第17話 手

「俺は猫の絵が好きだったな。なんか表情が良かった。」

「……前…は動物の絵はなかった……ね。」

気づくと先日のギャラリーで見た個展の話になっていた。

「花とか果物もなんていうか、一澤 蓮司らしい感じで良かったけどね。レイアウトがデザイナーっぽいっていうのか—」

「あ……それは私も…思った。そのままでも素敵だけど、文字とか合わせても格好良くなるんだろうなって…」

デートで展覧会に行った時にはお決まりだった感想の言い合い。昔と変わらず楽しそうに話す蒼士に対して、水惟はまだ状況への戸惑いが拭えず、少し辿々しい喋りになってしまう。

(………)

「…いつか、一澤さんとも仕事してみたいなって思った…」

水惟はもうほとんど紅茶の残っていないカップを口元に近づけたまま、恥ずかしそうにつぶやいた。


「できるよ、水惟なら。」

蒼士の心地よい声に、水惟の胸がトクンと音を立てる。


(私、この人と夫婦だったんだ…)

隣に座る蒼士を見て、あらためて不思議な気持ちになった。



「あ…っ、お金…」

店から出ると、水惟は財布を取り出そうとバッグに手をかけた。

「いいよ、お茶くらい。」

「で、でも…スピーチの相談にまで乗ってもらっちゃったし…」

水惟はどうしても支払いをしようと食い下がる。

「じゃあ、打ち合わせってことで経費で落とすよ。」

「…そうですか…じゃあお言葉に甘えて…。ごちそうさまです。」

「チーズケーキも食べれば良かったね。」

そう言って蒼士はいたずらっぽく笑った。

(…経費なんて多分、嘘。)

蒼士が他人に気を遣わせまいと、こういう嘘をつくのを水惟は知っている。

(そーゆーひと…)


それから二人は駅までの道を並んで歩いた。

「あの…この前のどら焼きも…ごちそうさまでした。その前のゼリーも…」

「ああ、うん。」

俯きながら照れ臭そうに言う水惟に、蒼士はクスッと微笑んだ。

「おいしかった?」

「う、うん。木菟屋なんて滅多に食べれないし、イチゴ入りのは初めて食べたから、びっくりするくらいおいしくてちょっと感動しちゃったくらいで—」

水惟が顔を上げると、蒼士が優しくみつめるように微笑んでいた。

(………)

水惟の胸がキュンと締め付けられ、また心臓が細かくて速いリズムを刻む。

「そんなに喜んでもらえたなら、持って行った甲斐があった。」

さらに破顔するような笑顔を見せる。

「えっと、うん、あの…あの日、洸さんがお家に持って帰ったら、灯里ちゃんがどら焼き食べて元気になったって…」

「それはさすがに食べる前から元気だったと思うけど。嬉しい。」

蒼士がまた笑う。

「う、うん」

(落ち着け、心臓…)


「水惟はメトロだったよね。俺はこっちだから—」

「あ、あのっ…!」

駅で別れようとする蒼士に、水惟がまた話しかけて呼び止めた。

「どうした?」

「その…ロゴの件、湖上さんにプッシュしてくれて…ありがとうございました。」

蒼士が湖上に水惟の作品を紹介してくれたことにお礼を言った。

「ああ、あれ。湖上さんは水惟の事例だけ見たような言い方だったけど、幅を持たせるために深端うちのデザイナーの事例も何人分か見せたんだよ。だから—」


「選ばれたのは水惟の実力。」

そう言った蒼士の手が、ポンと水惟の頭に触れた。


瞬間、蒼士はハッとしてすぐに手を離した。

「ごめん、水—」

水惟の顔が宵の口の薄暗がりでもわかるくらい真っ赤に染まっている。

「………やめ てよ…」

自分の鼓動の音で聞こえないようなか細い声で、表情に合わないセリフを振り絞るのが精一杯だった。

「わ、私、こっちだから…おつかれさまでしたっ」

水惟は会釈をすると、足早にメトロの改札に向かった。


(…やめてよ…)


(………)


(この間からおかしい、私…)


(あの人にもっと笑って欲しいって思ってる)


(もっと喜んで欲しい)


(それに)


(…触れて欲しいって…)


(………)


(…あの時…洸さんが帰ってこなかったら…)

水惟の脳裏に先日蒼士がリバースに来た時のことがぎる。


水惟をみつめたまま、蒼士の右手が水惟の左頬にそっと触れる。


水惟はくすぐったそうに、眉を下げて一瞬目を細くする。その表情に蒼士がクスッと微笑んで、愛おしそうに髪を撫でる。

(それから…)

水惟の顎を捕らえて、少しだけ顔を上に向かせて、触れるように唇を重ねる。

(そのあと…)

水惟の頬を手で包んで、唇を割り開くように舌を絡める。水惟が恥ずかしがって顔を背けようとしても逃がそうとしない。

(女子の手と全然違う大きい手…溺れそうになる、呼吸を奪うようなキス…)

熱っぽい吐息が、絡み合うように混ざる。

キスの最中も時折目を開けて、お互いをみつめる。

蒼士の唇が水惟の首筋に落ちる。服の裾から侵入した手が、肌に触れる。

(…それから…)


———パチンっ

水惟は目を覚ますように両手で頬を叩いた。


———は〜〜〜…


(何思い出してるの…)


(欲求不満なわけ?)



——— 水惟

不意に、蒼士が自分を呼ぶ声が耳の中に響く。

4年前なのか、現在いまなのか、どちらの声なのかわからない。


(もう別れたのに…なんで…)


(もっと名前を呼んで欲しいって思ってる…)



(どうして…)




(あの人と並んで歩いてるのに、手…つなげないんだろう…)

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