灼熱女郎

「なはは! ようやっと、暖がとれるなぁ!」


 駆けつけた俺たちの前には、燃え盛る家屋と、恍惚の表情を浮かべる芹沢夫人がいた。例のごとく、瓢箪から直接酒を煽っている。口の端から溢れる数滴が胸を濡らし、炎の赤を弾いて光った。


「あ、あぁ! と……止めてくだせぇ!」


 藍色の着物の男が、近藤さんに泣きつく。俺たちが宿の手配に右往左往していたとき、親身になって話を聞いてくれた宿の主人だった。


「どうなされた?」

「どうもなにも! 夜の冷えが我慢ならぬと、芹沢様が火をつけてしまわれて……!」


 主人の半べそからじゃあ、経緯がわからない。俺は一歩進みでる。


「……芹沢、さん」


「新坊じゃねぇか! こっちに来いよォ。お前もあたれ!」


 火の熱と酒のせいで真っ赤になった頰を持ち上げて、芹沢夫人は俺と肩を組む。襦袢すらべろっと崩れていて……俺は慌てて、前を隠す。


「いったい、なにを? 宿場中が、騒ぎを聞きつけています」


「願ったり叶ったりってぇもんだ。騒げ、騒げ! なはははッ!」


 小躍りでもしそうなほど、芹沢夫人は有頂天だ。すでに、彼女は野次馬の好奇の目を浴びている……。


「芹沢殿! 説明してもらいたいッ!」


 爆ぜる音にかき消されないように、近藤さんが声を張る。その目は、火を囲む男どもの中心にいる、芹沢を睨んでいた。


「…………」


 近藤さんの声を間違いなく受け取った芹沢だが、夫人を野放しにしたまま、動かない。


「喚くなよ、勇ィ」


 俺に体重を預けて、芹沢夫人が答える。


「そこの主人が言っていたぜ? この小屋はガタがきていて、近々取り壊しが決まっているってぇな。そして、よければ自由に使ってくれ、と」


「た、確かにそうお伝えしましたが……それは、雨風をしのぐため、という意味で……」


「使えっつったのは、てめぇだろうが。えェっ?」


 殴打のような怒鳴りに、主人は近藤さんの横ですっかり縮こまる。


 きひ、と弧を描く唇を、彼女は舌でなぞる。


 そして、言い放つ。


「勇。総司。おまえたちも来い。このおれ……が許すッ!」


 ……いま、なんと言った。


 彼女が、芹沢鴨?

 この酒気を帯びた、艶人つやびとが?


 芹沢鴨も、女、だというのか……?


「……、芹沢殿」


 近藤さんは、彼女にまっすぐ目を向けた。彼女こそ芹沢鴨であると飲み込んで、口調を均す。


「暖をとるのならば、我々と部屋を使っていただきたい。これはあまりに……非常識だ」


「おいおい。おまえだけは、おれ達に指図はできねぇはずだぞ?」


 彼女、芹沢夫人改め……芹沢さんは、笑顔を引っ込める。


「誰の責任で、おれ達が放り出されたか、忘れたわけじゃぁねぇだろう。元は、勇。おまえ達の不手際が招いたことだろうが」


 近藤さんは言葉を詰まらせると、芹沢さんはさらにまくし立ててくる。


「部屋を使え、だぁ? いまさら、遅い。おれが野宿を申し出たときでなければ、その気遣いは通用しない。いま、厄介ごとを払うためだけに、おれの機嫌を取ろうって魂胆だろうが」


「…………」


「冷えは女に取っての刃だ。この芹沢鴨に対して、不届き千万!」


 などと、芝居の真似事のような口調をしながら、芹沢さんは手套の位置を直す。


「そこを動くなよ、勇」


「は……?」


 芹沢さんは、帯から鉄扇を引き抜くと……腕を振り上げる。


「こいつぁ、躾だ!」


 ひゅうん。風切り音が鳴る。


 炎にぎらっと輝く鉄扇が、近藤さんに飛ぶ……!


 キン、と、刀を抜いた冷たい音と共に、沖田が近藤さんの前に躍り出る。


 沖田は、空中に居合い斬りを繰り出した。


「私には、見えていますよ」


 沖田の一言の直後……近藤さんの横に鉄扇がズンと突き刺さった。


 鉄扇の要には一本の糸が結ばれ、揺れている。あれは……凧糸?


 俺は沖田から一足遅れて、彼女の凶撃のカラクリを解く。


 手套に括った凧糸と鉄扇を固く結んで、投擲する要領で振り回す。自重に遠心力を加え、離れた相手を殴打してから、鉄扇を手元に手繰り寄せる。彼女の手套は、冷えへの対策などではなく、鉄扇と併せた武具だった。


 相手を射程に入れてしまえば、一歩も動かずに敵の骨を打ち砕く、不可視の殴殺戦法である。


 はっ、と、沖田は冷笑を浮かべる。


「手套と鉄扇を繋げている糸さえ断ち切れば、あなたの手元に武器はない。糸で、刀に勝てますか?」


 そして沖田が芹沢さんに、刀を向ける。刀身に照る月光が、彼女の目を刺す。


「小僧。誰に向けて、何をしてやがる?」


「芹沢鴨さん。こんな時だけ気が合いますね。……あなた、誰に向けて、何をしたのですか?」


 刀の位置だけ変えず、沖田が闇の中で臨戦態勢を組む。音もなく、呼吸もなく、筋肉を圧縮させて間合を測っている。


 確かな迫力に反応したのは、今日まで芹沢を名乗っていた男だ。

 滑らかに刀を抜き出してから、頑強な岩を思わせる下段受けの構えを取る。

 ……馴染みがあり、しかし俺より磨き上げられた、神道無念流の構えだ。


「鴨さん、下がってくれ。……危険だ」


 男はいよいよ、彼女を芹沢鴨と呼んだ。奴と彼女とが夫婦である、という決めつけすら、奴らの謀りであったのだ。


 しかし、芹沢さんは俺を押しのけて、守るために立つ男の襟を乱暴に引っ張った。


「下がンのはテメェだ、! おれのケンカに、邪魔立てするんじゃねぇ!」


 男は「錦」と呼ばれる。それが、これまで表向きに芹沢鴨を名乗っていた男の本当の名前だ。


 水戸天狗党、新見錦にいみにしき。暴君・芹沢鴨の右腕として作戦参謀もこなす、理知的な切れ者という噂は……どうやら正しいようだ。


 新見は彼女の剣幕に対しても冷静で、首を横に二回振ってみせた。


「いま、エモノもすぐに取れないだろう。それに……これ以上の騒動に、利はない」


「利害だァ? そんなくっだらねぇモン、糞の役にも立たねぇよ。いま、ここで、あの小僧がおれを馬鹿にしやがる!」


「馬鹿になどしていません。ただ、あなたのことが嫌いなだけです」


 沖田は切っ先で芹沢さんの位置を捕捉しながらも、視線は新見に投げつける。


「近藤先生に攻撃する意思を示したのは、そこの人です。小頭の身を守るための牽制に、文句なんて言わせません」


「言葉を返すが、沖田君。君もいま、芹沢さんに敵意を示している。私の刀は、君の言う牽制だ」


 新見は一つ呼吸を置いて、続ける。


「そして、私に争う意思はない。君が刀を下げてくれさえすれば、こちらもすぐにしまうことができて、芹沢さんを抑えることに専念できる」


「お守りにでもなったつもりか、錦ィ!」


 芹沢さんだけが不満そうに地団駄を踏むが、新見は沖田の切っ先と彼女を結ぶ線の上に割り込んだまま、背中に彼女を隠す。


「この場を混乱させるも、鎮静させるも、君次第だ。沖田君、賢明な判断を期待する」


「……小難しい言葉、並べないでください」


 沖田の刀は、下がらない。新見も構えを固めて、見合っている……。


「総司」


 柄ごと沖田の手を握ったのは……土方だ。


「……歳さん」

「さっさと下ろせ」


 土方が横入りをして、芹沢さんと視線を交錯させる。


「おい、首尾はどうだっ?」


「滞りなく、避難と人払いは完了したよ。歳三くん」


 整然とした答えは、山南さんのものだった。


「幸い、隣接する宿とは離れているから、飛び火はしないだろう。念を入れて、井上さんの指揮で桶と布をかき集めてもらっています。じきに……」


 と、言葉の途中で、試衛館一門が揃う。抱え切れるだけの桶と、使わなくなった麻布やら布団やらとともに、源さん、平助、左之助がやってくる。


 そして、近藤さんと並び立つ。皆、ただ一点……芹沢さんを見つめている。


「歳三。おまえだったら乱入でもしてくるかと思っていたが……チマチマと火消しの真似事かよ」


 芹沢さんが、挑発を飛ばす。


「あぁ。あとはこの、ちっこい猪の熱を冷ますだけだ」


 土方は、冗句で怒気を隠す。沖田は未だ、押さえつけてくる土方に抵抗している……。


「安心しろよ、芹沢鴨」


 土方が続ける。


「オレたちは全員、大将に弓を引かれてんだ。やり合うなら場ァ整えて、徹底的にやるぜ。どちらかの頭を落っことすまで、な」


「……く、ひ……はははッ!」


 警戒心と敵意の混じった視線を浴びていながら……彼女は、笑っている。


「気に入ったぜ。命くらい賭けねぇと、張り合いがねぇからなァ」


 心の底から浮かぶ笑顔が、炎の色に輝く。徹頭徹尾、常軌を逸した彼女は猟奇的で、それでも……いや。

 だからこそ、美しかった。


「…………」


 パチン。わざとらしく音を鳴らして、ようやく沖田が刀を鞘に戻す。同時に新見は構えを解いた。


「新坊」


 渦中のど真ん中にいた芹沢さんは……頭に上っていた血も冷めてしまったようで、気怠げに俺を呼ぶ。


「鉄扇、持ってこい」


「……は、はい」


 近藤さんにだけは目配せをして、首肯をもらってから、俺は鉄扇を拾い上げた。


 その鉄扇は、片手で持つには歯を食いしばらなければいけず、脇差よりずっと重い。この重量がそのまま殺傷能力に変換されるのだから……ぞっとする。


「おそい」


 背中に芹沢さんがいた。たじろぐ俺に目を細めてから、鉄扇をヒョイとかっぱらう。


「勇。部屋ぁ寄越すってことに、二言はねぇな?」


「……はい。どうか、お使いください」


 言質を取った芹沢さんは、新見たちを引き連れて、俺たちの間を割って進んでいく。


 後に残ったのは炭臭さと、彼女の酒の香りだけだった。

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