梅泥棒

蒼キるり

第1話

 父の紹介でこの屋敷に働きに来て、かれこれもう全ての季節をここで過ごした。月日の過ぎることのなんと早いことだろうか。

 幼い頃から抱えていた日常的な寒気と夢見の悪さはこの屋敷に来てからぴたりと止んだ。

 どうしてだろうと最初は不思議に思ったけれど、歳の近い姫君の話し相手にいいだろうと言われここで勤めるようになり、毎日とても忙しく過ごしているからだろうと納得するようになった。

 よく動いていれば寒くなる暇などないだろうし、疲れて眠れば夢など見ている余裕はないだろうから。

 私より少しだけ年下の姫様はこれくらいの歳になればとうに落ち着いている歳周りだというのに、いつまでも幼子のように無邪気で落ち着きがないので、新米の私でもやることはたくさんある。



「お梅、お梅はどこにいるの」



 私が別の用事を済ませていると、姫様はすぐにそう私を呼びつけるのだ。

 背丈は私とさほど変わらないというのに本当にあどけない。他所の姫ならばこんな風に大声を出したりはしないものだ。



「はい、姫様。こちらに」



 他の者に急いで仕事を引き継いでから顔を出すと姫様はなんとも気安い動きで私を手招きした。

 これは窘めるべきだろうかと考えていると、焦れたように姫様自ら近づこうとしてくるので慌てて近づく。

 高貴な姫君の着る衣は動きにくくて嫌だと身軽な格好ばかりするからこうしてすぐに動こうとするのだ。やはり無理にでも重い衣を纏わせた方が良いのかもしれない。

 そんなことを考えていると、ふと姫様の手元に香りの良い文があることに気がついた。



「まあ、殿方から文が届いたのですか?」



 姫様が退屈そうに頷くのを見て、これはきっと恋文だと私は心を震わせた。

 幾ら姫様が子どもらしく振る舞おうともそれを知らぬ男達はこうして文を贈ってくるのだ。

 それは姫様の幸せに繋がることである。仕える者としては喜ばなくてはならないのだけれど、どうしてか上手く笑うことができない。



「見てよ、お梅。この人、私のことを桜の花に喩える歌なんて贈ってきたわ」


「……花に喩えるのは恋の歌ではよくあることかと」


「そうね。まあ、私は桜の花が好きだからそこだけは褒めてあげても良いけれど。おあいにく、儚さに重ねているわ、嫌になっちゃう。私と儚さって、これ以上に遠い組み合わせあるかしら」



 そうは思わない? と小首を傾げられて、それは確かに、と思ってしまうのは仕える者としてはよくないのだけれど真実ではある。

 姫様はもっと溌剌としたものに喩えるべきだ。いつかは枯れてゆく花ではなく、もっと広大で永久を思わせるのに普遍ではないもの。

 そう、日々移ろい表情の変わる大空などならば姫様と並べても遜色がないだろうに。

 文を贈った者は何もわかっていないのだ。何もわからずにただよくある喩えを持ち出して姫様をそれに当て嵌めようとしている。姫様はそのようなものに収まる人ではないのに。



「ああ、でも私は桜よりも梅の花が好きね」



 唐突に姫様はそんなことを言った。何を言っているのか分からなくて首を傾げていると、すっと姫様の手が伸びてくる。

 姫様の何事もないようにと守られてきた者だけが持つ柔い手のひらが私の頬に触れる。

 働くことを知らない手だ。ずっとこのままでいてほしいと思う。



「だから心配しなくてもいいのよ、お梅」



 私を安心させるような微笑む姿に私はぎこちなく笑い返す。

 なんのことだか分からない、という風に見えているだろうか。

 私の素っ気ない対応に姫様は息を吐いて手を離した。それを名残り惜しく思うのはいけないことだ。



「この文はもう下げていいわ。返事をして期待させたら面倒だもの。夜這いなんて断固としてお断りよ」



 良いお相手かもしれないのに、と本当なら諌めなくてはならないのだけれど、どうしても私にはできない。

 願わくば姫様の手が殿方に触れることなど先になりますようにと祈ってしまうのだから。



「花の歌をつけるなら、せめて花の枝でもつけて寄越しなさいな」



 そう呟く姫様を見て、もしそうやって贈ってくる者がいたら喜ぶのだろうかと胸が痛くなる。



「はあ、そんなことを話していたら梅の花がこの目で見たくなったわね。今年はもう遅いけれど、来年は見に行きましょうか。大袈裟な準備などしても疲れるし退屈なばかりだから、ひっそりと出ましょうね。被衣を着れば問題なく外に出られると思うのよ。今度、二人で行きましょうか」


「そんな……姫様のように高貴な身分の方がやたらと出歩くものではありませんよ」


「お梅はつまらないことを言うのね」



 冷たく言われると戸惑ってしまう。どうして毅然とした態度でいられないのだろうか。



「私でしたらそれほど構わないはずですから、どうしてもと言うのなら梅の一輪くらいなら取って参ることは可能ですが……」


「それはだめよ」



 私のせめてもの提案に厳しく首を振られてしまう。



「外に手で私の目の届かないところに行くなんてだめに決まっている。それにお前が誰か、何処かの殿方に見染められたらどうするの」


「私など、誰の目にも止まりませんよ」


「お梅は自分のことを知らなすぎるのよ」



 もう一度伸びてきた手を感受してしまう私はもう追い詰められている。



「梅の花のように、いいえそれ以上に紅く可憐なこの唇を一目でも見れば、誰もが奪いたくなるはずよ」


「そんなはずは……」


「きちんと扇で隠しておくのよ、お梅。そうでなければ私以外の者に盗られてしまう。私は自分のものを人に盗られるのは耐えられない性分なの」



 知っているでしょう、と耳元で囁かれる声の、なんと甘く滑らかなことだろうか。

 姫様の目が見られない。見たら魅入ってしまうから。逃れられなくなってしまうから。そんなことは許されない。

 もうとっくに手遅れだったとしても。



「ねえ、お梅。聞いているの。こちらを見なさい。目を逸らすのはやめなさい」



 姫様の手が手荒に私の顎を掴む。それでも私が抵抗していると、頭を抱き込むようにして床にひっくり返されてしまった。

 きゃ、と口から声が漏れる。姫様は私に覆い被さっていて、顔はすぐ近くにある。

 艶やかな御髪が私の顔の横に降っていて、何も通さぬ漆黒の帳のようだった。

 ひたむきに向けられる姫様からの視線。甘い吐息。広がる衣に、鮮明な赤い唇。

 何もかも忘れて身を委ねたくなるような気持ちをなんとか押し留めて、私は子どもを窘めるように笑う。



「全く姫様は、いつまで経っても落ち着きがないんですから」



 その声はもしかすると醜く震えていたのかもしれない。



「もう気づかないふりはやめてしまいなさい」



 すぐに虚言だと見抜かれてしまう。姫様は仕方のないものを見るような目をしていた。



「愚かなふりは似合わないわ。お前は賢いものね」



 けれどそれは呆れたものではなく、愛しい者に向けられる目であるのだから、私は一体どうすれば良いというのだろう。

 こんなの、こんなことは許されない。私は姫様にこんな想いを向けられて良い立場ではないのに。



「いけません。姫様、いつか、素敵な殿方と、結ばれて、殿方と共に……姫様の良さを分かってくれる、良い人が、きっと」


「私に良い人ができてしまったら、一番悲しむのはお前ではないの」



 はっきりとした言葉に涙が滲んだ。どうしてこの人はこんなにも私の心を真っ直ぐに刺すのだろう。



「私は……」



 言葉にならず泣く私の頬を姫様が撫でる。優しい手だった。いつまでもこうしていたいほどに。



「可愛い人」



 今まで生きてきて、こんなにも心を揺さぶられる言葉に出会ったことがない。

 どんなに優雅な喩えをした歌だって、姫様の率直な言葉に敵うものはない。



「お前は私のそばに一生いるのがいいわ」



 傲慢にさえ聞こえるその言葉は私の全てを掬い上げて許してくれる言葉なのだ。

 放っておけば永遠と悩んでしまうであろう私へと贈られる約束の調べ。



「そうね。そしてお前が望むのなら」



 幼さと妖艶さが見事に調和した顔で姫様は笑った。



「私の一生もお梅にあげる」



 はい、と答える以外の選択肢は私にはなかった。

 そうして約束の証のように互いの紅い唇を合わせて一生を誓い合う。

 誰にも垣間見られることのない帳の中で、私達は二人きりだった。

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