第二章引き継ぎしもの(七)

 元久元年、西暦一二〇四年、数え年十三歳の将軍実朝の縁談が進んでいた。結婚も、将軍としての務めの一つとはいえ、兄頼家の死からまだ一月しか経っていないにもかからず進められていく慶事に実朝は複雑な思いを抱いていた。

 幕府の首脳部は、足利義兼の娘を候補に挙げていたが、祖父の北条時政は、前権大納言坊門信清卿の姫君を推していた。足利義兼の娘の母親は、時政の娘で、実朝の母政子の同母の妹に当たる。信清卿の子息忠清卿には、時政とその後妻牧の方の娘が嫁いでいる。いずれにしろ、北条家とは縁戚関係にある。

 だが、時政の思惑はどうあれ、選択肢が極めて限られている政略結婚の相手として選ぶならば、実朝は、坊門家の姫君の方がよいと思った。兄頼家の閨閥であった比企氏と母政子の実家北条氏との間で血の争いが起きたばかりで、今また、実朝の妻を関東の御家人の中から選べば、御家人間の勢力の均衡が崩れ、同じことが繰り返される恐れがあったからだ。

 坊門信清卿は、後鳥羽院の生母の兄弟であり、その娘西の御方は院の後宮で、子女を設けている。実朝の花嫁候補の姫君は、院の従兄妹で、義妹でもあり、院の血筋に連なる貴種であったから、もう一人の候補が関東では勢力を持つ有力御家人の娘であるとはいっても、家柄・血筋には雲泥の差がある。坊門家の姫君ならば、将軍の正室たる御台所として、誰が見ても文句のつけようがない。

 しかし、一方で、坊門家の姫君が実朝の御台所となれば、父頼朝の妻であり、現鎌倉殿の母である政子を差し置いて、時政の後妻牧の方が大きな顔をしてしゃしゃり出て、彼女の分を弁えぬ僭越な振る舞いが増すことは明らかだった。

 時政は、実朝の外祖父として権勢を誇ることができたとしても、実朝と血のつながりのない牧の方自身には、実朝を擁立することにそれほど大きな利点はない。

 むしろ、先妻の子である政子が、鎌倉殿の妻であり、母として君臨している姿は、牧の方にとってみれば妬ましいばかりに違いなかった。

 時政の後は、年齢、経験、能力、人望、誰が見ても、父頼朝の時代から仕えてきた叔父義時が継ぐのが順当である。

 しかし、牧の方は、自分の産んだ政範を時政の後継者にしようと企んでいる。若輩者の政範が、時政の後を継いだところでまつりごとが立ち回るわけがなく、その信望も得られないだろう。それくらいのことは、政範よりも年下の実朝でも分かる。実朝の後見を母政子が行うように、それに対抗して、牧の方は、政範の後見をしようと考えているのだろう。

 だが、母政子と牧の方とでは決定的な違いがあると実朝は感じずにはいられなかった。鎌倉殿の妻として父頼朝と苦楽を共にし、御家人達の信望を集め、的確に政治的な判断を下す能力を母は持っている。何よりも、実朝は、母の慈愛深さをよく知っている。母は、我が子を決して己の野望のためだけに利用しようとしたりはしない。

 それに対して、牧の方には、為政者として、鎌倉のために尽くそうという意思は微塵もない。あるのは、分不相応な妬みと自己中心的な野心だけだ。実朝にとって、父頼朝と苦労を共にしてきた母政子を蔑ろにする牧の方の態度はとうてい許容できるものではなかった。

 だが、牧の方に、年少の実朝が道理を説いたところで、それが通じる相手ではないことは明らかであるから、今の実朝は沈黙するしかない。牧の方の専横を許している祖父時政にも、実朝は本心を明かす気にはなれなかった。

 実朝は、己の野望と憎しみに満ちた牧の方の目を思い出す。御台所を迎えたとしても、いずれ、自分は、牧の方の意を受けた者達に排除される、実朝は本能的にそのことを悟っていた。実朝は、自分の身を守るためにも、当分の間は、「無邪気な少年」でなければならなかった。

「私は、京の姫君がいいなあ。気が強くておっかない焼き餅焼きの坂東の娘に、家を壊されるのはまっぴらごめんだよ。淑やかな京のお姫様ならそんなことはないだろうからねえ」

 父頼朝と母政子の壮大な大喧嘩を茶化したような言葉に、大人たちの反応は様々だった。

「まあ!御所!なんて言い草ですか!大事な話をしているというのに!」

 母政子は、あからさまに不機嫌な表情を見せた。

「御所様、その物言いはどうかと……」 

 叔父義時は、政子の顔色を窺いつつ、呆れた様子で若い実朝を窘めた。

「そうでしょうとも、そうでしょうとも。御所様には、田舎臭い坂東の娘なんぞよりも、雅な京の姫君の方がお似合いですとも」

 時政だけは、ぶっと吹き出して笑いをこらえながら、我が意を得たりと言った勝ち誇った表情をしていた。

「じゃあ、その方向で進めておくれ、じじ殿。正式な返事はまた後でゆっくりとね」

 実朝の返答に満足した時政は、「このじじがうまくとりはからいますゆえ、どうぞお任せください。」と大喜びしていた。

 

 話し合いの後、政子と義時は頭を抱えていた。

「何ですか!あの親を馬鹿にしたような物言いは!」

「いえ、姉上、問題はそこではなく。ご自分のご結婚というものがどういう意味を持つのか、お若い御所様は、本当に分かっていらっしゃるのでしょうか」

 姉と兄に対して、時房はのんびりした様子で答えた。

「その点は、大丈夫でしょう。御所様なりに、考えたうえでのことじゃないですか」

 時房の言葉の意味がよく分からない義時は、「どういうことだ?」と聞き返した。

「坂東の御家人の娘を娶って、御家人間の勢力の均衡が崩れるようなことはしたくないのしょう」

 時房の言葉で、古傷が疼いた政子は、うつむいてしまった。

(あの子は賢い。おそらくいろいろなことを見抜いたうえで、耐えているのだ)

 政子も義時も、時房のいうとおりであろうと思った。

 

 実朝の縁談が進むにつれて、牧の方の横柄な態度はますます目立つようになった。京育ちの立ち振る舞いは一見洗練されているようにも見えるが、自己中心的な野心と傲慢さに裏打ちされたそれは、返って品性の卑しさを目立たせる。素朴な坂東の娘ながらも、苦労と経験を重ねて貫禄を身につけ、温かみのある母政子の方が、実朝にはよほど上品だと思った。

 その母に、自分の身を守るためとはいえ、なんという物言いをしてしまったのだろう。実朝は、ひどく後悔した。父と兄姉も亡くなり、母にとって自分は残されたただ一人の子なのだ。牧の方の愚かな野心のために、自分は、きっと、母よりも先に逝くだろう。その時、母はどう思うだろうか。あの優しい母を誰が守ってくれるのだろう。

 牧の方のおぞましい視線にさらされ続けた実朝は、大きな疲れを覚えた。実朝は、母に会いに行きたいと無性に思ったが、母を侮辱するような言葉を口にしておきながら、母に甘えようとしている自分を恥じた。

 実朝は、気分を変えようと、突然思い立ったように、叔父義時の邸を訪問した。

「特に用事があったわけではないのだが。何となく叔父御に会いたくなったのだ」

 実朝が照れたように言うと、叔父は、突然の訪問だったにもかかわらず、大喜びで実朝を迎えてくれた。

 すぐに帰るからと実朝は言ったのだが、今夜は月食で夜道は暗いから、ぜひ泊まっていってくれという叔父の言葉に実朝は甘えることにした。

 闇夜の中、実朝は叔父に静かに語りかけた。

「母上に会いたいと思ったのだが、随分とひどいことを言ってしまったから、気が咎めてしまってな」

 すべてを語ろうとはしない甥の言葉の端々から、義時は、時房の言っていたことが本当だったのだと確信した。やはり、自分なりの考えがあったのだ。やはり、賢く、そして優しい子だ。義時はそう思った。

「まあ、ある焼き餅焼きの坂東の娘が、家を壊して浮気性の夫と大喧嘩したのは、誰もが知っている本当のことですからなあ。今更隠す必要もありますまい」

 義時は、はははと笑いながら答えた。

「だが、私は、その浮気者の夫よりも、焼き餅焼きの妻の方に味方したくなるなあ。私は、かなうことなら、縁があって妻となってくれたたった一人の人と、いつまでも仲良く暮らしたいと思う。」

 実朝もまた笑っていた。

「御所様のそういうところは、母君や大姫様に似られたのでしょうなあ。御台所となられる姫君と末永くお幸せになられることを祈っておりますぞ」

 叔父の言葉に、実朝はまるで遺言のような言葉を返した。

「私は、体があまり丈夫ではないから。迎える御台所には気の毒なことだが、それほど長生きはできないかもしれない。私が、母上よりも先に逝くことになったら、その時は、叔父御、あなたが母上を守ってさしあげてほしい」

 この賢く優しい甥に、一体何がこのような言葉を言わせるのだろう。義時は、たまらなく切ない思いがした。

 

 まもなくして、実朝の御台所として坊門家の姫君を迎えるための使者の顔ぶれが決まった。有力御家人の若い子息達の中で、特に容姿端麗な者が選ばれた。その中には、時政と牧の方との間の息子政範も含まれていた。

 近習をつとめているいとこの泰時が、使者に選ばれた者たちを紹介していく。

「和田義盛殿の孫で、和田三郎朝盛どのです」

 実朝よりも、三つ四つ年上の端正な若者がいた。実朝は、その顔をどこかで見たような気がした。兄頼家と戯れていた紫色の紐で髻を結った美少年。それを思い出した途端、実朝の顔色が変わった。

「御所様?いかがされましたか?」

 実朝の異変を察した泰時が、心配気な様子で実朝の側に駆け寄ってくる。

「何でもない。無事務めを終えて戻ってくることを祈っておる。よろしく頼む」

 実朝の言葉に、朝盛は、深々と頭を垂れた。

 一方、泰時は、御前を退出した後も、実朝の様子が気になっていた。泰時の前での実朝は、まだ少年ながらも、大人びて落ち着いている。泰時には、その実朝が、らしくもなくかなり動揺していたように見えた。叔父の時房に事情を話したところ、いつもは朗らかな時房が、少し難し気な表情をして声を潜めて言った。

「御所様は、もしかしたら、噂を聞いたか、勘付かれたのかもしれない」

「噂?勘付くとは何を?」

「和田三郎朝盛は、御先代のお手つきの寵童だった」

 時房の話す内容に泰時は衝撃を受けた。これから花嫁を迎えようという時期に、何ということだ。実朝の近習として仕えるのに、朝盛の人物に何の問題もない。

 だが、泰時の見たところ、実朝は、色事の盛んだった父や兄とは異なり、母政子や大姫に似て純情で潔癖なきらいがある。後の憂いとならねばよいが。泰時は、まだ少年の実朝の身が案じられてならなかった。

 花嫁を迎える使者が京に到着してまもなくのこと。鎌倉に、時政と牧の方の愛息政範が急死したとの報が伝えられた。

 元久元年の暮れ。実朝の花嫁となる坊門家の姫君倫子(ともこ)が鎌倉に到着した。倫子は実朝の一歳年下の数え十二歳という幼さだった。

 愛息の死にも関わらず進められていく実朝の慶事の準備。牧の方の更なる憎しみに満ちた顔。実朝は、鎌倉に新たな血の嵐が吹くであろうことを敏感に感じ取っていた。


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