肉をひっくり返すと、じゅう、と音がした。一分も待たないで、それぞれの皿に一枚ずつ肉を取り分ける。空になった網の上に次のタンを四枚並べてから、手を合わせて、「いただきます」

 四人分の声がそろう。黒い木箸でタンをつかんで、ふうふうと息を吹きかけてから、口に運ぶ。薄いけれど噛み応えのあるタンは、あっという間に飲み込めた。

「タンってなんでこんなに薄く切るのかしらね」

「厚いの食べたいなら厚切りタン頼めばいいじゃないですか」

「いや、最初はこのうっすいタンが良いの」

「不和先生のお決まりは知ってますけど」

 話しながら、次のタンもひっくり返して、全体に色が変わったかな、という頃合いで、一枚ずつ取り分ける。箸でつかんで、次は、レモン汁に付けて食べよう。

「ていうか不和先生、よく、司法解剖の後に焼き肉食べれますよね」

 私がタンを口に運んだところで、山田だったか田中だったかが、宇宙人を見ているかのような、やや距離を感じさせる目つきをしながら、そう言った。残る二人、佐藤だったか鈴木だったか高橋だったかが、山田だったかに同調するように頷いた。多分、宇宙人を見ているかのような目つきをしているのは私の方で、ときどき、こうして、言葉はつうじるのに意味がつうじないことがある。タンを飲み込んでから、口を開く。

「よく言われる」

「でしょうね。有名ですもん、不和先生の焼き肉」

「ほう。どういう風に?」

「血と肉を見た後に肉を食いに行く狂気」

「なんだ、それは」

 センスの欠片も感じられないが、それを言った誰かは、私の行動を面白がっているのだろう。狂気、だなんて、自分が理解できないものへのレッテル貼りに過ぎないのだし。

 タンの皿が空になったから、次はサガリ。タンよりもずっと濃い赤色で、ところどころに白いサシが入っている。横隔膜の柔らかい筋肉。実質的に呼吸を支えていた筋肉。網に八切れ一気に並べる。

「なんで焼き肉なんすか」

 鈴木だか佐藤だかが、話題を引きずってしつこく尋ねてくる。ただ、こちらを面白おかしくからかおうとする子供じみた悪意は感じられなくて、ただただ純粋に不思議そうな様子で首を傾げているから、苛立ちは感じなかった。むしろ、尋ねられたことを自分の中で繰り返し問うてみる。どうして焼き肉なんだろう。そう考える間にも、八切れのサガリはどんどん焼けていくのだが、分厚いからもうしばらく放っておいても良いだろう。

 一仕事終わった後は焼き肉、というのは何も私が始めたわけではなくて、多分、私が大学生だった時分にお世話になった人達のうちのの誰かがしていたこと、だったと思う。助教だったか教授だったか、今の私と同じ仕事を生業にしていた誰か。ごくたまに白衣を着たまま誘いに来ることがあって、白衣になのか、その人になのか、わずかに残ったままの血のにおいにぎょっとしたことがあった。大学生なんてお金がないのに飢えているのが常だから、焼き肉をおごると言われたら、当然のようについていって、一銭も払わずに肉を食べていた。そう、「焼き肉っておいしいよね」

 サガリをひっくり返す。一枚ずつ、トングで肉をはさんでひっくり返す。あんなにきれいな赤色をしていた肉は、深みのない、白っぽい茶色に変わっている。タンパク質の変性。人類の知恵。おかげで私たちはおいしいものが食べられる。

「うん、焼き肉っておいしい」

「それは知ってます」

「でも答えにはなってないです」

「仕事終わって疲れた後はおいしいものが食べたくなるじゃない」

「焼き肉以外にもおいしいものはあるのに、どうしてわざわざ焼き肉なんですかって質問ですよ」

 佐藤だか山田だかが、そう言ってため息をついた。まるで私が物わかりが悪いみたいな反応だ、はじめからそう言ってくれれば、ちゃんと答えられたかもしれないのに。「焼けたからとったらいいよ」と伝えてトングを網の側に置く。箸を持って、一番近い肉をつかみ、持ち上げ、口に運ぶ。さっきのタンよりもかなり分厚い。だからといってかたいわけではなく、むしろ柔らかく、噛むと簡単に肉がほぐれる。脂は少なめで、あっさりした味だ。おいしい。

 他のおいしいものではなくて、どうして、あえて、焼き肉なのか。彼らが疑問に思っているのは多分そういうことなのだろうけど、焼けた肉を美味しく頬張っている人たちにわざわざ返事をしてあげる必要はあるんだろうか。焼き肉はおいしいから、は理由として十分ではないんだろうか。もう一切れの自分の分の肉を取り皿の端に置く。肉の角に少しわさびをのせてから、口に運ぶ。これが刺身と一緒なら、鼻の奥につんと耐えがたいにおいが抜けていくこともよくあるのだけど、肉の脂と一緒だとその感じがない。脂のいやらしい部分だけがわさびの香味と一緒に抜けて、後には肉のあっさりしたうまみだけが口の中に広がる。おいしい。これだから、一仕事終えた後は焼き肉に限ると思うのだが、色々な人に言われるから、きっと、私以外の人にはそうでないんだろう。

「君たちが言うのは、解剖の後になんで焼き肉なんですかって、そういうことかもしれないと思うんだけど」

「そのとおりですよ、あってますよ」

「むしろ、解剖の後にはふつう焼き肉は食べないでしょ、っていうのがよく分からないな」

「いや、そこは分かってください」

「理屈っていうか感覚っていうか」

「感覚?」

「血とか内臓とかさんざん見た後に生肉焼いて食べるんですよ。気持ち悪くなるじゃないですか」

 さも当然のように、たぶん山田がそう言った。空になったサガリとタンの皿が網の横に置かれていて、次の肉はまだ来ていない。タレの上ロースと上カルビが来るはずなんだけどなあ。タレの色は血よりは暗いだろうし、肉の色は死体のそれよりは鮮やかだろう。今日の仕事のことを思い出す。自殺だろうという見込みで運ばれてきた、若い女性の遺体だった。風呂場の中で見つかって、アルカリ性の洗剤と酸性の洗剤の空容器が床に転がっていたそうで、有毒ガスが死因ではないかとの見立てだった。死斑は強く出ていた。血液は暗赤色で、内臓が鬱血していた。骨は白くて綺麗だった。あの死体よりは、今、運ばれてきた上ロースと上カルビの方が、おいしそうに見える。おそらく鈴木が空の皿と交換で肉の載った皿を受け取って、「どっちから焼きますか」と私に尋ねてくる。「ロースからで」と答えると、皿から網の上に直接肉を滑らせた。

「どういう焼き方でも良いけど、生焼けにならないようにしてよ」

「トングで広げればいいって」

 きっと佐藤が、塊になった上ロースをトングでほぐしていく。網の上に肉が広がる度に、じゅう、じゅうと焼ける音がした。甘辛いタレのにおいが煙と一緒に鼻をくすぐる。

「白いご飯も頼んだわよね、最初に」

「まだ来てないですね」

「ロースが焼けるまでに来ればいいんだけど」

「焼き肉に白米って、本当にがっつり食べますね、不和先生」

「食べるために来てるんだから当然でしょう。君たちも、足りなかったら適当に追加で頼んでいいよ」

「太っ腹」

「どこ見て言うか」

 隣に座る鈴木は、すみません、とけらけら笑いながら謝って、まあ別にはじめから気分は害していないから、いいのだけど、腹、という体の部位の音が耳に残った。ハラミが食べたいのか、後で追加で頼もう。今日の遺体は痩せた女性だったから、皮下脂肪は少なくて、開腹は簡単だった。女性らしく、筋肉の目立たないつるりとした下腹をしていた。もし、あの遺体の肉を食べていいと言われたら、私は迷わず食べるだろう。網の上に乗せて、よく火を通して、少ない脂が落ちてぱさぱさになった腐りかけの肉を食べるだろう。骨付きのままで焼いた部分は、白い骨が見えるまでしゃぶりついて肉を食べるだろう。その代わりに、私は焼き肉を食べているんだろうなと、腑に落ちた。明日には忘れるだろう。

 佐藤が、網の端から順に肉をひっくり返していく。じゅう、じゅうと肉の焼ける音がする。机に寄ってきた店員はトレイの上の茶碗を差し出してきて、手を上げてそれを受け取る。つやつやと炊けた白米が、茶碗に七分目ぐらいまで盛られている。山田が「おいしそう」と呟くので、早速、白米を一口頬張った。火傷しそうに熱かったけれど、少し固めに炊かれた白米は、しつこくない甘みがあって、確かに美味しかった。

「もう焼けてんじゃないですか」

「不和先生からどうぞ」

「じゃあ、ありがたく」

 トングを置いた佐藤に譲られて、手前側の肉を箸でつかむ。そのまま、白米の上に肉をのせると、少し焦げた焦げ茶色のタレが、白米の隙間に染みていった。肉を持ち上げて、息を吹きかけてから、口に入れる。においどおり甘辛いタレの味と、肉のうまみが合わさって、いくらでも食べられそうな後を引く味わいになる。肉の後味が残る間に、タレの染みた白米を頬張る。肉と一緒に米を食べているような味に、口元が緩むのが分かった。佐藤と鈴木と山田も、我先にと網の上の肉をつかんで、自分の取り皿に確保している。私も一枚だけで満足するわけはないので、三人の箸が伸びていない肉を何枚かまとめて箸でつかんで、全部白米の上に置いた。これでこの茶碗一杯分は食べられるだろう。

「やっぱり、焼き肉っておいしいわよねえ」

「解剖の後に食べるもんじゃないと思いますけどね」

「いや、解剖の後にこそ食べるべきものだわ」

 私が言うと、三人は肉を食べる手を止めて、こちらを見た。びっくりした顔、怪訝そうな顔、お化けでも見ているような顔、三者三様だったが、共通するのは、私の発言を肯定的に受け止めていないところだろう。三人は私を見ているくせに、誰も何も言わなかった。だから私も何も答えずに、白米の上に置いた肉を食べる。甘辛いタレの味、ほどよく焼けた肉のうまみ、熱々の白米。ああ、やっぱり焼き肉は美味しい。そういえば忘れていたグラスのビールを飲むと、生ぬるい苦さが口の中に残ったタレと肉の味と脂とをさっぱり洗い流してくれる。これでまた、ゼロから肉が楽しめる。網の上はもう空だ。次はカルビを焼かなければいけない。半分が空になった皿と、トングに手を伸ばす。

 やっぱり、一仕事終わった後は焼き肉に限る。


 私たちの弟は、たぶん、変わったこどもである。自らすすんで学校を休んでいるところだとか、仮に学校に行くとしても絶対にランドセルを背負わないところだとか、大人がけしからん、と叱りそうなことを平気でやってのけるところもそうだ。今、庭の隅でやってるように、死にかけの生き物の死んでいくところをじっと眺めてにこにこしているようなところもそうだ。今日の観察対象は、さっき自分の腕にたたきつけた蚊らしい。弟は、左腕を目の高さまで持ち上げて、じっと動かないでいる。

「空、日焼けするよ。こっちおいで」と声を掛けるが、弟は返事をせず、こちらを向こうという素振りも見せず、自分の目線の高さにある腕を見つめている。弟の視線の先では、きっと、白い肌の上に、羽や脚が変な方向に曲がった、黒くていびつな小さい虫が、たたきつけられたままの形でひっついていて、最期にひと羽ばたきしようと、羽をひくひくと動かしている。弟は、花を愛でるのと同じようににこにこしながら、それを眺めている。

「空、何やってんの」

 のんきな声が尋ねて来た方を振り向くと、啓介が、アイスを片手に、そのアイスの箱をもう片手に持って、庭の方を見ている。アイスは白色で、先端はもうかじられて、棒の先がアイスの真ん中に見えている。

「アイス、溶けるわよ」

「そうなんだよ。冷蔵庫見たら残り三本だったから持ってきた」と言って、啓介は私の隣に腰掛け、アイスの箱を差し出してくる。箱の中には、啓介の言ったとおり、アイスの袋が二つ残っていた。夏になるといつも冷凍庫にある、八本入りの、バニラ味のアイス。今、家の中に誰が居るかは分からないけれど、折角啓介が持ってきてくれたのだし、本当に溶けてしまう前にありがたく頂戴することにする。ビニール袋の端のぎざぎざを前後に引っ張って、袋を開けて、木の棒を持って、白い直方体の角をかじる。冷たくて、のっぺりと甘い。

「空、アイス」

 啓介が呼びかけても、空はこちらを向かなかった。持ち上げた左腕を見つめたまま、動かない。グレーのタンクトップに、紺色のハーフパンツ、足元ははだしのまま。青白い肌は太陽に慣れていないのだから、きっと、明日には赤くなって痛い目を見る。私はそれを心配するけど、空には私の声も、啓介の声も聞こえていなくて、ただ、死にかけの蚊とだけ一緒にあそこにいる。

「アイス、本当に溶けるなあ」

 そう言う啓介が持っているアイスも、私が持っているアイスも、日光のせいか気温のせいかどちらとものせいか、少しずつ溶けていく。溶けたアイスがアイスの表面を伝って流れ落ちて手の上に落ちそうになるのを、舌先でなめとって、まだ塊のアイスをかじる。啓介は、棒の周りに残ったアイスを、とうもろこしでも食べるみたいにかじりとって、丸裸になった棒をアイスの箱に放り込む。そして、最後のアイスを箱から取り出して、「本当に食べちゃうぞ」と空に呼びかける。

 空は、やっぱりこちらを向かない。「聞こえてないのよ、集中してるから」と言うと、啓介は「なら仕方ないなあ」と言って、最後のアイスの袋を開けた。袋の内側には、溶けたアイスがついている。啓介は空になった袋を丸めて、箱に放り込んで、角が取れた白い直方体に、大きな口を開けてかぶりつく。一口で、アイスの棒が見えるようになった。冷たかったのか、啓介が眉間に皺を寄せて目を閉じている間にも、アイスクリームは溶け出して、今にもしずくを落としそうになっている。目を開けた啓介は、すばやく、アイスを持った手を掲げて、溶けたアイスをなめるためだろう、口を開けて舌を伸ばしたが、それより早く、溶けたアイスは啓介の唇の上にぽとりと落ちた。啓介は、少し顔をしかめて、唇の上のアイスをなめとってから、溶けかけのアイスを一気にかじってしまう。そして、裸になったアイスの棒をアイスの箱に放り込んで、何故か得意げな笑顔で、その箱を私に向けて差し出す。ため息をつきながら、手元のアイスの棒と、左手に握り込んでいたアイスの袋を、箱にそっと入れた。

「二つも食べたら、先生に怒られるわ」

「もう、アイスの二つや三つ食べても腹壊すような年じゃないし、しずくが言わなきゃ、ばれない」

「勝手に共犯者にしないでよ」

「ちゃちい犯罪だなあ」

 ゴミ箱になったアイスの箱の口を折り畳みながら、啓介は笑う。笑いながら、庭の方を見ている。私も啓介と同じ方を見る。空が、左腕を振り下ろして、ため息をついていた。

「空」と、私と啓介が同時に呼ぶと、空は、ようやく私たちの方を向いた。やわらかい表情で「ちーちゃん、しーちゃん」と私たちを呼んで、こちらに駆けてきて、私の脚にぶつかる寸前で立ち止まり、私の横と啓介の横とを見て、少し首を傾げてから、私の隣に座った。すぐに軽く首を傾げて、「甘いにおいがする」と言う。

「アイス食べてたから」

「僕の分は?」

「言ったけど、空が来ないから、啓介が食べちゃった」

「えー」と、空は、笑顔だけれど不満そうな声を出して、体を前に乗り出して、啓介の方を見る。啓介は、なんのつもりなのか、もうゴミ箱代わりのアイスの箱を振る。からからと音がするのに、空が、いっそう残念そうに眉尻を下げて、唇をとがらせる。

「食べたかった。暑いんだもん」

「空、何しに庭に出てたの」

「蚊をたたきに。しーちゃんが首かまれたーって言うから、たいじしようかなって」

 ねえ、と私の目を見ながら空が首を傾げるので、私は「そうね」と頷いて、空に言われて思い出した、蚊に噛まれたところを手で押さえる。不思議と腫れている感じはなかったし、かゆくもなかった。確かに噛まれたと思ったのに。

「でも、たたいても血が出なかったや」と言って、空は、また左腕を掲げてみせる。確かに、空の腕は白いままで、赤い血も、虫の死骸のひとかけらも、貼り付いてはいなかった。ふと、空がさっきまで見ていたものは、本当に私が思ったとおりのものだったのか、疑問に思う。私がそう考えているだけで、空は本当は全然違うものを見ていたのではないかと思って、「空、何を見てたの」と、空の白い左腕を私も見ながら、聞いてみる。空は「えーと」と、少し口ごもって、腕を下ろして、さっきまで立っていたあたりの庭の地面を見ながら、「蚊が、動かなくなるのを見てたの」と言った。

「面白くなさそうなもん見てたんだな」

 啓介は、言葉とは裏腹に、おかしそうに笑いながらそう言って、空の顔をのぞき込む。空は、眉尻を下げたまま、口元だけで笑った。器用なことをする。申し訳なさそうな、でも少し残念そうな表情は、私や啓介を気遣っているんだろうか。私も、蚊が動かなくなるのを見ることのどこが面白いのか、啓介と同じように分からない。でも、空がすることだから何か意味があるんだろうと思って、その奇矯を受け入れたいとは思う。

「何か発見はあった?」

「はっけん?」と繰り返すと、空は目を瞬かせて、首を傾げて、視線を上にやる。つられて上を見ると、ペンキを流したような青空に、太陽がまぶしく照っていた。

「別に、なかったかなあ。チョウとかバッタとかセミとかと、おんなじだった」

「同じって?」

「最後までうごくのはね、触角なんだよ。ひくひくうごいて、何かをさがしてるみたい。触角もうごかなくなったら、もう、本当に死んじゃう」と言って、空は、ふふっと笑う。「にんげんには触角がないから、最後までうごいてるのはどこなんだろうねえ」と、朗らかな声で疑問を言って、脚をぶらぶらと遊ばせている。私は、空の疑問の答えを知らなかった。隣の啓介を見ると、首を横に振っているから、私と同じなのだろうか。空は、脚をぴたりと止めると、急に後ろを振り向く。つられて後ろを振り向くと、「なち先生」と空が呼んだ、いつの間にかそこにやってきていた先生が、「啓介」と険しい声で言いながら、啓介の後ろにしゃがんだ。黄色いワンピースの裾が、板張りの上にふわりと広がる。私たちと同じように、先生の方を振り向いた啓介が、悪戯がばれたときのような気まずそうな顔をしながら、体を後ろにのけぞらせる。

「何、先生」

「アイスクリーム、箱ごと持って行ったわね?」

 先生の目は、啓介を問い詰めるのではなくて、もう、啓介が側に置いているアイスクリームの空き箱に向いている。「自分が食べる分だけ持って行きなさいって、いつも言ってるでしょう」

「でも、三本しか残ってなかったんだ。丁度なくなるから、いいかなって」

「ふうん。三人って、啓介と、しずくと、空?」

「僕、食べてないよ」

 空が言うと、先生は、黙ったままで啓介をじっと見つめて、でも、啓介が何か言う前に、私の方を見た。先生が、しずくは知ってるわよね、と尋ねていることが、声を聞かなくても分かった。私は啓介の共犯者ではないから、「啓介がふたつ食べたの。空は要らないみたいだからって」と、起こったことをありのまま答える。「ちゃんと教えてくれたら食べたよ、僕だって暑いのに」と、追い打ちを掛けるように、空が続けて言った。那智先生は、そう、と私たちに頷いてみせて、それから、啓介に、それまでよりもきっぱりとした笑顔を向けた。

「悪いお兄ちゃんね、啓介」

「お兄ちゃんなんて言われる年じゃないと思うけど」

「アイスは一日ひとつまで」

「俺、もうここに住んでないし」

「だったら余計に、ルールは守らないとね。郷に入れば郷に従え」

「……そもそも、そのルールってもう要らないと思う」

「啓介にはそうかもしれないけど、空にはそうじゃないわね。お兄ちゃんがルールを破っていいのかしら」

「だから、お兄ちゃんなんて言われる年じゃないって」

 啓介は、いかにも気まずそうに先生から視線を逸らして、ぼそぼそと小さく答える。先生は、笑顔だったのが、だんだんと、私たちが悪いことをしたときに、静かに叱るのと、同じ顔になった。その顔をしている先生にじっと見られると、謝らなきゃいけないという気持ちになる。啓介は、逸らした視線をまた先生に向けて、またすぐに逸らして、ゆっくり、ゆっくりと、様子をうかがうようなおそるおそるとした視線を、先生に向けた。

「……ごめんなさい」

「謝るのは私に?」

 先生に言われた啓介は、本当に、しょげた顔をして、空に向けて「空、ごめん」と言う。空は屈託なく笑いながら「いいよ。でも、アイスは食べたいなあ」と、のんびりと答える。啓介は、閉じた唇にむっと力を入れて、目を閉じ、眉間に皺を寄せながら「分かった」と、低い声で言った。

「じゃあ、空の分のアイス、買いに行くぞ。俺の小遣いから出すから」

 啓介の言ったのを聞いて、空は「ほんと? やったあ」と、顔を明るくした。対して、啓介の顔は渋いままだった。小遣いの残額を思い出して、苦しくなっているのかもしれない。もう、七月も終わりだから。那智先生は、対照的な二人の様子をやさしい目で眺めながら、エプロンのポケットに右手を入れて、「啓介」と呼びかけた。啓介は、眉間に皺を寄せながら喜ぶ空を見ていたのを、声に反応して先生の方を見る。啓介と目が合うと、先生は、エプロンのポケットから、五百円玉を取り出した。

「これ、渡すから、家の分のアイスも買ってきてもらえる? あまりで、空のアイスも、買っていいから」

 啓介は、目を丸くして、ぱちぱちと瞬きした。口がぽかんと半開きになっていて、「いいの」と言う声も、なんだか間が抜けていた。先生は、そんな啓介の様子を見て、おかしそうに笑うと、「いいよ」と答えるのだ。しばらく、啓介と先生がじっと見つめ合って、啓介も、にっと笑みを見せる。五百円玉をつかむと、立ち上がって「空」と呼びかけた。

「アイス、買いに行こう」

「行く! そこのコンビニがいい!」

「スーパーじゃなくて?」

「コンビニ!」と勢いよく言って、空は立ち上がり、啓介の手を握って、廊下を走っていく。二人の背中はあっという間に見えなくなって、足音もあっという間に聞こえなくなった。「行っちゃった」と言う自分の声が、すごく寂しがっているように聞こえて、びっくりする。「しずくも行きたかった?」と尋ねながら、私の隣に座り直す那智先生は、今度は私のことをおかしがっているように笑っていた。

「ううん。私は、アイス食べたし、暑いのに出かけるのはあんまり好きじゃないから」

「そう。おいしかった?」

「いつもどおりだったよ。コンビニ、あのアイス売ってるのかな」

「どうかしら。いつも、買うのはスーパーの方なのよねえ」

「安いもんね、スーパーの方が」

「そうねえ」先生は、のんびりとした声でそう言って、庭の方を見ている。庭には何も植わっていなくて、取りきれなかった雑草が少しだけ残って緑色をしている。物干し竿を置いてはいるけれど、結局、普段の洗濯物は二階のベランダに干すから、布団とかシーツとか、大きいものを干すのに使うだけだ。空っぽのプランターや植木鉢が、板の塀の側に積み重ねられている。そのうちのいくつかは、私や啓介が小学校の頃、夏休みの宿題にしていた、朝顔だったりミニトマトだったりを育てたときに使ったものだと思う。空は、その手の宿題をしたことはない。この先もないのかもしれない。私たちの弟は、変わったこどもである。さっき、啓介と連れだって出て行くときの笑顔は、啓介と自然に握っていた手は、どこにでもありふれていそうだったけれど、やっぱり、私たちの弟は、どこか、変わっている。死にかけの蚊を観察して、その結果抱いた疑問だって。「――那智先生」

「なあに、しずく」

「さっき、空に聞かれたの。人間が死ぬときに、一番最後まで動くのは、どこなんだろうって。私、答えられなかった。先生なら、知ってる?」

「そうねえ」先生は目を閉じて、少し首を傾げる。それから、口元だけで笑うけれど、その笑いが、私に向けられているのか、それとも、きっと先生が思い浮かべている空に向けられているのかは、分からない。ただ、嫌な気持ちにはならなかったから、きっと、先生は私の疑問になった空の疑問を、きちんと、考えてくれているのだろう。私は、庭に投げ出していた脚を抱えて、背中を丸める。先生の手が、私の背中にそっと添えられた。

「私も、死んだことがないから分からないけど」

 当たり前のことを先生は言った。声の方を振り向くと、先生はやさしい目で私を見て、続けて何か言おうとしている。

「聞いたことがあるのは、聴覚ね。耳」

「耳」

「そう。死の間際まで、周りの声や音が、聞こえているんですって。だから、もし、不本意に死にかけている人が居たら、大声で呼んであげるといいかもしれないわね」

「……不本意じゃなくって死にかけてる人だったら?」

「きっと、お見送りの言葉じゃないかしら。もう、別れることは覚悟してるんでしょうから」

 きっと、なんて言ったけれど、先生の口ぶりは、それが正解だと確信しているようだった。だから、私の背中を撫でる手が穏やかで、優しいのかもしれない。先生の言ったことは、分かるような気もするし、分からないような気もする。ただ、さっき空が庭の隅で、自分の腕の上の蚊の死にかけを見ていた、影の差す背中を思い出す。虫の触角と人間の耳は、最後まで残る働きは、果たして同じでいいんだろうか。それのことを、空に、人が死ぬときはこうなるんだと、胸を張って教えられるだろうか。できない気がした。先生のやさしい笑顔から顔を背けて、庭を見る。今はもう誰も居ない、静かな庭。もしかしたら、明日も、あさっても、空は庭の隅に立って、何か生き物が死ぬのを、にこにことしながら眺めているかもしれない。私は、空を心配してその様子を見て、名前を呼んで、無視されるかもしれない。そうして空は、また、アイスを食べ損ねるのかもしれない。

「空、ちゃんとアイス買ってこれるかな」

「大丈夫よ。啓介がついてるんだし」

「明日からは、一人一個にしないとね、アイス」

「そうねえ。しずくは、啓介みたいにずるしない?」

「しないよ」啓介みたいに、分からないと言い切ることもできない、私は、私たちの弟のことを分かりたいと、やっぱり、いつだって思ってしまう。でも、そのためには、私が、空が知りたいと思っていることを、空が教えてほしいと思うことを、よく知っている必要があるのかもしれない。なんとなくそう思った。もしかしたら明日は違うことを思うかもしれないし、同じことを思うかもしれない。同じことを思ったなら、きっとそうした方がいいんだろうけど、どうやってそれを実現したらいいのかは、分からないかもしれない。そうなったら、そのための方法をよく考えて、それでも分からなかったなら、こうして、また先生に尋ねるのかもしれない。

「しずくはまだここに居る?」

「うん。啓介と空が帰ってくるの、聞こえたら、戻るね」

「そうね。そしたら、お茶かお水か、飲まなきゃね。今日もまだ、暑いから」

「はあい」

 私が返事をすると、那智先生の手が私の背中から離れた。後ろを振り向くと、先生はもう立ち上がっていて、「宿題、頑張ってて偉いわ」と言いながら私に背を向けて、廊下を歩いて行った。そういえば、忘れていた、空と一緒に座っていた居間のちゃぶ台の上に、夏休みの宿題を広げっぱなしだった。数学の問題集は、もう半分は終わっていて、他の宿題も同じぐらいのペースで片付いているから、八月の終わりぐらいにはのんびりできるかもしれない。問題を解きかけで、宿題を放って庭に出てきたのも思い出すけど、やっぱり、那智先生に言ったとおり、すぐ戻る気にはならなかった。啓介と空が戻ってきたら。そしたら、きっと空が提げているコンビニのビニール袋から、箱に入った八本のアイスから一つ頂戴して、二人に口止めして、この場所で食べてから、そうっと、先生のところに戻ろう。冷たい麦茶を飲んで、解きかけの数学の問題を、終わらせよう。

 また庭の地面に脚を投げ出して、ふうと息を吐いて体の力を抜いて、青い空を見上げてから、目を閉じてみる。耳を澄ませても、まだ、啓介と空の声も、足音も、聞こえてこなかった。


「もう、お彼岸ですね」

 花束をビニール袋に入れながら、店員がにこやかな声で言う。「そうですね」と相槌を打ちながら、千円札一枚と百円玉四枚を、店員の手のひらの上に置く。引き替えに花束を受け取ると、「ありがとうございました」とすがすがしい笑顔が返ってくるので、それに見合うような笑みを浮かべながら、軽く会釈をする。もう彼岸だと話しかけられたのは、雑談に丁度いい話題だからだろうか。他の仏花を買った人にも、同じように話しかけているのかもしれない。花屋だと、彼岸や盆暮れは当たり前のように忙しいだろう。ちょっとでも頭を休ませるのに、はじめは同じ受け答えをする、と決めているのかもしれない。右手に握ったビニール袋は、歩く度にがさがさと音を立てるし、視線を落とせば、ススキの穂がふわふわと揺れている。

 店を出て右を向くと、空が、ショウウインドウのガラスに背中を預けて、ぼんやりと道路の方を見ている。私が店に入ったときと同じ姿勢だった。疲れないのかしら、と思ったが、こちらを見て気の抜けた笑顔になるところからすれば、要らぬ心配だった。空は、「しーちゃん」と昔から変わらない私のあだ名を呼んで、ガラスにもたれるのをやめ、私と同じ方向に歩き出すと、ごく自然に、私の手から花束をとりあげる。袋の中をのぞき込むと「わあ、ススキだ」と楽しそうな声をあげた。

「秋だね。ススキと、リンドウ」

「どうせなら、季節感のある方がいいでしょ。ススキはいいとして、リンドウとキキョウは少し迷ったけど、先生はどっちが好きだったか」

「那智先生なら、きっとどっちも好きだよ」とうれしそうに笑って、空は、歩調を速める。「先生、一年中、花を買ってきて飾ってたから、きっとどんな花でもうれしいよ」

 空が速めた歩調に私は追いつけなくて、九センチもあるヒールなんて履いてきたせいだが、それにしたって空の足取りは軽かったし、はしゃいでいるようだった。まるで、遠足に行く日の小学生だ、空は遠足になんて行ったことはないから想像でしかない。リュックサックを背負って、赤と白の帽子をかぶって、軽い足取りで歩いて行く空を、先生と一緒に見送って、その背中が見えなくなった後に、顔を見合わせてため息をつく、なんて、まるでなんでもない想像。確かに、先生は家に花を飾っていた。それで、玄関や居間や、食卓が、なんとはなしに寂しく感じられたのか、そこに居るべき人が居ないという、そのためだけではなく。

 去年、先生の最期を病院で看取ったのは、私たちきょうだいだけであったし、その後の葬儀や相続の手続きを進めたのは兄であったから、先生の身寄り、家族というのは、少なくとも先生が死んだときには、おそらく私たちだけだったのだろう。狭いけれども個室だった病室に、兄と、啓介と、妹一人と弟三人と私が居て、先生の手を最期まで握っていたのは私だった。啓介は、私の後ろに座って背中を手で支えてくれていた。兄は、ナースコールをいつでも押せるようにだったんだろう、先生の頭側の窓際に立っていた。妹と弟たちは私の隣に並んで座っていて、空は、今日あった出来事を食卓で話すときのような笑みを浮かべながら「那智先生」と呼びかけていた。

 空は、いつの間にか私より背が高くなっていた。それなのに速歩で歩かれたら本当に追いつけないから、「空、もう少しゆっくり歩いて」と声を掛ける。空はぴたりと立ち止まって、こちらを振り向く。薄いブルーのシャツにネクタイは締めず、白いベストを重ね着して、紺地のチェックのスラックスに革靴。制服を着る空を見るのは、未だに慣れない。隣まで追いつくと、空は、私と同じ速さで歩き出す。九センチのヒールを履いてもまだ、空の方が背は高い。

「そういえば、お彼岸って、御盆とか命日みたいに、何か特別なのかな」

「うちは毎月墓参りしてるから、別に変わらないんじゃない。そうじゃなかったら、墓参りするいいきっかけなんでしょうね」

「毎月行ってるの、僕としーちゃんだけだけどね。今日も、お彼岸だけどみんな居ないし」

「まあみんな、週末には行くって言ってたし」

「ちーちゃんも?」

「啓介は、知らない、今どこに居るかも分からない」

 同い年のきょうだいの放浪癖を口にすると、自然と顔をしかめてしまう。空が「眉間のしわが大変だよ」とおかしそうに笑うので、どうにか和らげようとするが、どうしても、力が入ってしまう。生きていれば、生きてさえいれば別にどこに居たっていいのだが、今どき携帯電話すら持たないで旅に出るのだからその確認すらできない。

「帰ってきたらお説教だねえ、ちーちゃん」

「誰が叱るの」

「しーちゃんでしょ。先生のしかり方としーちゃんのしかり方、似てるもん」と教えられたことは、これまでに考えたこともない事実で、「そうかな」と相槌を打ちながら、「そうだよ」と笑う声を聞きながら、思い出す。先生は、どういう風に私たちを叱っていたか。

 確か、静かだったと思う。弟たちが小さい頃は、声を荒げるときもあったが、小さいきょうだいたちが言葉で聞き分けられるようになってからは、大声で注意する、ということはなかったような気がする。私たちが何か悪いことをしたら、先生は、まず、私たちと視線を合わせた。それから、静かな声で何をしたのかを確かめて、誤魔化そうとしたら静かな声のままで問い詰めた。そのときそうした理由を聞いて、どうしてそれがいけないことなのか、本当ならどうすれば良かったのか、私たちが自分で考えられるように声を掛けてくれた。先生が話すのを聞くうちに、私たちは、悪いことをしたと自らで反省したし、謝りもしたし、本当ならすべきだったことをやり直したりもした。先生は、最後には微笑んで私たちを見守ってくれていて、謝ったりやり直したりするのに私たちが困ったら、そっと手を貸してくれていた。

 私の叱り方のどこが、先生のそれと似ているのか。静かなところは似ているかもしれない、きょうだいを叱るときに声を荒げた覚えはない。他には? じっと目を合わせて話をしようとするところ? だって、そうしないと、私の言ったことで相手が何を感じたのか、考えたのか、分からない。切れ長の兄の目や、薄い色彩の同い年のきょうだいの目や、まっすぐに見返してくる弟の目や、かしこそうにくるくると動くもう一人の弟の目を、のぞき込みながらきょうだい達を叱ることがある。私の目は那智先生にどう映っていたのだろうか。しずく、と言い訳を許さない凜とした声で私を呼ぶ、先生の目も、私を真っ直ぐ見つめていた。

「お墓参り終わったら、どうしよっか、しーちゃん」と、空がのんびりと尋ねてくる。歩きながら、ビニール袋からはみ出したススキの穂を撫でている。猫のようだった。気まぐれで、考えていることの分からない。「考えてなかった」と返すと、空は、ススキを撫でる手を止めて、そのビニール袋を私に差し出してくる。「じゃあ、終わってから考えよ」と空が言うのを聞きながら、ビニール袋を受け取って、墓園の門をくぐる。足元の土はどことなく湿り気があって、暗い色をしていた。ヒールが土にめり込むから、歩みが重たくなる。

 空は、小走りで水場へ向かっていて、いつものように、共用のバケツに水を汲んで、柄杓と一緒に持って来るつもりだろう。二人で墓参りに来るときには、大体そういう役割分担になる。私は先に墓の前に向かって、できることをしておくのだ。砂利の隙間から生えてきた草をむしったり、墓石にこびりついた鳥の糞を取り除いたり、それくらいのことだけれど。

 墓地に立ち並ぶ墓石は高さや形が色々で、石の色も、風化して茶色っぽくなったものから、まだ新しく、つやつやとしたものもある。先生の墓は、昨年建てたばかりだから、御影石の白さがまだ眩しい。春海家先祖代々の墓、と先生の苗字が掘られた墓の中には、先生ひとり分の骨しか納められてはいない。先祖代々なんてやあね、と笑う先生の声が聞こえてきそうな気がする。

 水鉢にはうっすらと水が張っていて、花立ての中をのぞき込んでみても同じだった。何日か前に雨が降ったから、そのときの水が残っているのだろう。夏の名残を洗い流すような激しい雨だった。啓介の姿が見えなくなったのは、その雨の日だったように思う。啓介が家を出るときに、傘を持っているか、問いかけたことは覚えている。まったく、うちのきょうだい達は自由気ままで、それは私も含めてのことだけれど、先生が居ないとなっては、誰かの言うことを絶対に聞かなければいけないとかの決まりもなくて、そうすると、家族というにはてんでばらばらになってしまう。啓介がいつ帰ってくるかも、私には分からない。

 墓石の周りには、いつもどおり、ぽつぽつと雑草の芽が生えている。スカートの裾をたくしあげてしゃがみこみ、小さな芽をつまんで上へ持ち上げると、簡単に抜けて、根には黒い土がびっしりとついていた。墓石のそばに抜いた雑草を置いて、次の芽をつまんで、抜く。昔、家の庭でしていたのと同じだなあとふと思い出す。がらんとした庭には、とりきれない雑草が残っていて緑色をしていた。順番に草取り当番が回ってくるのが、うれしくはなかったように思う。だって、手が汚れるし、疲れるから、と言い訳をしたとき、先生は、まっすぐに私の目を見て、何か叱る言葉を言っていた。約束は破ってはいけません、だったか。ルールは守りなさい、だったか。抜いた雑草を同じ場所に置いて、自分の指先を見てみる。昨日の夜に短く切ったばかりの爪の間に、それでも黒い土が少しは入り込んでいて、指先の丸いてっぺんにも、黒い土が少しついている、と思ったら、背中に人の気配がして、自分の手元が影になる。何か重たいものを地面に置く音に後ろを向くと、空が、水の入ったバケツを持って来たところだった。

「雑草抜くの、手伝おうか?」

「大丈夫。墓石の掃除しといて」

「綺麗そうだけど」

「だったら、花を飾っといて」

「はあい」と素直に返事をして、空はバケツに入っていたひしゃくを手に持ち、墓石の天辺から水を流す。綺麗だったんじゃなかったのか、と考えながら眺めていると、水が流れて濡れた石の、石英だか長石だかの鉱物が、少し透き通って見えてくる。それから、地面にも水は流れて、いっそう土の色が濃くなった。次の雑草に手を伸ばして、また引っこ抜いて、雑草の山の上に放る。墓石と土の境界に、濁った水が一瞬だけたゆんで、土に吸い込まれて消える。ついで聞こえてきたのは、ビニル袋のこすれる乾いた音で、分かってるならどうして先に水を掛けたのだろう。雑草に向けて伸ばしたつもりの手の先には、濡れた土しかなかった。山になった雑草を、こぼさないように手のひらの上にのせて、立ち上がり、墓石の正面に回る。ススキの穂が、花立ての縁にかかるように垂れている。その下に、少し膨らんだビニル袋が置かれていて、花束の包み紙とセロファンが押し込められているようだった。手の中の雑草を、ビニル袋に落として、ついでに、手のひらの土を払い落とす。「しーちゃん」と空が呼ぶのに、「なに」と返事をして、もう一度ずつだけ両の手のひらを払って、空を見る。墓石の正面に立って、まっすぐに、前を見ていた。

「このお墓には、先生の他に誰の骨を入れるの」と、それが疑問なのだと一瞬気付かないような調子で、空は言った。先祖代々、というのは今のところ嘘で、この墓に最初に入ったのは先生だ。他。他に入るとしたら、春海の苗字を持つ誰か。先生の他には、私たちが知っている範囲では、空だけだ。「僕しかいないよね」と笑い混じりの声で言うのだから、わざわざ聞くまでもなく、空だって分かっているはずだ。

「先生と一緒なら、さみしくないね」

「寂しいも何も、死んだ後に入るんだから、分からないでしょうに」

「分かるかもしれないよ。しーちゃんだって、死んでたことはないんだから」

 いつかの先生と同じようなことを言う空に「分かるわよ」と答えながら、ステンレスのバッドで腹を上に向けてひっくり返ったカエルの死体を、ラットの死体を、思い出す。手術台の上に横たわった物言わぬ死体を、思い出す。メスやハサミの刃で切り裂く、冷たいからだが、死ぬということの結果なのだから、もはやどの神経にも電位の変化が起こらないことが、死ぬということの結果なのだから、さみしいなんて感情は、起こりようもない。空だって、分かっているはずだ。「ふざけてないで、手、合わせるよ」と言えば、黙って目を瞑り、すぐに手を合わせるぐらいには。私も、そっと目をつむり、手を合わせる。墓参りは、こうして、生きている私たちの方が、思いを馳せるためにすることじゃないか。死んだ人とはもう話せないし、叱られることもない。握った手を握り返してくれることもない。最期、握っていた先生の手に、もうどうやっても力が入らないのが、理解ができなくて、しばらく先生の手を離せないでいた。きっと、またいつか、家族の誰かをそうして見送ることはあるのだろう。ずっと先のことであってほしいと思う。起こる現象は理解ができても、伴う感情に慣れることはずっとできないだろう。そして、私がそう思っていることを、空に、分かってほしいと思う。死ぬということを理解するために、空は、本当に死んでしまいそうだと、私はおそろしく思う。目を開けて、横を見て、まっすぐに墓石を見つめる空がそこにいるのを確かめて安堵して、手を下ろす。「行こうか」と言った声は、喉に引っかかって掠れた。

「どうする? 食事でもして帰る? それとも、まっすぐ家に帰る?」と、空は首を傾げる。左右に均等に首を傾げて、どちらでも構わないようだった。空腹は感じていない。ただ、家に帰る頃に丁度、空腹を感じそうにも思ったから、「どこかで食事を買ってから、帰ろう」と提案する。空は、「いいね」と頷いて、水と柄杓の入ったバケツを持ち上げる。私は、花束を入れていたビニル袋を、手に持つ。

「また、来るね。那智先生」

 微笑みながら空が言うのは、お墓参りの最後には普通の言葉なのに、私が連想するのは、空を欠いた家族の面々が、喪服を着てこの場所を訪れる様子で、本当になってほしくないし、本当にしないために、私はもっと死について分かる必要があるのだと思った。空に、死について分かったことを伝えなければいけないのだと思った。それが、今、私にしかできない役割か。

「ハンバーガー、食べたいなあ」と言って、空は墓地の出口に向けて歩き出す。その斜め後ろについて、私も歩き出す。よその墓にも、ススキの穂が揺れているところは多かった。

「帰るまでに冷めるよ」

「じゃあやっぱり食べて帰る?」

「お腹もすいてないのに?」

「そうだった」

 まったく他愛ない会話をしながら、空は微笑んでいて、骨になったら表情だって分からなくなるのに、やっぱり、死んでからさみしくないだなんておかしいなあと思う。「だったら、冷めるの我慢する」なんて難しそうな声で空が言うのだって、生きていなければ聞けないのだから、私は、やっぱり空に死んではほしくはなかった。

「じゃあ、なるべく早く帰るのがいいね、店も選んで」

「そうだね。温め直したのって、なんか全然おいしくないし、温かいうちに食べたいなあ」

 他愛もない会話をしているうちに、出口に近付いていて、空は来たときと同じように、バケツを持って水場に向かった。そこで、バケツに残った水を捨てて、水道水でざっと土を流している。私は、ビニル袋をくしゃくしゃに丸めて、門の側に置かれたゴミ箱に放り入れる。そのまま門をくぐって、立ち止まって後ろを振り向くと、空がこちらに、小走りで近付いてきている。あと何回、空と二人で墓参りをすることになるだろう。何回やってもいい、億劫に感じることはきっとない。

「行こう、しーちゃん」と、安いテイクアウトのファストフードに期待して目を輝かせている私の弟に、私は、どうしたって生きていてほしいのだし、死ぬということを、生きている弟と一緒に理解したいと、思っているのだ。


 医者になりたい、という私の夢を聞いて、真面目に受け答えしてくれる人は少なかった。女のくせに、とか、みなしごなのに、とか、理由にもならないような理由で無理だと決めつけられていたのだろう、と思う。そういうことを口にする人も居れば、しない人も居た。蔑むような、馬鹿にするような目で見られることもあれば、哀れみのこもったまなざしを向けられることもあった。その夢を、まだ外聞も何も分からずに口にして回るぐらいの年齢だった私は、周りの反応がいたく不満で、誰彼相手に夢を口にして回ることはなくなっていった。だからこそ、真面に私の夢を取り合ってくれた相手には、よくよくそのことを話したものだった。たとえば、啓介に。たとえば、慧に。たとえば、那智先生に。そして、月見里先生に。

 月見里先生は、私と啓介が通っていた小学校の養護教諭だった。保健室を利用したい生徒がやって来ると、今にも追い返さんばかりの剣幕で事情を聞き、必要な処置を施すことで有名だった。仕事が嫌いなのか、こどもが嫌いなのか。ただ、役割はきちんと果たす人で、本当に必要なら保健室のベッドはきちんと使わせていたし、けがの手当は的確だったし、急病や大怪我の生徒が出たら近くの総合病院まで付き合うことを厭わなかった。

 所謂、保健室登校、というのは、保健室の正当な使い方に含まれるだろうと思うけれど、ただのサボりとか、エスケープというのは、怒られるような理由だろう。そういう理由ばかりで足繁く保健室に通っていたのが、私の同い年の弟である啓介で、啓介の荷物を持って、あるいは、教諭からの伝言を預かって、保健室に啓介を迎えに行くのが、私だった。ノックをしてから保健室のドアを開けると、部屋の奥の机の前に腰掛けた月見里先生は、うっとうしそうに顔をしかめて、早く帰れ、とそっぽを向いていた。

 私の、医者になりたいという夢を、月見里先生に話そうと思って話したわけではなかった。ただ、啓介を迎えに行ったのに、白いベッドの上で丸くなって眠っている啓介が、いくら体を揺らしても目を覚まさなかったので、仕方なく、月見里先生に許可をもらって、そのベッドの足元に腰掛けて、啓介が目を覚ますのを待つことにした、そういう雨の日のことだった。もうすぐ卒業、という年齢だった私たちには、卒業文集に載せるための作文の提出が迫っていて、そのテーマが丁度、将来の夢、だった。書き終わった作文に間違いがないかを確かめるために、ランドセルから用紙を取り出して、膝に載せたランドセルの上で、自分が書いた文字を目でたどっていった。

 そのとき、ふと、月見里先生が「医者になりたいのか」と、私の作文をのぞきこみながら、声を掛けてきたのだ。私は、いつもこちらに興味なさそうにしている月見里先生が話し掛けてきたことにびっくりして、頷くだけで返事をした。そうすると、月見里先生は「そうか」と独り言のように応じて、ベッドから少し離れたところに置いてあった丸椅子を引きずってきて、私の正面に腰掛けた。背中を丸めて、太ももに肘をついて、何をいうでもなく私の手元の作文用紙を見つめていた。この人は何を考えているんだろう、何を言いたいんだろうというのが、そのときの私には分からなくて、見られていることの居心地の悪さに、背中をぞわぞわさせていた。私はもう、自分の夢を滑稽に思う人が居ることは分かっている年齢だったので、この人もそうなのだろうかと、不安に思っていた。

「医者なんて、いい職業じゃないぞ」

 月見里先生は、笑いを含んだ声でそう言ったけれど、その笑いが私に向けられているのではないのは、何となく分かった。月見里先生の言ったのは、やっぱり、私の夢を否定するようなことだったけれど、私の何かを理由にして否定されているのでないのも、すぐに分かった。私が、「どうして?」と、明け透けな言葉で月見里先生に尋ねたのは、そういうことだったのだろう。

「しんどいぞ。六年間、勉強するのは」

「勉強は好きだから、大丈夫」

「それでも、しんどい」と、月見里先生は、私の言葉を否定して、続けた。眼鏡の奥の暗い目は、私の方を向いてはいるけれど、私のことは見ていないようだった。そして、笑いを含んだ声のまま、「どうして医者になりたいんだ」と尋ねてきた。私は、一番下の弟のこと、空のことを思い浮かべたけれど、それを説明するのにぴったりくる言葉が見つからなくて、手元の原稿用紙に視線を落とした。

 私たちが小学校を卒業する頃というのは、空がうちへやってきてからようやく二年が経とうかという頃だった。空の相手を、大学進学のためにうちを出た慧に代わって、私と啓介が担っている頃だった、そうしなければいけない頃だった。けれども、その頃の空は、私には見向きもせずに、啓介の後ろを、カルガモの雛のようにひょこひょこと着いて回っていった。空は、私とは目を合わせてくれなかったし、話をしてはくれなかった。手をつなぐなんて、できようもなかった。何かしなければと思って私が空の前に立つたびに、空の黒くて大きな目は、見ているのか見ていないのか分からないような茫洋さで私を眺めていた。私だけでなく、テレビとか、台所とか、庭の隅の蟻の巣とか、ありきたりのものを、空は、まるでガラス玉のような動かないまなざしで、眺めていた。私は、空のあのまなざしがどうしようもなく奇妙なものに感じられて、どうして空があんな風に私を見るのかが理解できなくて、空の前に立つのを怖いと思ってしまっていた。那智先生と慧は、空のそのまなざしをものともせず、私たちに接するのと同じように、空に接していた。啓介にいたっては、「空の目はきれいな黒色だなあ」と、自分の薄い色彩を棚に上げて空のまなざしを褒めさえするのだった。空のまなざしがそれで動くわけではなかった。けれども、空は、那智先生や慧や啓介には、手を伸ばしていた。

 そうして、空のことを考えてはみたけれど、何も、はっきりした言葉にはならなかった。ただ、情けないような、悔しいような気持ちに鼻の奥が熱くなってきて、奥歯を噛みしめながら原稿用紙から顔をあげた。月見里先生はもう笑ってはおらず、背筋を伸ばして、脚を組んで、太腿に頬杖をつきながら、口を開いた。「説明できないような理由なら、なおのこと、やめた方がいいぞ。後悔する」と、忠告めいたことを言われても、私は、まったく納得がいかなかったし、そもそもなんでこの先生がこんなことを言い始めたのかが分からなくて、困惑していた。ろくに話したこともない先生なのに、馬鹿にするわけでもなく、でも応援してくれるわけでもなく、私の夢について話をしてくれる大人に、戸惑いつつも、その言葉を否定するような言葉を思いつかなくて、もう一度、原稿用紙に視線を落とした。「将来の夢」と、HBの鉛筆で書かれた細い線の文字が、枠線の中に真っ直ぐに並んでいた。ため息と、衣擦れの音が聞こえた。

「医者が、実際どんな仕事をするか知ってるか」

 話し始めた月見里先生の言うことは、私の興味をそそった。疑問を投げかけるでなく、忠告めいたことを語るのでなく、何か、中立的な声色で話し始めた月見里先生に、私はすぐに顔をあげた。

「お前らが行くような町中の医院だけじゃなく、ほら、何駅か向こうに、大学病院やら、市立病院やら、でかい病院があるだろう、ああいうところで働く場合もある。そうしたら、患者と会う医者もいれば、会わない医者もいるだろうな。それに、病院に勤めるとは限らない。会社に、そこの従業員の健康管理のために雇われる医者もいれば、学校に勤める医者もいる。俺みたいにな」

 おれみたいにな、と月見里先生が最後に添えた言葉ではじめて、私は、目の前に居る保健室の先生が医者であることを知った。だって、保健室の先生は先生という括りであって、啓介を迎えに行くとき以外に顔を合わせる機会である健康診断で最後に診察をしているのだって、先生としての仕事だろうと、深く検討せずに決めつけていたのだ。それと同時に、月見里先生が色々とあげた場所、仕事の内容に、私の頭の中はぐるぐると忙しなく動き回った。小さい病院と大きい病院があることは分かっていたが、患者に会う仕事と会わない仕事があるということは、ぴんと来なかった。ただ、分からないことが混じっているだけに、月見里先生が話したことは本当のこと、私がまだ誰にも教わっていない、夢に関する正しい知識のように思われて、しゃべるのをやめた月見里先生の口元をじっと見つめてしまった。そのせいだったのか、元から言おうと思っていたのか、月見里先生はそれまでよりもぎゅっと目を細めて、顔をしかめて、口を開いた。

「それで、お前はどんな医者になりたいんだ」

 今思い出しても背筋が伸びるような、あんなタイミングで投げかけられるには険しすぎる声色だった。叱られているような居心地の悪さを感じながら、それでも私は、月見里先生の問い掛けを一生懸命考えていた。私は、私の夢を真剣に聞いてくれる人に、やっぱり飢えていたのかもしれない。手元の作文用紙を見て、正面に座る月見里先生の口元を見て、さっき月見里先生に言われたことを思い出して、どんな医者、という問い掛けを繰り返し頭の中で呟いて、思い浮かぶのは、やっぱり七つ年下の弟のことだった。私にまるで無関心な真っ黒の目をした、空のことだった。


 そんな、もう十年以上は前になるずっと昔のことを思い出しながら、真っ白な便せんに連ねた言葉は、脳裏を巡った記憶に比べるとひどくあっさりしている。

 昔、月見里先生は、どんな医者になりたいのかと、私に聞かれましたね。

 たったそれだけだ。確か私は、結局、この質問に答えられなかった。それを確かめるためだけに、私は、長々と思い出を手繰ってしまった。

 あの時、私が考えている間に、啓介が目を覚まして、あの場所にとどまる理由がなくなってしまったから。啓介は何も知らないから、布団から起き上がるなり早く帰ろうと私を急かしたし、月見里先生は月見里先生で、早く帰れと険しい声音で私たちに言い放った。さっきまで話していた私の夢のことなんてまるで口にできる雰囲気ではなくなってしまって、私は、教室から持ってきた黒いランドセルを啓介に押しつけて、逃げるように保健室を出て行った。啓介がもう少し眠ってくれていたら、啓介が起きた後も月見里先生が真剣に私の話に付き合ってくれていたら、私は月見里先生の質問に答えられただろうか。きっと、無理だった。どれだけ時間をもらってもきっと答えられなかっただろうし、答えられるものなら、私は、今こうして月見里先生に手紙を書くことも、なかったろうと思うのだ。

 さっき書き連ねた一文の下に、充分にスペースを空けて、ペン先を置く。

 そういう月見里先生は、どんな医者になりたかったのですか。

 それで、書きたいことは終わりだった。たった二文しか書いていない手紙なんて、贅沢だこと。と、冗談めかして考えながら、真っ白な便せんを四つ折りにして、封筒に入れる。両面テープの剥離紙を剥がして、封をして、蓋と本体の境目にバッテンを書く。横長の封筒の左下には、住所と自分の名前を小さく、書く。封筒を表に返して、真ん中に大きく、「月見里悟様」と書く。月見里先生の名前は、今回初めて知った。同窓会誌様々だけれど、未だに住所まで載せっぱなしというのは、些か危機管理がなってないのじゃないだろうか。でも、記憶にある月見里先生は、そういうことをあまり気にしなさそうではあった。住所まではさすがに覚えていない、付箋を貼ったページをめくって、赤ペンで囲った場所を見る。多分自宅なのだろうマンションの一室の住所と、郵便番号を、順に書く。後は切手を貼って投函するだけだが、切手の買い置きなんてしていないから、また明日、郵便局に行かなければならない。封筒を鞄の内ポケットにしまって、同窓会誌は閉じておく。まさか、月見里先生と同じ大学を卒業してしまうなんて、思いもしなかった。

 あの後、小学校を卒業するまでの間に、再度月見里先生と話すことはなかったし、中学校に進学してからは当然会う機会すらなかった。空が小学校に進学するころにはとっくに転勤していたし、そもそも、空はほとんど小学校に通わなかった。そんな生徒のことを月見里先生が覚えているだろうか。覚えていたとして返事を書いてくれるだろうか。書いてくれないだろうか、と思う。帰ってきてほしいなと、考える。こんなタイミングで月見里先生の名前を見つけてしまったのだから。

 

 空と私の距離が縮まったのは、ある一つの出来事を契機にしてだった。その日、那智先生は出かけていて、啓介もいつの間にか家から居なくなっていて、慧は家に来る予定はなくて、つまり、家には空と私の二人だけだった。中学校に入学する前の春休みには、宿題なんて出ていなくて、私は暇をもてあましては居たけれど、空と二人で何かをするなんて考えられなかったから、自分の部屋で中学校の教科書を読んでいた。理科の教科書に並んだ植物のパーツをばらばらにした図に心をひかれたり、数学の教科書に書かれた方程式とやらに首を傾げたりしながら、畳の上でだらだらと寝転がっていた。

 そうしているとき、「わあっ」という、誰かが驚いたような声が、聞こえてきた。誰か、なんて遠回しに考えなくとも、空に決まっていた。何が起こったのか、分からなかったけれど、私はそのとき持っていた理科の資料集を放り投げて、立ち上がって、部屋を出て階段を駆け下りた。私は、確かに空の前に立つのを怖いと思っていたけれど、それは、弟に何かあって心配しない理由にはならなかった。

 一階についてから、何となく勘で、台所に向かった。そうすると、空は、流し台の前の床に座り込んでいた。「空」と呼んだ自分の声は上擦っていて、よくこんな声が出るなとどこか冷静に考えながら、「何してるの」と続けていった。空は何も言わずに、代わりに、私の方を振り向いた。空の右手には、包丁が握られていて、その包丁の刃の真ん中には、鮮やかな赤色が付いていた。

「何してるの」と、繰り返して言う私の声は、驚きと、焦りと、恐怖で、がちがちにかたまっていたと思う。なのに、体はそれまでにないほど素早く動いて、こちらを見る空の目がやっぱり茫洋としていることも気に留めず、私は、空を後ろから抱きすくめて、空が右手に持っていた包丁を取り上げて、自分の後ろに置いた。空の左手首に赤色が流れているのが見えて、そこを強く握った。血のせいで指がぬるりと滑ったけれど、気にせずに、空の手首を握りしめた。私の手の中にある空の手首は、温かかった。不意に私の右手を軽く握った空の右手も、同じように、温かかった。後ろからなら、空の目は見えなかった、ということも、関係はあったのかもしれないが、そのとき私は、空のことを怖いとは思わなかった。怖いとは思わなかったが、恐怖のためでなく、涙が出た。空の血も温かいんだなあとか、手は温かいんだなあとか、当たり前のことを考えながら、握りしめた空の左手の手首から流れる血がなかなか止まらないことに震えながら、那智先生が帰ってくるまで泣いていた。

 その後、空の怪我は那智先生が手当てした。しばらくの間、空の左腕に巻かれていた白い包帯を見ると、私の方がぞっとしてしまっていたけれど、当の空はといえば、私に笑いかけるようになった。私と手をつなぐようになった、話すようになった。茫洋とした目で何かを眺めることはなくなって、大きな黒い目には、くるくると変わる感情が移るようになった。まるでこどものようなその様子に、怖いと感じることは全くなくなって、私はようやく、空と普通に過ごすことができるようになった。

 そして、やっぱり私は医者にならなければいけないと、強く考えたのだ。


 しず姉、と襖の向こうから末の弟の声がする。雑誌を畳の上に置いて、寝そべっていた体を起こし、クッションの上に座り直してから、「どうぞ」と返事をする。ゆっくりと襖が開いて、理人が部屋に入ってきた。

「どうしたの」

「郵便物。しず姉あての」と、理人はいくつかの封筒を差し出してくる。それを受け取って「ありがとう」と言えば、理人は無表情のままで小さく首を横に振った。これは自分の仕事だから、とでも言いたいのだろう。理人は表情の動きが少ないが、言いたいことは大抵分かる。それが家族というものだと言われれば、そうなのかもしれない。それ以外に用事はなかったようで、理人はすぐに部屋を出て、後ろ手に襖を閉める。足音が遠ざかっていくのを聞きながら、もう一度畳の上に寝そべる。天井に向けて封筒を掲げながら、裏面の差出人を確認する。法医学会、精神神経学会、月見里悟。月見里先生からの返事。

 学会からの郵便は放り投げて、月見里先生からの封筒だけを握りしめて、体を起こす。あの、仏頂面で、固い声の先生が書いたとは思えない、力強い筆跡。封緘はされていない。封筒の短辺を一回、二回と床に打ち付けて、もう一方の短辺を端から千切る。封筒をひっくり返すと、便箋が一枚、はらりと、畳の上に落ちる。真っ白な便箋、白衣を連想する。私の着る、月見里先生の着ていた。便箋を手にとって、開いてみる。封筒の裏面の差出人と同じ、油性のボールペンで書いたんだろう、太い線の、ぎりぎりと張り詰めた線の、力強い筆跡だった。便箋の真ん中に、ぽつんと、短い一文が書かれている。

 誰かを助けられる医者になりたかった。

 まるで、私が書いたような答えだった。保健室で、ランドセルの上の原稿用紙を眺めていたときには言葉にできなかった、どうしたって空に結びつけてしまっていた、大声で叫び出したくなるような、でも、叫ぶことができないから、内側に張り詰めて、拳を握りしめるしか、奥歯を噛みしめるしかできなくなるような、もどかしい感情。医者になりたかったのは、病気を治せるようになりたかったからでも、病気を見つけられるようになりたかったからでも、お金が欲しかったからでも、感謝が欲しかったからでもない。私はただ、空を助けられるようになりたかっただけだった。まるで死んでいるようだった私の弟を、いつの間にか死んでしまいそうだった弟を、死をどこまでも探求したがるような弟を、どうにかして、助けたかっただけだった。私は、空に死んでほしくなかった、生きていてほしかった、それは空のためではなく私のためだったかもしれないけれど、大切な家族に死んで欲しくないと願うのは、許されないような理由だろうか。そうではないと誰かに言ってほしかったせいで、月見里先生に手紙を書いたように思う。

 そして、今なら、月見里先生があんなにも険しく、医者になりたい理由を、医者としての理想を、私に問うていたのかが、分かるような気がする。小学生に対しては厳しすぎたとは、やっぱり思うけれど、月見里先生の質問は、私に対して誠実だった。月見里先生なりに、同じ道を志す後輩に対して、気を遣ってくれたのかもしれないし、ただ単に、月見里先生が不器用すぎただけなのかもしれない。月見里先生の返事は過去形だった、私と同じように、私よりもずっと早くにそうなっていたからこそ、月見里先生は、覚悟はあるのかと私に問うていたのだ。多分、そんな覚悟は最後までなかったけれど、なまじ頭が良かったから、ここまできている。思わず、笑みがこぼれた。明日も仕事だ、本当の仕事が来るかどうかは分からないが、大学に出勤はしなければいけない。目元をぬぐってから、便箋を折り畳んで、封筒に戻す。目と鼻の奥は熱いし、口の奥で塩辛い味がする。明日と、あさっての仕事が終われば、しばらくは休みをもらっている。初盆だからゆっくり休めと、そういうことなのかもしれない。

 お盆のお墓参りには、家族で連れ立っていこう。みんなで揃って、仏花を買って行こう。ケイトウか、ゴクラクチョウカの入ったのがいい。生々しいような色の花がいい。墓参りをしたら、食事に行こう。チェーンのファストフードで、安いハンバーガーを食べるのだ。もしも、啓介が帰ってきていなかったら、仕方がないから他のみんなで行くだろうけれど、帰ってきたときにはうんと厳しく叱らないといけない、ただでさえ、反省しないのだから。

 その前に、残り二日の仕事を無事に勤めなければいけない。私はまだ死んでいない、生きていくのだし、そのために、仕事をしなければいけない。はじめの理由はなくなっても、それは仕事をやめてしまう理由にはならないし、私は多分、この仕事にそれなりに向いている。もう、解剖の後に焼き肉に行くのだって平気なのだ。私はそうして、死んだ人を患者にしながら、医者として生きていく。私の弟を助けることはもうできなくっても、そうして、生きていく。

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