コクハクミライログ

瀬田川一葉

第一章 あなたはわたし

 五月八日 月曜日 

[日常] ニックネーム


 今日、学校で変なあだ名を付けられた。

 友人は全員の名付け親にでもなるつもりだろうか?

 先日も別の友人にあまり似合わないそれをつけて喜んでいたけれど、ついに私にもそのときがきたらしい。

 …ていうか、正直ありえない。

 彼女は声が大きいし、昼休みに人のいるところで言っちゃうから、関係ない人、遠くの男子にまで聞こえちゃったっぽい。

 で、放課後なんかには既に数人が呼んでくる始末。

 あだ名って、別に嫌って事ないんだけど…いや、あんまり可愛くないの。

 まだ高校始まってすぐだっていうのに…(泣)。


                  *


 ノートPCの画面を覗き込んだまま、杉村さやかはわずかに首を傾げた。椅子のクッションに一度背を預け、斜めに天井を見る。

 少女漫画や雑誌を並べた本棚。その上から、デフォルメされた猫のぬいぐるみが見つめ返していた。一度にらめっこをする様に口を尖らせてその瞳を睨む。

 当然に無表情を崩さない猫。そのまま首を左右に振ってもう一度机の上、ノートブックに視線を戻すと、机に身を乗り出すように肘を突いて開いた両手のひらに顎を乗せた。

 液晶ディスプレイの中、立ち上がっているのはウェブブラウザ。

 スッキリしたデザインのフレーム内に、テキストのサイトが表示されている。日記のようなタイトルの付いた文面。その横に小さなカレンダー。

 SNS隆盛の現在、一部インフルエンサーが長文を載せる他、利用されることの減ったブログサービスである。

 画面上には先ほど読んだ文面がそのままにある。

 さやかはその瞳を卓上カレンダーの方に移し、本日の日付を確認する。

 五月八日 月曜日。

 横に並んだデジタル時計の表示は PM9:52

 まだ日付は変わっていない。


「うーん」

 身を起こして椅子に座りなおすと、さやかは背中のクッションを取り、手元に抱くようにして前屈みの姿勢になった。丁度後ろから垂れてきたおさげ髪を指先で弄びながら、机の上にあるものを見つめた。

 視線の先、キーボードの手前には一枚のメモ用紙。さやかはそれを手に取った。

 http://www.○○blog.net/sb1/youareme

 表示されているサイトのアドレス、それ以外には何も書かれていない。

 両手の指先でつまんで、何も書かれていない裏側を向けながら、さやかは知らず知らずのうちに顔を顰め、また口先を尖らせていた。


                  *


 その日の昼休みのことだった。

「さやかちゃんは…何にしようかな?」

「えっ?」

 さやかは玉子焼きをつまんだ箸を止めて声の方を見た。

「あだ名…なにがいい?」

 食べ終わった弁当箱を仕舞いながら、笑顔で級友の美倉みくら裕美ゆみが言った。

「え?えっと…何がいいっていわれてもなぁ…」

 さやかはさり気なく関心の無いことを示す態度で、視線を弁当箱の方へ戻した。途中、向かいに座って昼食を取っていた鍋島なべしま直子なおこの、微かに苦笑するような表情を見た。隣の相田あいだ加奈子かなこは、黙ってコンビニのおにぎりを食べながら、窓の外を見ている。

「ねえ…」

 最後のハムサンドを口の中にいれ、パックのコーヒーを飲むと直子は包みを仕舞って頭の後ろ、やや高い部分できつめに縛った髪を解いた。

「さやかちゃんは喋ってると食べられないんだから…」

 肩の高さに下ろした髪を軽くゆするように首を振り、裕美の方を見た直子は鏡を取り出しながらそう言った。

「あ、う、うん…」

 会話しながら食事を進めるのが苦手なさやかは、言われて、止まっていた箸を動かし始めた。

「急げ、急げ…」急かすように裕美が言う。

「バカ」

 加奈子は裕美を睨んだ後、ちらと視線をさやかに向け、コンビニ袋にごみを包んで言った。

「急がなくていいって、ゆっくり食べなよ」

「うん、ありがとう」

 答えたものの、やはりさやかは一時箸を止め、目の前の友人二人を見比べるようにした。

 首を傾げ、短めの前髪、比較的太目の眉の下の、大きな瞳でこちらを見つめ返す裕美。食べるのが早い彼女は、直ぐに話を始める。今も、中断された話を再開したくてうずうずしているような表情だった。

 一方、再び窓の外に目を遣った加奈子は、食べる間は一言も喋らず、マイペースに進めるので早く済む。

 食事しながら巧く会話をしているのは直子で、皆と同じペースで会話していると箸が止まってしまうのがさやかである。大抵いつも最後になるのがさやかだった。


 高校一年生、入学したてとはいっても、正門から続く桜並木がすっかり緑の葉に変わってしまうGW明けの頃には、昼食のグループはすっかり倦怠期くらいにはなっているのである。既にクラスの半数以上は特定の友人と、それなりの親交を深めるに至っていた。

 さやかも例外にもれず、行動を共にする級友達がいる。一緒に昼食をとっている三人がそうである。

 向かいに座る鍋島直子とは最初に知り合った。それこそ、入学式の帰りに一緒に帰ると言った具合だった。裕美と加奈子とはその一週間後くらい、ほぼ同時期に話すようになり、気付けば四人はいつも一緒に居るようになっていた。


「…食べながらだと行儀悪いでしょ」

 お茶のペットボトルから口を離した加奈子は呆れたように言いながら裕美を見た。

「つーか、あんた、それやめてよ」

「何を?」

「あだ名つけんの」

「いいじゃん、ねえ、ナベ子さん? いいよね?」

 裕美は楽しそうに直子の方に身を乗り出している。

「良くないよ、ねえ直子?」

「まー」再び結いなおそうと、両手で髪を後ろに束ねていた直子はそのままのポーズで首を動かして二人の方を見、そして瞳だけ動かして一瞬さやかを見た。

「わたしは…いいんだけどね」

「いや、ナベ子はないよ?」

 加奈子はペットボトルを置いて少し机から身を離すと足を組んだ。

「いいよ、可愛いよ」

 裕美は悪戯っぽく笑う。勿論、わざと言っているのが分かる表情だったが、そんな表情も彼女にはどこか憎めない愛嬌があった。

 このあだ名をつけるというのはつい一週間ほど前、ふいに裕美が始めたものだった。彼女の言い分は親愛の証ということだったが、実際は多分に悪戯的な要素が含まれており、この一週間で直子と加奈子の二人はその餌食となっている。

「あんたが決めることじゃないし」

「アイーダはさ」

「だから、やめてよそれ、バカじゃないの?」

「えー」

 残念そうな声を上げている裕美を無視して、加奈子は肩越しに教室の様子を伺うと小さく溜息をついてさやかに言った。

「ゆっくりで良いけど、やっぱり止まってるよ」

「あ」

 一連のやり取りに気をとられて、またも食べるのを忘れてしまっていたさやかは、再度箸を取り直し弁当に取り組んだ。

 その様子を眺めて一同が暫し沈黙する。さやかは視線が気になって食べるのを急いだ。一度にご飯を掻きこんだ為、喉が詰まりそうになって少し苦しくなった。

「なにが嫌かってさ」

 暫くして唐突にそう言ったのは加奈子だった。彼女は再び肩越しに教室の後方を見つめている。

 教室には、同じように昼食を摂り終えたグループが疎らに残っていた。男子生徒の多くは校庭に出るので殆どが女子グループだったが、トランプゲームをしている数人の男子生徒が残っていた。時折聞こえてくる言葉からは、大富豪か何かをやっているらしい事が分かる。何故かいちいち大げさな掛け声や、仲が良いのか悪いのか分からないような罵声も聞こえてくる。

 加奈子は振り返って裕美の方を見ると、机に肘をついてショートカットの髪に手櫛を当てるように顔を傾け、そのまま頬杖をつくと、少し声を顰めてこう言った。

「前田やなんかがさ…直子のこと、その変なあだ名で呼ぼうとするでしょ? なんだかさ、そうやって無理に接点作ろうとすんのが馴れなれしいしさ。そういうの嫌なんだよ見てるの」

 そういって直子を見た。彼女は少し困ったような顔をしていた。

「まあ、それにさ、ついでみたいにあたしも妙なあだ名で呼ばれたらたまんないよ。ほんと…」

「加奈子ちゃん」

 直接文句を言われた訳ではないが、裕美が少し気落ちしたような沈んだ声を出した。

 加奈子は、自身の言いたい事ははっきりという性格で、彼女の意見は、例えばさやかが思っていながら言えないような事を代弁することもあって、裕美や直子もそんな彼女を頼もしく思っているようだった。が、たまに、彼女の意見はきつく感じられることもあった。今も、その発言に暫く誰も言葉を継がなかった為、生まれた沈黙が急に重く感じられたさやかは、その場を取り繕うように言った。

「あたしは…別に、その…気にしないよ」

 全員がさやかの方を振り向いた。裕美はまた嬉しそうな笑みを浮かべた一方、加奈子は呆れたようで、なにか言いたそうに口をあけて眉を顰めている。なんとも答えようが無いのだろう直子は困惑の表情だった。

「じゃあ…」と、さやかが次の言葉をさがしている間に。

「さやや、さややってどう?」出し抜けに裕美が言った。

「え?」

 さやかは突然の提案につい間抜けな声をあげていた。

「また、なんでそんなのしかないのよ」

 加奈子の非難の後で、改めて、さやかは言われたのが自分のあだ名だということに気がついた。

「ね? いいでしょ?」

「…え、っと。いいかどうかは…」

「あんた、ちゃんと断んなさいよ」

「あの、ちょっと…」

「気にしないって、さっきいったじゃん?」

「いや…でもその…」

「なあ、ちょっといいかな」

 不意に背後から声がかけられた。

 一同は声の方、丁度机の前に立ち上がっていた裕美の後ろに注目した。裕美の頭一つ高いところから涼しげな瞳がこちらを向いていた。

「甲斐君?」

 さやか達に声をかけたのは、クラスメイトの甲斐かい由斗よしとだった。彼は手のひらを見せるように肩の高さで右手を上げ、左手の親指をポケットに引っ掛けた格好で立っていた。茶色っぽい、長めの前髪から覗く涼しげな目元。感情を読みづらい瞳でさやか達を見つめていた。表情を変えずに一同を順番に見て、最後に彼は直子の方に目を向けた。

「あの、鍋島さん? 体育祭のことでちょっと、今から委員会って。アンケートかなんかの」

「あ、そうなの? ごめんなさい…聞いてなかった」言いながら、直子は一度だけ鏡を見、素早く髪を直すと立ち上がった。

「すぐ?」

「うん」彼は顎をしゃくるようにして後ろのほうを示した。教室の入り口には一人の女子生徒が立っている。クラス委員の牧野まきの翔子しょうこだった。

「俺もさっき聞いたんだけど、牧野から」

 彼の言葉を遮るようにして戸口から声が上がる。

「甲斐? 早く、鍋島さん連れてきてよ」牧野翔子は神経質に戸口をコツコツと叩いている。

「わかってる」

 甲斐は肩を竦めるようにして、首を振った。

「すぐらしい」

 そういって甲斐は直子を促した。直子はさやか達の方を振り返って

「解った…あ、じゃあ、ごめん。わたし行くね」小さく手をあげてそう言うと、甲斐の後ろから教室を出て行った。

 一同はその姿をぼんやりと見送った、他のクラスメイトも同様に彼らの出て行った戸口をみつめ、直子の後ろ姿が見えなくなると、誰ともなく溜息をつくような息遣いが聞こえた。

「ああ、いっちゃったよ。いいなぁ、私も体育祭委員、手上げてりゃ良かった…」

 暫くして、糸の切れた人形のようにだらりと椅子に凭れると、ぼやくように言ったのは裕美だった。先程まであだ名のことで盛り上がっていたときと打って変わってすっかりやる気を失ったような様子だった。

 そんな裕美に、再び呆れた様子で加奈子が言った。

「てか、誰も立候補しないから仕方なく直子がやるっていったんじゃん」

「そーだけどさ、甲斐君が男子の委員だって知ってたらなぁ」

「いや、男子はくじ引きしたんだから」

 そんなやり取りの中、さやかはじっと、二人が出ていった戸口を見つめていた。それに気付いたのか、椅子の背に預けた首をくるりと回して、裕美が言った。

「だってさぁ…さややも気になるよね?」

「えっ?」

 不意をつかれたさやかは、妙なあだ名で呼ばれていることにも気付かず、またもとぼけた声を上げてしまった。たいして大きな声でもなかったのに、それは何故か静まり返っていた教室に響いた。教室の隅、男子グループの数名が反射的に振り返り、さやかは慌てて顔を隠すように机に身をかがめた。そのまま声を顰め、さやかは聞き返した。

「気になるって、何が?」

「甲斐君と、ナベ子さん」同じく、声を顰めて裕美が答えた。

「委員会って言うのは分かるけど、なんか親しげだよね」

「そりゃ、話す機会もあれば、親しくもなるでしょ」

 当たり前だとばかり、加奈子が言った。

「でもさ、なんというか、雰囲気ちがくない?」

「それはまあ、お似合いといえばお似合いか、ハンサムだしね甲斐君」

「やっぱし、あたしらじゃだめなのか?」裕美が残念そうな声を上げた。

「まあ、さやかはともかく。あんたはね」

 なんでさ?と問いかける裕美を無視して、加奈子はさやかの方をみた。ゆっくりその後ろに手を伸ばし、さやかの三つ編みの髪を引っ張った。

「かわいー。いいなコレ」

「ちょっと…」

 さやかは慌てて髪を押さえた。

 しばらくの間、加奈子は『ねえ、なんであたしは?』と訴える裕美を無視して悪戯を続けていたが、ふと、思いついたようにやめてしまうと、姿勢を正し、膝を組み替えて真顔に戻ってこう言った。

「でも、どうなんだろうね? 彼、牧野さんと付き合ってんでしょ?」

「そう…なの?」

 反射的に、さやかは問い返していた。と、すかさず裕美はううん、と首を横に振った。

「アレは牧野さんのほうが、勝手に甲斐君にひっついてるんだよ」

「へぇ…そうなの? でも、偉そうだったよねさっき。あたしさ、牧野さんあんまり好きじゃないんだよね」そっけなくいいながら加奈子は頬杖をついて遠くを見つめた。

「あたしもー」元気の無い声で裕美が同意した。そして、そのトーンのまま、再びさやかに問いかけた。

「やっぱ甲斐君。ナベ子さんなのかなぁ、さややはどうおもう?」

「あたしは…」そこでさやかは少し考えた。一瞬、少年の涼しげな目元を思いかべた。

「そんなの…わかんないよ」


                  *


 ドアをノックする音に、さやかは回想を中断した。なに? と答えると、弟の声で風呂に入れとの母親からの伝言だった。

 さやかは持っていたURLのメモを机に置いてとりあえず返事をすると、しばらくディスプレイを見つめてぼんやりしていたが、やがてあきらめたようにノートを閉じ、椅子から離れた。着替えを用意して、ついでに洗濯物も持って降りようと脱いだままベッドに広げてあった制服のブラウスを持ち上げた。

 その拍子にポケットから折り畳んだチラシのような物が落ちてきた。手にとって広げて、ああ、こんなのもらったっけ、と当時のことを思い出した。

 紙面には大きくポップフォントで

『ミステリィ研究会、会員募集』

 と書いてあった。下の方に、活動場所が示された地図と、参加したい方は先ず一度お越しくださいとだけ書いてあって、最後に『初心者大歓迎』とあった。活動内容は書いていない。

 マイナー同好会なんて特に活動内容がきまっているわけでもないだろうとはさやかも予想できたが、それにしても情報の少ない勧誘チラシだった。階段を降りながらそのチラシをみるうちに、さやかは独り言を漏らしていた。

「ミステリィ…か…」


 浴室に向かい、手早く衣服を脱いで、湯船につかりながら考える。

 チラシに書いてあった言葉。

 ミステリィ


 ――今の状況がまさにそうかもしれない。

 ――いったいどういうことだろう?


 さやかの頭の中に最初に出てきた言葉だ。

 その日の昼、裕美から変なあだ名を付けられた。

 いつも昼食を摂るメンバーは勿論。教室にいた生徒のうち、数人はそれを知っている。途中で声をかけてきた甲斐には、放課後に『変なあだ名だね』とまで言われてしまった。

 ――変なあだ名。

 まったくもって不本意なことだったが、さやかが今考えている問題はそこではなかった。

『誰でもそのあだ名を知っている可能性がある…』

 ということが問題。

 さやかは小さく、浴室でも響かない音でつぶやいた。


 ――一体誰なんだろう?

 ――あのブログは誰が書いたんだろう?


 そう、先刻まで見ていたブログはさやかが書いたものではなかったのだ。

 しかし、その内容はまるでさやか自身で今日の体験を綴ったかのような文章だった。

 他人の、それも、境遇の空似というのがあるのだろうか?と、一瞬さやかは考えたが、その考えはすぐに否定された。なぜなら、あのブログのアドレスを記した紙は、さやかの鞄の中、その日課題の出ていた数学のノートに挟まれていたからだ。明らかに、さやかに向けてのメモに違いない。

 さやかは今までブログなど書いたことも無い。

 ブログはおろか、その他SNSサービスも積極的に利用してこなかったさやかが、まず日記を公開するなどとは考えもしないことだった。仮にそれを始めてみたとしても、おそらく文体等は別の物になるだろう。

 さて、それはともかくとしても、さやかにとって解らない事があった。誰かがブログを書いたとして、それをさやかに見せること…その意図である。

 ――一体なんの意味があるというのだろう?

「まさか、ストーカーとか?」

 以前、映画か何かで観た事があった。他の人が主人公の振りをして、最後には取って変わろうとさえする。しかし、それは対象に強い憧れをもった結果の話だった。

 ――まさか…。

 自分がそういった憧れの対象になるなどということはさやかには考えられなかった。

 ――憧れるといえば…。

 さやかはふと、鍋島直子のことを思い浮かべた。彼女になら憧れる人も多いだろう。そう思った。

 すこし言葉を交わすだけで、直子が素直で優しい性格なのはすぐに分かった。

 控えめにしているけれど、芯の強いところがあって、気遣いがその言葉の端々に垣間見える。

 成績も優秀、クラブ活動にも真面目に取り組んでいて、吹奏楽部に所属する彼女の特技はフルートだった。その演奏もさることながら、その立ち姿が魅力的だった。背が高くスタイルがよくて、それに何より美人だった。最初に話しかけられたときさやかは少しどぎまぎとしてしまったくらいだった。

 直子のことを考えながら、同時に、甲斐由斗のことも思い出された。彼らが付き合うとしたらお似合いだろうと、加奈子は言った。

 さやかは二人の顔を思い浮かべて、二センチくらい湯船に身を沈めた。しばらくそうしていたが、少し浮上して思考を再開する。

 誰かがあのメモをノートに挟み込んだ。それは誰に出来ただろうか?

 情報としては、クラスの誰が知っていてもおかしくは無い。ブログの内容から考えると、放課後にも数人にあだ名のことを言われたのは確かで、それを知っていて、尚、ノートにメモを挟むチャンスがあった人間のことを考えた。

「でもなぁ…」

 チャンスといっても、実際には誰にでも可能だったのだ。

 放課後、さやかは直子に呼ばれて吹奏楽部の見学に行っていたのだが、練習は正門から遠い中館、三階の音楽室で行われるので、その時さやかは帰る準備をせず教室に鞄を置いたまま出て行ったのだった。

「ふぅ…」

 溜息を吐く、と、思い出したことに別の悩みが頭をもたげて来た。

 ――そういえば…どうしよう、クラブ…。

 入学して一ヶ月が経つが、まださやかは正式にクラブ活動に参加していなかった。

 中学時代さやかは背が高くなればいいなと、ある種迷信めいた考えのもと、バレー部に所属した経験がある。しかし、あまりやる気も無かったので一向に上手くならず、また背も伸びなかった。

 上下関係の決まりや体育会系の指導が厳しくうんざりしていたので、高校に入ったら文科部に入ろうと考えていたさやかだったが、いざ何処にするかと考えると、全く決まらないのだった。そこで、直子が吹奏楽部に入っているというのを聞いて、とりあえず見学してみることにしたのだ。

 それなりに入部する気で見学にいったさやかだったが、音楽室に入ったとたん出鼻を挫かれた形になってしまった。

 初心者もいる事はいるようだったが、入るなら希望しようと思ったフルートは経験者が多く――直子もその一人だった――特別上手なパートだったので、すぐにあきらめてしまったのだ。

 他のパートにしても、初めて見る楽器ばかりでさやかにはどれも難しそうに思えた。そうして選択肢を絞っていって最後に残ったパートはパーカッションだったのだが、吹奏楽に入って打楽器を叩く気にもならず、入部申請の用紙は受け取ったものの、諦め気分で音楽室を後にしたのだった。

 そういえば、と、服のポケットに入っていた紙――ミステリィ研究会の勧誘チラシ――を思い出した。その紙をもらったのは、吹奏楽見学の帰りのことである。

 入部申請の用紙を見つめながら歩いていたら、さやかを呼び止めたのが、ミステリィ研究会の部員――会員というべきだろうか――と思しき人物だった。

 声に視線を上げると予想したよりも高い位置にその人物の顔があった。

 襟足を伸ばし、無造作に前髪を分けたヘアスタイル。その髪はカフェラテのような色だった。口元にしまりの無い笑みを浮かべていたが、面長の顔はなかなかにハンサムで、すらりとした長身のその少年はよくよく見ると文科系クラブとはおおよそ結びつかないような外見をしていた。

 少年はチラシを差し出したままの姿勢で、一言

『君みたいな可愛い子が入ってくれると、とてもうれしいんだけどなぁ』

 と、クラブ活動の勧誘というよりは、ナンパでもしているような口調で言った。さやかはすぐには反応できず、まともに返事が出来なかったが、相手も何かをくどくど説明することもなくはせず、チラシを手渡すと『では』とだけ言ってすぐに廊下の向こうへ姿を消してしまったのだった。


 脱線した回想の中、さやかは見知らぬ男子生徒から『可愛い』などと言われたことを思い返し、改めて嬉しいような恥ずかしいような、複雑な心境でまた少しの間湯船に沈んだ。

 が、次の瞬間には、いや、ただのクラブの勧誘。お世辞に違いないと思い直した。頭を切り替え反省しながら、教室に戻った後のことを思い出す。

 机の前には帰宅部の裕美がさやかを待って残っていた。他には掃除当番の生徒を含めて、数人の生徒が残っていたが、誰がいたのかはあまりよく憶えていない。考えてみると、推理の役に立ちそうな事は全く覚えていなかった。そうでなくても少し上せてきたのか頭がぼんやりしてきたので、さやかは考えるのをやめて、湯船からあがることにした。


                  *


 ――何故か浴槽のなかでは、長い間考え事をしてしまう。いつも最後にはのぼせてしまうのだけれど…。

 風呂から上がると、それなりに時間が経過していた。

 鏡に向かって少し上気した顔に苦笑しながら、さやかは髪を乾かして洗面所を出た。

 リビングにいる両親におやすみを言ってキッチンを通り抜けると、父親の入れたコーヒーがまだ残っていたのでカップに注ぎ、持って上がることにした。

 階段を登り部屋に戻ると、スリープしていたノートをもう一度起動する。

 すぐに開いたままのブラウザの画面が浮かび上がる。同じ文面を眺めて、一口コーヒーを飲んださやかは、まあ、いっか。とつぶやいた。

 結局はただの悪戯だろう。

 多分、裕美か誰か、友人の一人がふざけてやっているだけだろう。明日確かめてみればいい。そう考えることにしたのだ。

 ふとシャットダウンする前に音楽サイトでも見ようと、マウスに手を置いたときのことだった、改めて画面を見てさやかはあることに気付いた。

 ブログのカレンダーは、文章を書き込んだ日の数字が太字に浮き上がるようになっている。これをクリックして任意の日付にさかのぼって日記を見る事ができるわけだ。今、五月八日の8の数字が太字になっていて、それ以前の数字はそのままなので、五月分の日記はこの日から始まっているようだった。

 さて、おかしいのはそこから先だった。

「あれ?」

 翌日の分、五月九日の日付が太字に浮かび上がっていた。

 疑問を消化すべく、考えるより先にカーソルを数字に合わせてクリックする。新しい記事にページがリンクした。


                  *


 五月九日 火曜日

[悩] 告白!?


 …告白を受けた。

 どうしよう。


 思ってもみなかったような事がおこると、

 なんだか一年分くらいいろんなこと考えちゃうよ。


 今日は眠れそうに無い。


                  *


 その日の分はそこで終わっている。

 文章を読みながら、さやかは呆けたように口を丸く開いてしまっていた。気付かぬうちに眉間に皺を寄せ、長い間そのまま固まっていたような気がした。少しして気付いたとき、自分はどんな間抜けな顔をしていたのだろうと、思わず両頬を手で挟んで確認したほどだった。

 ――一体なんだろう?

 内容、意図、どれをどう考えてもおかしく思えた。

 ――いや、まず一番におかしな点は。

「何コレ、未来日記?」

 その日付は翌日の物である。卓上時計を見てもまだ、その日までには一時間ほどの余裕があった。さやかは椅子の背に凭れ、クッションを掴むと頬を膨らませてみた。しかし、何も思いつくことはなかった。

 五月八日の日付の文面は今日のさやかの出来事を表しているようで、さっきまでそれはクラスの誰かの悪戯だと、さやかは考えていた。しかしそこに、翌日の日付分も日記があることがわかり、そこにはブログの作者(?)が何かしら告白を受けたということが書かれている。

 もし前日の日記が、さやかが書いた日記という体裁で書かれているのだとしたら。

「あ、そういうことか…」

 椅子を一回転させると、さやかは置いてあったカップをとりまた一口飲んだ。

「なんだ、バカみたい」

 あまりに、簡単なことではないか。そう思った。

 ――もし、前提がそうならば、コレも悪戯なわけだ。

 翌日誰かから告白されると予言しておいて、こちらに期待させるっていうことでは無いだろうか?

 さやかはそう納得した。と同時に少し悪質な悪戯ではないか? という気もしてきた。それは同性にダミーのラブレターを送りその動揺を盗み見るようなもので、あまり気分の良い物ではなかった。

 カップに口をつけ、暫く渋い顔をしていたさやかだったが、諦めたように再び一つ溜息をつくと、マウスを操作しブラウザを閉じようとした。

 ――まあ、どうなるものでもないし、明日確かめてみるしかない。

 カーソルをウィンドウのクローズマークまで持っていくとき。一瞬目に留まったサイト上方、そのブログの、サイトタイトルが気になった。


『あなたはわたし』


「誰よまったく…」

 手のひらで軽くマウスを叩くようにして、さやかはクローズの☓印をクリックした。

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