解答例と採点基準

 晶と榛菜が職員室に戻ってきた時には、響子とさくらは落ち着きを取り戻していた。淹れたばかりのコーヒーの香りがする。会話こそないがさくらもミルクたっぷりのカフェオレを口にしていた。凛太郎は砂糖もミルクもたっぷりのコーヒー的な飲み物。


 職員室のドアを開けた晶に、三人の視線は自然と集まった。


「結論から言おう。事故ではなく、事件だと思う」


 そう言ってから、彼はさくらを見た。彼女はコップを机に置いて、しっかりと見つめ返してくる。


「そう考える理由は大まかに二つ。現場を再現できるのが非常に限られた条件であること。楽器を背中から下ろす明確な理由がないこと」


 息を大きく吸って、続きを話し始める。


「さっき白崎さんと実験した。家斉先生の証言にあった

『階段側に足が向いていた』

『後頭部以外の目立った外傷がなかった』

『全身が踊り場にあって、階段には足がかかってなかった』

 この三点を再現する目的で。

 結果として次のことがわかった。

『後頭部から踊り場の床にぶつかるには3段目か4段目から後ろ向きに倒れる必要があること』

『それ以上の段数だと下の段にぶつかって体の向きがずれたり途中で止まってしまうこと』

『倒れ込むだけでは足が階段にかかること』

 つまり、後ろ向きに飛ぶか、誰かに突き落とされでもしない限り現場の再現は難しい」


 いったん言葉を切った。内容が4人に伝わったことを確認して続ける。


「加えて教室にはマウスピースがなかったから、彼女は教室に寄って階段を降りるところだった。降る際に後ろ向きに階段から落ちるだろうか? 明らかに矛盾する。以上から」


 次の言葉を言ったらもう後に引けなくなるな、と晶は思った。


「事故ではない。少なくとも単身事故ではない」


 言いながら、彼は考える。


 そうだ、こんなことは警察だって気付いている。彼らには何千何万もの実例データがある。現場の再現が難しいことは明白だ。だが、難しいだけで不可能ではない。たまたま変な姿勢で転んだのかも知れないし、想定外の要素があったのかもしれない。


 あと一押しが必要だ。


「では次。どうしてわざわざ重たい荷物を手前に持っていたのか?」


 ———僕の推理はここからだ。


 警察は特に気にしなかったかもしれない。わざわざ背中の荷物を下ろした理由なんて、「何となく」とか「たまたま」だとか、そんなことでも忙しい彼らには十分なのだ。一般的に学校は警察の介入をひどく嫌う。そんな非協力的な場所で細々こまごまとしたことなんて気にしていられない。


 でも、僕は。


 警察が馬鹿馬鹿しくて考えないことでも、面倒で投げ出すことでも、学校が隠したがることでも、中学生こどもらしく突っ込んで行ってやろうではないか。


「単身事故でないことはさっきの実験と推測で概ね説明が付いた。がいた。そうして、知世さんはその誰かにケースを下ろすように言われた」


 全員が緊張したのがわかる。


「まず、本当に忘れ物があったのかを考えたい。


 ユーフォニアム本体は保有台数が多い学校でも各学年の練習用に一台づつで合計3台、普通は2台を使い回しているらしい。マウスピースは自腹購入で、基本的には一人一つ。楽器そのものを持ち帰ることはまれで、吹き口の練習をする場合にはマウスピースだけ持ち帰ることもあるそうだから、それだけをどこかに置き忘れるということは可能性としてはあり得る。当時、三王丸中学校ではどうでしたか?」


 響子は当時を思い出しながら答える。


「おんなじよ。ユーフォは2台で、マウスピースやメンテナンス品は自腹」


「なるほど。事件があった時は、練習終わりに楽器を持ち帰ろうとしていた?」


「そう。上級生が合宿に行くから、2年生以下は自宅練習になる予定だった。学校備品のユーフォの一台は先輩が、一台は私が、もう一台は……顧問の西園先生の私物だったかな、それをともちゃんが借りてた」


「……。その顧問の先生は男性でしたか?」


「そうだけど……疑ってるの? あの先生はそんな感じしなかったけどなぁ」


「性分なので。当日はマウスピースなしで練習していた?」


「そんなわけない、ちゃんと演奏してた。……あれ」響子が口元に手を置く。

「彼女のマウスピースは練習中に使ってたわけだし、どうして教室にあるのかしら?」


「そう、僕もそこが気になった。となると、

 『彼女はマウスピースを複数持っていた』か、

 『自分のマウスピースを使ってなかった』か、

 『本当は忘れてなどなかった』ことになる」


「一つしか持ってなかったはず。そう言ってた」


「その証言はありがたい、一番面倒なのが消えた。


 『自分のマウスピースを使ってなかった』場合、一時的に友人や先生から借りて練習をしていたことになるが、普段から練習に使うものを「施錠されて数日経った教室に忘れる」のは不自然すぎる。が彼女のマウスピースを盗んで教室へ持ってきた可能性が高い。


 『本当は忘れてなかった』場合、忘れ物は一人で教室に行く言い訳だったと考えられる。断言できないが、と二人きりで会うために待ち合わせていたのかも知れない。


 いずれにしても、彼女は人気のない教室へ誘導されたことになる。


 先生、あなたは彼女がマウスピースを取りに教室へ行ったことを知っていた。彼女から直接聞いたんですか?」


「ええと……」


 目を閉じ、色褪せた当時を思い出す。


「あの時、生徒昇降口で彼女が『マウスピースを教室に忘れているらしいから取りに行く』と言ってたから。そういえば、確かにあの時は練習中に使ってたのに何でだろうと思ったっけ。でも忘れた人は先生のお古を借りてたから、あんまり気にしなかった」


「『忘れているらしい』と言ったんですね? 『忘れたから』でなく? 10年以上前だから記憶違いもありえるが、そこは重要です。間違いない?」


「え……ええ、間違いないと思う」


「『忘れているらしい』という伝聞の言い回しなら、が彼女に『マウスピースを教室に忘れている』と伝えて教室に誘導している可能性が高くなる。誰に言われたのか、聞きましたか?」


「ごめんなさい、気にもしてなかったわ……」


 晶は目をつぶった。再び口元に右手を起き、しばし黙考する。


 ややあって目を開け、そばにあった誰かの紙コップのコーヒーを一気に飲んだ。誰のコーヒーだったのかとかそんなことは気にも止めず、ただただ思考に必要なものを摂取する。


 彼は紙コップを起き、自分に言い聞かせる様にはっきりと言った。


「マウスピースは、知世さんを教室へ呼び出すためのものだった。


 彼女はそのの指示で背中のユーフォリアムを下ろした。階段から落ちたのはその時だ。転んだのか落とされたのかはわからないが、が関わってる。


 そしてその人物は彼女のマウスピースに触れることができたか、二人きりで会える程度に身近な関係にあった」


 まだ何も分からない。犯人像も絞り込めない。しかし晶の中では蜘蛛の糸のように細い糸口が見えた気がしていた。

 

「はっきり言って想像に過ぎない。物証もない。警察も最終的に事故だと判断した。しかしそれでも僕の結論は……」


 こんなこと、科学的ではないのかも知れない。ほとんど直感である。そんな勘違いや思い込みがどれだけ科学の発展を害したか。


 でも、それと同じくらい、その直感やひらめきがどれだけ科学を発展させたのか。


 大事なのは客観性だ。きっかけは何でも良い。だから、調べて、実験をして、再現して、証明をする。


 晶には何故か確信があった。ラマヌジャンの様に、女神が……何かが囁くのだ。


 大きく息を吸った。


 そうして、噛み締めるように呟く。


「証明する」


 晶は覗き込むように響子に顔を寄せた。


「先生」


「え? うん」


 彼の勢いに驚いたようだった。目をパチパチしながら答える。


「白崎さんが言う通り、あなたは良い先生のようだ。僕は偉そうな大人は信用しないし、教師はその最たる者だと思っている。でも、あなたは信用する。多少規則やら何やらに触れるかもしれないが、是非協力して欲しい」


 響子はまだ目をパチパチさせながら、榛菜を見た。榛菜は榛菜で急に話題に上がってびっくりする。響子の視線に気付いて、照れたように視線を逸らした。


 響子自身も少し照れたように目を細めて、晶に答えた。


「具体的には、どんなことを?」


「10年前の吹奏楽部顧問の情報。名前から住所まで、わかる限り。ご自身で調べることができないなら、これから僕らが勝手にその資料を見るので席を外してください」


「……わかった。私はあなたたちの話を聞いて昔が懐かしくなったので、当時の職員名簿を眺めることにする。そのあと、コーヒーを飲みすぎたからお手洗いに行く」


「ありがとうございます。それから、わかる範囲で構わないので事件当日に学校で見かけた生徒と教職員を思い出して書き出してください。男女問わず、見かけた場所も。凛太郎、頼みたいことがある」


「ん? おう」急に話を振られていつになく凛太郎も慌てる。


「当時の顧問に会って、聞いて来てくれ。彼女にマウスピースを貸したのか、と。それと、わかる範囲で先生から見た花田知世さんの交友関係、特に先生自身との関係を。詳細は後で。山岸さん」


「う、うん」彼女も慌てて反応した。


「念のため、知世さんの家にあるユーフォニアムがどんな状態か、確認したい。花田家に一緒に来てほしい」


「うん……わかった」


「僕は花田さんと面識がないから、あとで適当に打ち合わせをしよう。最悪、君が花田さんを引きつけている間に僕が忍び込む」


「そ、そこまでしなくていいよ。……たぶん、なんとかなる」


 彼女も言葉に反して強い意志を感じる口調で答えた。


 凛太郎とさくらに仕事が割り振られたので、今度は自分の番だ、と榛菜も気持ち胸を張って晶の指示を待つ。


「では細かいことはまたメッセージを送る。二人とも、よろしく頼む」


 あれ?


「あの……私は? 何かやることある?」榛菜がおずおずと手を上げる。


「ん。いまのところ、特にない」


「ちょ……じゃ、じゃあ、さくらちゃんについていって良い? 私も何か手伝いたいし、もう仲間はずれにされたくないから」


「そんなつもりは……。わかった」


 晶は急に申し訳なさそうな顔になった。


「すまない、あんまり手間をかけさせるのは悪いと思ってたんだ。今回も別に仲間はずれにしたつもりはなくて、迷惑をかけないようにしたかっただけだ。仲間はずれにするつもりなんてなかった、それは誤解だ」


「わ……大丈夫、わかってるから。晶くんがあんまりそういうの得意じゃないこと、もう知ってるから。ごめんって……」


 凛太郎が晶の肩に手を乗せた。悪くて良い笑顔だ。


「晶くん、そういうの気にするタイプだからな。大丈夫、榛菜ちゃんは懐が広いから」


「あ……灰野くん、ね。もう気にしなくていいから。本当に!」


「ああ……わかった。明日はよろしく頼む」


 晶は仰々しく頭を下げて、それを見た榛菜が慌ててフォローする。


 そんなやり取りを横で見ながら、仮に本当に信頼されたとしても、自分は彼らの中に入り込むことはできないのだろうな、と響子は思う。花田知世ともちゃんがもしここにいたら、遠慮も何もなく自分と接してくれるのだろうか。彼女がいなくなってから妙に中学校の記憶が薄いのは、こんな他愛のないやり取りがなかったからかも知れない、と響子は感じた。


 そうして、漠然とした予感がある。この妙に大人びて拗ねた少年たちが、今まで全く動かなかった重くて黒いものを動かしてしまう予感だ。


 落ち着くためにコーヒーを淹れ直すことにした。さっき晶に飲まれたのは彼女のコーヒーだ。こんなに何杯も飲んでしまって、今晩は眠れるのだろうか。ふと、気付く。


「……ちょっと確認なんだけど、あなたたち時間は大丈夫なの?」


 言われて榛菜はびくりと動いた。そうだった。凛太郎から不審なメールが大量に届いているのを見た父親が、心配していないわけがない。時計を見ると、もうとっくに8時を回って、長針は25分を指している。


「わ! 私やばいかもです」


「そう。どうする? 帰るなら送っていきましょうか?」


「お願いします!」


「じゃあ、山岸さんも一緒に。あなたたちは?」晶と凛太郎を見た。


「俺たちは自転車だから大丈夫です」


「そう。じゃあ、女の子たちは5分待ってて」


 響子は手際よく当時の職員名簿を探し出し、目的の元顧問の情報が記載されたページを開いた。約束通り離席する。お手洗いではなく、車を職員用出入り口まで回してくるようだ。


 四人は名簿を覗き込んだ。「な」行の職員の名前が並んでいる。名簿は簡潔なもので、一行に名前、住所、電話番号、生年月日が記載されていた。


 西園慎吾。**市**町10ー2。


 晶は必要そうな情報を手早く手帳に書き写した。


「住所は……まぁ範囲内か。明日にでも行ってくる」


 明日は平日だし塾もあるのだが、凛太郎はこともなげに言う。


「……前回もそうだったけど、学校大丈夫なの?」


 榛菜は呆れ半分心配半分で聞いた。さくらもうんうんと頷く。よく考えてみれば、上靴やトイレの幽霊の時も凛太郎は学校を抜け出している。さくらにしてみれば、自分のせいですでに都合3回も学校をサボらせていることになるのだ。


「普段は優等生だから全然平気だ。気にするな」


「……優等生……ほんとうに……?」


「ああ、それは本当だ」晶は名簿をめくりながら言った。

「変だな」


「どうした?」


「隣の人の住所欄が西園と同じ住所だ。誤植かな。あまり正確な情報じゃないかもしれない」


 名簿を閉じた。


「凛太郎は成績も良いし、小学校も内申は悪くなかった」


 意外すぎる。榛菜もさくらも顔に出ていたようだ。凛太郎の反撃。


「そっちこそ、帰ったら親に怒られるぞ。榛菜ちゃんは特に、メッセージの言い訳を考えとかないとヤバいかもな!」


「うわ……そうだった」


 職員室のすぐそばで車が止まった音がした。


 もう帰る時間だ。






——『彼女は事故に遭ったのか』採点基準——




事故の再現が難しいことに気付いた(配点5)

□楽器ケースを背負っていないことに気付き、原因を推測した。

□教室にマウスピースが残っていなかったことに疑問を持った。

□階段途中で転んだ際、ある程度の段数以下になることに気付いた。

□後ろ向きに倒れる状況が必須だと気付いた。

 以上を2つ満たしていれば加点


事件に関連した人物の存在を推測した(配点5)

□マウスピースを忘れることが不自然だと気付いた。

□閉じられた教室に忘れ物があることが不自然だと気付いた。

 以上を一つでも満たしていれば加点


特別加点対象:

事件であると判断した(配点10)

□上記2点に気付き、関連性を推測した。

□楽器ケースを下ろした原因がにあると推測した。

 以上を満たしていれば加点

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