第8話 ベルナデッタ・レグーナの策略


穏やかな海だ。本当に怪物などいるのだろうか。波も静かで、水平線まで何も無い。


「夢みたい。こんなに大きな船にたった3人だなんて…」


「あんまり顔を出しすぎるなよ。落ちたら助けてやれない」


「大丈夫大丈夫、意地でも掴まるから」


「何に?」


「そりゃゼノに」


「冗談であってほしいな」


泳ぎは下手だぞ?パニックになって溺れる未来しか見えない。


「…妙だな…アカエイ号以外にあの海域を渡れる船が存在するのか…?」


「どうした?何か異常があるのか?」


「いや…向こうを見てくれ。船だ。しかもかなり大きい。あんなの、とっくに海龍の獲物になっててもおかしくないのに…」


水平線の間際に、確かに船が見える。しかもこちらに少しづつ近づいているようにも思える。ローズの船なら渡れると思うが、他の船がその怪物とやらがいる海域を渡ることができるのだろうか。


「幽霊船…?いやまさか…うわっ!何…?矢文…?」


マストの柱に突き刺さる矢。この距離で届くのか、と思いつつも括り付けられた手紙をローズに渡す。


「『海の魔物討伐に協力されたし。これより貴殿の船との連結を行う』…どこかの討伐隊か?」


「連結だって?動きづらくなるんじゃないのか?」


「まったくだ。大破した船を牽引したことはあるが、今までこんな馬鹿な頼みを言ってきた奴はいない。何の意図が…」


そうこう言っている間にも少しづつ船は近づいてくる。その帆に描かれた紋章が見えるくらいには…


「緑十字…!聖教騎士団だ!レグーナの勢力か!まずいぞ…」


聖教騎士団。所謂宗教騎士団であり、信仰の拡大と兵としての役割を担う精鋭部隊。個々の戦闘力はセントーレアやカトレアには及ばないが、その団結力と祝福による総合戦力は恐ろしい程の高さを誇る。


「なるほど。全てお見通しというわけか。レグーナにも腕の立つ占星術師がいるのかな?リヴィドの特権だと思ってたよ」


「ゼノ…」


リンが不安そうに俺の手を握った。どうやら彼女も嫌な予感を感じとったらしい。どちらにしろ増援がアグリーツァに送り込まれるのは時間の問題なのだろう。


俺達は船が刻一刻と近づくのを待つしかなかった。船は互いに一度横腹を見せ、こちらの船とレグーナの船に橋がかけられた。ご丁寧にも魔法で補強されており、何かのアクシデントで橋が落ちることも無さそうだ。


「久しぶりですね。ゼノ?」


…最悪だ。よりによって、どうして彼女がここに来ているのだ。女王なら女王らしく玉座でふんぞり返っていればいいものを…


「ひっ……」


声が出ない。久しぶりに出会った彼女の圧が凄すぎて、首を締め付けられているようだ。


「私から逃げ出して低俗な女どもと…なんと嘆かわしい。ですが運命が私達をこの海で出会わせたのですよ、受け入れなさい。貴方は私のモノなのです」


ベルナが腕を伸ばして俺の頬に触れる。他の二人も硬直して動けない。彼女がいるだけでその場が凍りついたようだ。


「こ、こんな所で何をやってるんだ…?この海域には怪物が出るって…!」


ベルナを突き離す。絞り出した声はそれだけだった。


「道中でそれらしきものは撃退しました。仮に再び怪物が出てきても私が捻り潰して差し上げましょう。ほら、帰りましょう?本当は怪物を倒したらアグリーツァまで上陸するつもりでしたが、その手前は省けました。運命の女神は私に味方をしたようです」


運命の女神か。なんとも非情な奴だ。俺に救いはないのか。少しくらい助けてくれたっていいじゃないか。


「運命…その言葉を軽く使うことは例えレグーナの女王であっても許さないよ」


「お前は確か…あの時の女ですか。お前には関係の無いことです。第一に、私とゼノは運命の赤い糸で結ばれているのですから、再会するのは必然のこと。これを運命と言わずして何と言うのですか?」


「そんな物は運命なんかじゃない!お前がその子を縛り付けているだけだ!」


「そうですね。でもこの船に乗ったのは彼の意思です。彼から私の方に導かれたのですよ?なぜなら、ゼノは私のモノだからです」


話は平行線。まさかこんなことになるとは思わなかった。…セントーレアがここに来れなかったのはある意味幸運かもしれない。きっと彼女も問い詰められるだろうから。彼女はただ任務をこなすだけなのだ。


「本人に聞いてみたら?アンタみたいなのとは一緒に居たくないはずだよ」


リンが勇敢にも前に出た。


「害虫がこんなことを言っていますが、貴方の意思はいかほどに?」


質問されているはずなのに、質問とは思えない。圧を越えて、最早殺気にも等しい。こちらの船に単身で乗り込んでいるはずなのに、むしろこちらが追い詰められている。


「…どうして何も言わないのです?貴方は私のモノでしょう?貴方を拾った時から誓わせたはずですよ」


そうか。だから胸が苦しいのか。誓いに背いているから俺は罰を受けるのか。なら間違っているのは俺なのかもしれない。


「怯えているじゃないか!いったいこの女にどれだけの苦痛を…!」


「苦痛?失礼ですね。躾ですよ」


「狂ってる…!」


「狂ってる?彼のためならどこまでも狂いましょう!私を止められる者はいないのだから!」


ベルナの高らかな笑い声が晴天に響いた。


「さぁ、歓談の時間は終わりです。大人しく引き渡しなさい」


「断る。叛逆の騎士団の名にかけて、彼を守り通す」


ローズが前に出た。短剣を左手に、小型の弩を右手に持ってベルナに向ける。


「残念です」


ベルナが一言呟くと、風が吹き荒れて海流を巻き上げ、激しい雨となって俺達に打ちつけた。天候すらも操るまさに稀代の天才だ。


「緑龍の瞳…!レグーナの最後の国宝か!どうりで強いわけだ!」


ベルナの持つ杖の先に埋め込まれた宝石はレグーナを代表する聖遺物だ。別名緑龍の瞳と名付けられたそれは適正のある所有者の手の中では何者にも勝る力を与えるという。ただでさえ大陸指折りの実力者である彼女が国庫から持ち出していたとは…


「それでも諦めるわけにはいかない!」


リンがナイフを投げつけるが、風の障壁によって弾かれる。そのまま海へと流されていった。


「脆い。凡人の魔法ではこの程度」


二人の攻撃をいとも容易く避け、確実にこちらに歩むを進める。いよいよ俺の目の前に差し掛かった時、俺は剣を抜かざるを得なくなった。黒く鈍い光を放つ剣が解き放たれる。


「『宵の明星』…叛逆者の剣…ゼノ、どうして貴方が?」


「どうだっていいだろッ!」


勇気を振り絞り、不慣れな左手で握り、ベルナに斬りかかる。杖でいとも容易く受け流され、合間に反撃を食らう。波はベルナの魔法で荒れ狂い、船も揺れる。幸か不幸か、彼女はこちらを一人で相手するつもりらしい。向こうの船の騎士団も動かないでいる。


「至高の遺物であろうと、扱えなければその程度…愚かな真似はやめなさい。貴方は蚕のように、私の下でなければ生きていくことができない」


杖の先で腹を小突かれ、息が苦しくなる。


「うッ…!まだ…!」


侮っていた。ベルナなら俺を直接傷つけやしないだろうと高を括っていた。


「どうして私の命令が聞けないのですか?調教が足りていませんでしたか?帰ったら二度と貴方を私の側から離れさせないようにしてあげなければ…」


「絶対に渡すものか。それに、人様の船に勝手に乗り込む輩は許さない」


ローズの弩から放たれた矢は軌道を逸れ、甲板や柱に命中する。しかし最初から彼女を狙っているわけではないらしい。


「小賢しい真似を…!不愉快です!」


鏃の間に電撃が走り、結界を作った。ベルナの魔法が結界に吸収されてかき消されていく。しかしすぐに破壊され、再び彼女の攻撃が通るようになってしまった。


「この程度の魔法で騎士団の総攻撃を防いだとは思えませんね。私には本気を出さなくても十分だとでも!?」


「あッ…がッ…!」


ローズが首を掴まれて宙に浮かせられる。足が無力に空を泳ぎ、首を掴むベルナの腕に電撃を放ち、その隙に手からすり抜けた。何度か咳き込み、体勢を立て直す。


「お前達を相手にしていてもキリがないですね。…信徒よ!あの二人を捕らえよ!」


その一声で騎士団がぞろぞろと橋を渡ってこちらの船に乗り込んでくる。あっという間に囲まれ、彼らは包囲網の中心に剣を向けた。


「この状況から無事に帰る方法は…流石に厳しいものがあるかな…」


リンは鎌を握りしめ、覚悟を決めたようだ。


「…師匠…貴方ならこの状況をどうやって切り抜けるのでしょうか?」


絶望的な状況だ。多勢に無勢、ベルナ一人だとしても勝てる気がしない。そして海の上だ、逃げる場所もない。運命は何と残酷なことか。全てが彼女の思い通りなのか。


…だが、少しだけ状況がマシになる方法が一つだけある。


「…俺がそっちについて行けば…二人に手は出さないと誓うか?」


「!?…ゼノ、ダメ!」


リンが止めようとする。これ以上彼女に迷惑はかけられない。既に多大な迷惑をかけてしまったのだから。


「少年!君の夢はどうした!?何のためにここまで来たんだ!君の冒険はこれからだろう!?」


恩人の言葉が胸に刺さる。俺は弱い、そう実感した。


「…いいんだ。二人が無事ならそれで…。ベルナ、君に従えば二人に手は出さないと誓ってくれるか?」


「一生私の側から離れないと誓うなら」


「ダメだよゼノ!」


「思い直せ少年!」


二人の声が意識から追い出されていく。心の中の葛藤がなんとか現実と意識を繋ぎ止める。そうでなければ意識を手放してしまいそうだ。


「俺は…」


なに、問題ない。いつもの日常に戻るだけだ。この一週間ほどの出来事はただの一時の夢だ。少し長く夢を見ていただけだ。目が覚めればまたいつものベッドにいて、ベルナが起こしに来るんだ。何も変わりやしない。少し束縛が強くなるくらいだろう。


「ベルナに永遠の愛を…」


…なのに、どうしてこの先が言えないのだろう。その幻想をまだ捨て去れない自分がいる。夢など捨ててしまえばいいだろう。もう夢は叶ったではないか。冒険に出ることはできたじゃないか。何を迷う?


『やめておけ。地獄が始まるぞ』


低く、地獄の底から聞こえるような声が脳裏に響いた。黒い鎧に白いコートを着た騎士が刀を持って俺の前にやってきた。


『諦めるな。それでも剣に選ばれた器か』


「誰なんだよアンタ?」


どこからやってきたのか、包囲網の中から出てきたようにも思える。黒衣の集団の中でも一際目立つその漆黒の男に、俺は恐怖どころかある種の安心感すら抱いていた。


「裏切り者ですか。私の邪魔をしないでいただきたい。貴方達は部外者に過ぎないのですから。…聖教騎士団なんて頼るんじゃなかった」


『この子の親だぞ。部外者なはずがあるか』


ふざけているのか、それとも大真面目にそう言っているのか。俺の親だって?


「何…?」


『人の息子に手を出して、タダで済むと思っているのか』


男が刀を抜いた。刀身が黒く光り、魂をも刈り取らんとでも言いたげだった。


「私が拾った子です。であれば私のモノでしょう。貴方が何者か知りませんが…」


男は止まる気配がない。まっすぐにベルナへと向かい、刀を振った。ベルナの長い髪の先が落ちる。


『手合わせ願おうか。こんな肉体でも、息子の一人くらい守ってやらないとな』






























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