返歌

 ついに佳鈴声よしすずこえは神樹の実を飲み下すのも出来ない程に弱ってしまった。

 今は統木すばるきの花嫁が差し出す神樹の蜂蜜を日に一匙だけ舐めて命を繫いでいる。神樹に咲く花から蜂が集めるその蜜は神樹の実そのもの程の栄養はないが、海勇魚船わたないさなふねに住む者にとって滋養の高い栄養源であり、何より数少ない甘味である。

 そんな食事とも言えない量しか食せない佳鈴声が当然として痩せ細り、元から華奢な腕は骨の形が浮き出ている。

 佳鈴声はもう声を出すのも厳しいので、花嫁も雲手弱くものたおやも話し掛けたりはせずに彼女を見守るだけにして、船底の離れ部屋は灯りの揺れる音も聞こえそうな鎮闇しづやみに浸っている。

 そこにどたばたと床を乱暴に踏みつけて急ぎ足でこの部屋に誰かがやって来る気配が響いてきた。

 雲手弱が眉を潜めて戸に目を向けると、戸の材と枠の材を思いっきりぶつけて音を立てて今言いまことが入って来る。

「うるさいですよ。鈴声の体に障るでしょう」

「いいの!」

 雲手弱の真っ当な批難を今言は子供のように駄々を捏ねて押し退けて、佳鈴声の臥せる横に座る。そして両手で大切に抱えた杯を掲げて見せた。

 佳鈴声は眼差しだけで何を持ってきたのかと今言に問うた。

「神樹の実を搾ってきたのよ。二個分もね。噛めなくても果汁なら飲めるでしょ」

 今言は杯をそっと脇に置くと、佳鈴声の背中に手を指し込んで自分に凭れさせるようにして上半身を起こす。

「神樹の果汁を搾って、残った実はどうするんですか。それも二個分も」

 この場にちょこんと座っている花嫁が気軽に下賜したり食事に時折水菓子として付けられたりするが、神樹の実は大変貴重なものだ。丸々一つを賜った事があるのは、それこそ佳き歌を航津海わたつみの統木大神すばるきおおみかみに捧げた者に限られている。

 それを二つも、搾った果汁だけを持って来たと聞いて雲手弱は呆れ返っていた。

 佳鈴声は一つの果実を授かっても、それを皆に分けるくらいに奥ゆかしいのに、自分の為に二つも果実を使われたとあっては相当に気後れしている。

「いいのよ。乾菓子ひがしにして、鈴声が良くなったら二人で食べるんだから」

 この期に及んでまだ佳鈴声が死ぬのを認めていない今言に、佳鈴声本人は弱々しく淡い笑みを作ってしまう。

 それでも忍び寄る死を吹き飛ばそうといつも以上に元気を振り撒く同僚を無下にするのも健気な佳鈴声には出来なくて、唇に寄せられた杯の甘い果汁をこくり、こくりとゆっくりと、懸命になって飲み下していく。

 その様子を見る今言は真剣な眼差しをじっと潤ませていた。

 これで佳鈴声の命は一日伸びるか否か。花嫁は人を永らえさせる自らの果実が、生が尽きようとする者にはそれだけの霊験も示すか不明であるのが歯痒い。

 時間が進むのも忘れたかのような長い感覚を通して、やっと佳鈴声はたった一杯の果汁を飲み切った。

 佳鈴声は今言に体を預けたままそっと瞼を閉じる。

 それに怯えた今言は佳鈴声の手をぎゅっと強く、強く握って手の甲に血管を浮かび上がらせる。

 佳鈴声は反対の手も被せて逆に今言の手を包み込む。

「ちょっと考えごと」

 佳鈴声が物思いを巡らせる為に目を閉じただけだと伝えると、今言は早とちりを恥ずかしがって頬に朱を差した。

「もう紛らわしいんですよぉ」

 今言は照れ隠しに悪態を吐いて佳鈴声の前より細い肩を擦る。

 眠るように瞼を閉じて息も微かな佳鈴声の体を、今言は大切そうにいつまでもいつまでも抱え続ける。

 やがて佳鈴声は瞼を重そうに持ち上げて、雲手弱に目配せをする。

 雲手弱は佳鈴声の合図を確かに受け取って慣れた手付きで墨を擦り始める。

 それは雲手弱が部屋から持って来た自前の道具であり、彼女はここ最近、佳鈴声が最後に少しでも花嫁の為になればと寝たきりになりながら詠む歌を、後々まで遺るように書き留めている。

 雲手弱は元から佳鈴声の歌の多くを書き写しているが、今はそれを自分の手蹟で本を綴るのだと意気込んでいる。そうして文字に遺した佳鈴声の歌は、何度となく人々に読まれ、そして花嫁へと詠まれて、いつか辿り着いた新しい国で末永く航津海統木大神を栄えさせるのだと。

 今言に身を寄せて雲手弱が文具を整えるのを待つ間に、佳鈴声は花嫁に向き合った。

「わたし、考えてたんです」

「なんぞ」

「わたしの体、死んだ後に御神木の葉に乗せて海の波に流してほしいなって」

 今言の手が佳鈴声の肩をきゅっと掴んだ。それは落ち掛けた者が咄嗟に掴んで自分の身を支えるような、そんな仕草だった。

 雲手弱はちらりと佳鈴声の顔を見て、すぐに手元に視線を戻して墨を丁寧に擦り続ける。

 花嫁は曖昧に澄ました表情で佳鈴声が続きを語るのを待った。

「死んだ者をどう弔うのか、まだ決まってないじゃないですか。なら、わたしが決めてもいいかなって思ったんです」

 佳鈴声は苦しそうに、しかし名前の通り鈴のような透き通った声で、表情はせめて茶目っ気を見せようとする。

「みんな、統木様が大好きですから、最期に現世を離れる時にはそばにいてくだされば安心すると思います。それに船にはお墓を作る場所もないですから。それなら海に」

 佳鈴声は一度言葉を切って、花嫁からも視線を外す。

 その肉眼は木の壁を映しているけれども、彼女の眼差しはその外の海の、更に彼方の向こうへと向いている。

「海の波に流して、飲まれて、そうして死んだわたしは波になって。波と斉しくなったわたしは海勇魚船を押して大好きな航津海統木大神が無事に新しい国へ辿り着く力になるんです。それに海の波はいつか遠い祖国にも寄って。懐かしい人々に、海を征く航津海わたつみの征嗣国主ゆきつぐくにぬしのみことが民は健やかにあると伝えるのです。わたしは……死んだら、そんな波になって、あなたと在りたい」

 佳鈴声は全てを言葉にし尽くすと、息絶えたように噤んだ。

はげに心佳き者よ」

 佳鈴声は遠くなく死ぬというのに、いや、この海勇魚船で最初に死ぬからこそ、これから先に自分で続いて来る人達がどうすれば安らかに死出の旅へ赴けるのかを健気に考えていた。その末にまだ生ける者達が抱く祖国への郷愁と心残りにも応えようと想いを至らせる。

 そしてそれがそのまま自分の幸せになるくらいに、佳鈴声は美しい心の持ち主だった。

 佳鈴声は雲手弱にまた目配せをする。

 墨を擦り終えて、紙も筆も仕度を済ませた雲手弱は佳鈴声に頷きを返す。

 佳鈴声は細く息を吸い込んだ。

「わだつみの船押す波の、寄る辺には、船発つ国の岸もあるらむ」

 蝋燭の灯に四つの影が揺らめく部屋に佳鈴声の歌が満たされる。

 雲手弱がその名の通りに空に掠れる雲に見間違えるような美しい手蹟で、軽やかにその歌を書き留めた。

「なみのまに耳紛みみまぎらふは佳き鈴の声が神へとささげし幸や」

 船の上で日々を暮らし波の音を聞いて過ごしている。その中で繰り返す波の合間に聞こえたのは、いつの日か神に捧げられた歌である。そしてそれは幸せそのものに違いなかった。

 統木の花嫁が歌を返した。その衝撃に今言も雲手弱も目を見開いている。

 神から歌を授けられるというのは人の身に余るものだ。祖国の伝承によれば、統木大神に歌を授けられたのは皇族の始祖であり、神に成った存在だ。

 そんな伝説の出来事が目の前で起こり、心穏やかに受け入れられたのは、歌を授けられた本人だけだった。

 佳鈴声は力の抜けていく体でも溢れる歓びのままに、微かな笑顔を見せていた。

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