Day25 報酬

 小さい頃、母の料理を手伝うのが好きだった。チーズの端っことか、ソーセージのしっぽとか、フィルムに貼りついたソースとか、つまみ食いが「報酬」として認められていたからだ。

 出来上がったばかりの回鍋肉を一番に味見したり、うっかり賞味期限を切らしたお菓子や鍋の底に張り付いたカレーを「処分」したり。

 緩み切ったほおを抑えて「キッチンでこっそり食べるものって何でこんなに美味しいんだろうねぇ」と母と言い合ったのも楽しい記憶だ。

 居間でゲームしてばかりの弟はこの旨みを知らない。母に呼ばれても面倒で行こうとしないんだから、俺も言う気はない。哀れみを込めた目で見るだけだ。

 「そこのお兄さーん」と年寄りの声がして現実に引き戻される。声がした方を見ると、野良着を着た年配の女性が農業用アンドロイドと共に木陰に座っていた。

「お兄さん、暑いだろ。きゅうりの漬物あるから一緒に食べな」

「良いんですかー?」

「良いよ、作りすぎちまったし」

 「こっち来な」と言われるまま、段々畑を登って倒木に腰を下ろす。

「お兄さんも廃墟ホテル目当てかい?」

「そうなんです。ステンドグラスが凄いって聞きまして」

「あれだけどな。今、夏だろ?蔦がふさいじまって入れねぇんじゃないかい」

 「どうぞ」とアンドロイドから渡されたきゅうりの漬物をかじりながら「ふぉうなんでしゅか」と答える。

「普段誰も遠らねぇところだろ。ナタでぶった斬らねぇと奥なんざ入れねぇ」

「でもネットの写真はちゃんと通り道があったんですけど……」

「この間もそう言った若いモンが来たよ。んで、心配だから山入るならピッピ連れてけって言ったらな?どこにも入れるところが無い、草を刈ろうにも見当がつかないってしょんぼりして戻ってきたよ」

 ピッピと呼ばれたアンドロイドがその時の茂った山の写真を見せてくれた。確かに道の形跡すら緑に飲み込まれて太刀打ちできそうにない。

「ネットのあの写真は一昨年くらいじゃねぇかい。上の爺さんがまだ草刈りできた頃だろ」

 お婆さんは深いため息をついて、きゅうりの漬物を口に放り込む。ポリッポリッ、と小気味良い音がした。

「爺さん、転んで怪我して起きられなくなったと思ったら、下界に降りた息子が連れて帰っちまってな。もう廃墟ホテル行く道はねぇんだ」

「そんな事情があったんですか……それなら行くのはやめておきます」

 「それで良いさ」と応じたお婆さんは、ピッピの背中にはねた泥を手ぬぐいでふいていく。

「お爺さん、息子さんのところで楽しく暮らせていたら良いですね」

「どうだかね。歳行ってから知らねぇ土地に馴染むってのは骨だよな」

「そうですね……」

 自宅から新幹線とバスを乗り継いで、急な坂道を登り続けてここまで来たのに、廃墟ホテルをチラッと見ることすら叶わず帰るなんて辛い。何かあれば良いんだけど。

「うーん、代わりというか。お母さんが今までの人生で休止に一生を得た話を聞かせてもらえませんか?差し支えない範囲で良いので」

 試しにそう提案したら、お婆さんは一瞬きょとんとしてから、大口を開けて豪快に笑いだした。

「こんなババァの話、面白くなんかないよ」

「ご謙遜をぉ。実は、行く先々でお会いした方に聞いているんです。みなさん必ずその人しか経験していない凄い話ってあるものなんですよ」

 嘘じゃない。道行く人に武勇伝を聞けば、本一冊書けるほどのネタが必ず転がっているものだ。

「そうかい?んじゃ、こっちに嫁に来た頃の話だから五十年くらい前になるかね……」

 お婆さんは最初こそつっかえながらの話だったが、徐々に饒舌になって、クマと戦った話をしてくれた。

 目的地があっても、消えても、道すがらに報酬代わりの面白いものがある。それを大事にしようと思えたのは、やはり、母と一緒にキッチンでこっそり食べていたつまみ食いの記憶があるからかもしれない。


(「Day10 ぽたぽた」「Day20 甘くない」に出てきたサクが大人になって趣味を貫いている頃の話です)

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