誰も知らない世界の偉人伝

酒と猿。

フェデリコ "エル・フラコ" バローニ

1848 〜 1902


イタリア フィレンツェ出身


エルフラコ、イタリア語で痩せっぽちの意味をもつあだ名で呼ばれた彼は、19世紀を代表する思想家であり、絵本作家です。


そして、そのエルフラコと呼ばれた絵本作家の彼が、20世紀の人類史に大きな傷跡を残す、そう世界大戦の引き金となっていきます。



今日、彼の名前を記憶する人はいません。

歴史の闇に葬られた、彼の人生を見てみましょう。



フェデリコはイタリア、フィレンツェの比較的裕福な家庭の3男として産まれました。



彼は、幼少の頃から勉学が得意でした。

一説にはIQが170を超えていたのではないかと言われるほどです。


そんな彼フェデリコに大きな影響を与えたのが、当時、イタリアの子どもたちの中で大人気だった遊び。


costole rotteコストレ・ロッテでした。



コストレロッテ、直訳すると、肋骨折れた。という意味ですが、


このコストレロッテ、実はフェデリコの影響もあり、現在ではその遊びをすること自体が禁じられています。



そういった背景からコストレロッテの細かいルールは現在では不明ではありますが、



民明書房発刊、「世界の怪奇な遊び」によると、コストレロッテは16人体16人で行われ、

ジェンガと組体操を合わせ、

そしてチェスのようなルールで戦う遊びだったされています。


一回のゲームは平均で15日程度。最長では66日に及ぶ熱戦もあったようです。



イタリア ナポリに住むルイージ・ジェンティーレさんが残した日記によると、


1765年から1901年まで、

全イタリア大コストレロッテ超会議

という大会が年に一回、毎年7月に行われていたという記載があります。


公式には一切消された大会ですが、この大会では、通常のコストレロッテとは違い、


本戦では300人対300人という大コストレロッテと呼ばれる規模の戦いが行われていたようです。



尚、当時のフィレンツェでは、このコストレロッテが小学校の必修科目であり、

フェデリコも小学校の頃からコストレ・ロッテの授業が大好きでした。



当時のフィレンツェの子供たちのなりたい職業は


第3位が お花屋さん

第2位が パン屋さん

第1位が プロ・コストレ・ロッテ プレイヤーだっとだったと言われています。




フェデリコも、他の子どもたちと同様、幼少期からコストレロッテに夢中になりましたが、


彼は、10人対16人、20人対30人というような特殊ルールを用いたコストレロッテを好んでいました。



さらに、どうすれば1日で決着がつくのか、逆にどうすれば100日持久戦に持ち込むことが出来るのか。という戦略的なことにも興味を持ってプレーしました。



フェデリコの才能はまたたく間に開花し、フェデリコが学校や地域のコストレロッテ塾で敗北することは皆無になっていきました。


彼の編み出した戦術には

「くるぶし掛け」

「野蛮な肩甲骨」など独創的であり支配的な戦術があります。


圧倒的な才能を武器に、フェデリコは、14歳のときに全イタリア大コストレロッテ超会議に初優勝しました。


その時の決勝戦ではイエローカード62枚。

パープルカード22枚、

なんとレインボーカードが一試合で10枚も出される大乱戦だったとルイージジェンティーレさんの日記に記されています。


これは全イタリア大コストレロッテ超会議史上最多だと言われています。



フェデリコは初優勝から盲腸で不参加だった19歳の時を除いて、出場機会10連覇という大偉業を成し遂げます。


そして、10度目の優勝をした直後、フェデリコ25歳のときに、コストレロッテからの引退と、作家への転身を表明し、

同時にコストレロッテで得た巨万の富をもって、地中海に浮かぶ無人島を買い、


そこに別荘を建て、25歳にして世捨て人として、世間と隔離されて生きることを選びました。





フェデリコがなぜ、そのような選択をしたのかというと、彼は、ただただ新しいコストレロッテの戦術を練りたかったのではないかと言われています。


引退はしたものの、コストレロッテ愛に溢れる彼は、365日、24時間、何者にも邪魔されることなく、コストレロッテの新戦術を編み出していったと言われています。



その新戦術を世間に知らしめたいフェデリコは、匿名で全イタリアコストレロッテ協会に手紙を送ったり、


新聞の折込広告に入れてみたり、


地中海から6万羽の伝書鳩を放ってみたりと、様々な手法を用いましたが、世間に認められることはありませんでした。


これは、当時のイタリアの識字率が非常に低かった事と、フェデリコの考える新戦術が、あまりにも哲学的でありすぎたことが原因だったと言われています。



それに気付いたフェデリコは、識字率の問題を絵にして、


哲学的な問題を、幼児期からの教育において解決する必要があると考え、



フェデリコが30歳のとき、彼は自身でセイコストレ出版という絵本の出版会社を立ち上げました。



そして、フェデリコ33歳のときに発売された絵本、”コストレ・エラ・ミア・アベントゥラ” 邦題で「ぼくと肋骨の冒険」はイタリア国内のみならず、ドイツ、スペインといったヨーロッパ諸国で大ベストセラーとなったのです。



そして、この絵本は現在では世界各国で閲覧のみならず、所持することすら禁じられています。



絵本収集家で著名なイギリスのジョセフ・バクスターによると、この僕と肋骨の冒険はただの冒険譚であるようで、

実は高度な戦術書であるという。


それはまるで、10万人対100万人の超規模の大コストレロッテを想定したものだという。



この僕と肋骨の冒険は、イタリアはもちろん、各国の政府高官が当時戦術指南書として愛読していました。




ですが、これだけでフェデリコが世界大戦を引き起こしたとは、言えません。


本当のフェデリコの罪、それはなんだったのか。

これは、フェデリコが記したもう一つの絵本に関係しています。






それは、フェデリコが絵本作家として生涯最後に作った絵本。


ラ・トゥア・カピターレ・コストレ 邦題で ”あなたの首都に肋骨” です。


この物語のあらすじは、


毎日毎日寝ずに働いた少年が、いつしかお友達の住む国を買えるくらいの巨万の富を得ていました。

だけど、そのお金の使い道がわからない少年が、お友達の国の首都の心臓に埋めといたから、必要になったら使ってね。

という伝言を残し、少年は一人無人島で暮らしました。


というお話です。



この絵本の内容を受けて、”僕と肋骨の冒険”を愛読していた各国の政府高官が、フェデリコ自身の自伝本ではないかと考え、そして、ではそれは、どこの国の首都なんだ。

という考えから、様々な憶測を呼び、世界中で侵略戦争が行われる事になってしまいました。


そうです。このフェデリコが記した”あなたの首都に肋骨”は”エルフラコ資金”や”コストレ埋蔵金”と呼ばれるようになり、今でも世界のどこかの首都の心臓部分に埋められていると信じられています。



もしかしたら、現在、世界中で起きてしまっている戦争もこのコストレ埋蔵金を争ってのものなのかもしれません。



ですが、その事実は誰もしりません。



これは、世界を狂乱に陥れてしまった

フェデリコ"エル・フラコ"バローニ。彼の意図しない未来だったのかもしれません。


ですが、もしかしたらこれは、彼の考えた100年続く大コストレロッテの真っ最中なのかもしれません。


その真意は、彼しか知らない真実です。

  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る