第33話 会いたいけど、会いたくない
噂が広まり始めた頃、水惟は氷見に会社から少し離れたカフェに呼び出されていた。
「ごめんね、社内じゃちょっと話しにくくて。」
「いえ。」
水惟にはなんとなく呼び出された理由がわかっていた。
「社内で噂が広まってるの、気づいてる?」
氷見の問いに、水惟は無言で頷いた。
「水惟が私に贔屓されてるとか、深山さんの奥さんだから優遇されてる—とか…」
「はい。」
「多分、乾が発信源だと思うんだ。ほら、この間の
「…私も…そんな気はしてます…」
水惟がそう言うと、氷見はテーブルに手をついて頭を下げた。
「ごめん水惟。私が余計なことしたから…」
「えっそんな…氷見さん、やめてください!」
水惟は焦って氷見の頭を上げさせようとした。
「…元々、クリエイティブに配属になった時から少しこういう事はあって…」
水惟は油井の顔を思い浮かべた。
「深山さんと結婚してからは社内の知らない人から『深山さんと釣り合ってない』とかあれこれ言われたりしてて…なので今回が特別ってわけでもないんです。だから氷見さんのせいじゃないです。」
水惟が苦笑いで言うと、氷見は顔を上げた。
「今回は仕事のことで色々言われちゃってるみたいだから、仕事で挽回できるようにがんばります。」
水惟が言った。
「一応、深山くんにも相談しようと思ってるけど…」
「やめてください…今仕事が忙しいみたいなので余計なことで心配させたくないし、本当に特別扱いされてるみたいで嫌なので。」
「でも」
「自分のことは自分でなんとかします。」
それから水惟は、予算の少ない細々とした案件を積極的に受けるようになり、部署で一番残業をするようになった。それは氷見から贔屓されているという印象を無くすためだった。
「ただいま。」
蒼士が帰宅した。
「おかえりなさい。私もついさっき帰ってきたところなの。すぐにご飯作るね。」
「え、大変だろ?デリバリーにする?」
「ううん!材料買って来ちゃったから。」
水惟はスーパーの袋から材料を取り出して言った。
「残業だって言ってくれたら外で待ち合わせても良かったのに。」
「えーっと…うん、そうだね。次は連絡する。」
そう言いながらも、水惟は蒼士に残業の連絡をするつもりは無い。家事も仕事も手を抜かずにやるべきだと考えていた。
といっても蒼士は相変わらず出張続きで、その隙間を埋めるように会食やパーティーの予定が入っていたため、料理をする機会はそれほど多くはなかった。
———ふぅ…
この日も残業していた水惟は溜息を
「大丈夫?」
一緒に残業していた氷見が心配して声をかけた。
「あ、すみません。ちょっとお腹空いちゃって。」
「最近詰め込みすぎじゃない?」
「いえ、私の今期のデザイン目標予算、きっと全然到達してないですよね。だから大丈夫です。」
深端グラフィックスの若手デザイナーには関わった案件の受注金額がデザイナーとしての仕事量の指標として設定される。
「それは水惟が細かい案件ばっかり受けてるからでしょ?」
「一番下だから当然です。」
「も〜、そんなことないでしょ。」
水惟の考えを理解している氷見はもどかしそうに言った。
「…部長も承認してますから。」
クリエイティブチームは制作部内にあり、氷見や洸のようなADの上に制作部長がいる。部内の最終的な決定権は部長にあるため、部長が承認していると言われたら氷見もあまり口出しできない。
「こんなに毎日残業してて、深山くんに何か言われない?」
「立て続けに海外出張に行ってるので、もう2週間くらい会ってないです。だから休みの日もヒマだし、家のことは大丈夫です。」
水惟は笑って言った。
———ピ…
水惟は誰もいない家に帰り灯りを点けた。蒼士がいないと、高層階から見える景色も広い部屋も随分と自分に不釣り合いなものに感じる。
———ボフッ
帰ってきたままの服装でうつ伏せでベッドに倒れ込むと、仄かに蒼士の匂いがする。
「…会いたいなぁ…」
ポツリとつぶやいた。
「会いたいけど、会いたくない……」
会いたい気持ちと、社内で一緒にいるところを誰かに見られてヒソヒソと噂をされる心配のない安心感が水惟の
水惟は溜息を
もう何日も夕食をとらずに一日を終える日々が続いている。そして、朝食をとらずに会社に向かう。
「最近あのワンピース着てくれないね。」
パーティーの支度を終えた水惟に蒼士が言った。蒼士がプレゼントしたミルクティー色のドレスのことだ。
このところ、パーティーや会食に水惟が着ていくのは胸元が隠れるデザインのドレスばかりだった。
「ん…うん…気に入って着すぎちゃって…何度もクリーニングに出してるから傷んじゃいそうで。あのワンピースは大事にしたいからちょっとお休み中なの。」
「ふーん、そっか。でも今日の格好も似合ってる。」
蒼士の言葉に水惟は無言で微笑んで、二人はパーティーに向かった。
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