第37話 サキュバスの猛攻


 俺に馬乗りになりながら、リリカは明言した。


「私がサキュバスだよ」


 サキュバスらしくないサキュバスが喜律さん。

 サキュバスらしい人間がリリカ。

 この数週間の騒動の苗床ともいえる理不尽な大前提。

 それが崩壊した。

 サキュバスらしいリリカのサキュバス宣言は驚くほど俺を納得させた。これまで俺をさんざん誘惑してきた煽情的な外見も仕草も、異常なほどの性欲の強さも、彼女がサキュバスだとすればすべてが辻褄が通る。なにより、最初から最後まで天才エクソシストは言っていた。朝久場リリカはほぼ確実にサキュバスである、と。しつこいほど徹底的にそう言っていた。


「うーん、ナリピーとってもおいしそう。ちゃんと香水をつけてきてくれるところも好き。あれね、アタシが男を食べるときの調味料なの。あの匂いを嗅ぐだけでもうヨダレが止まらなくて!」


 ようやく袖で口もとを拭いたが、すぐにあふれてしまう。零れた雫が俺の服に落ちる。


「だから昨日は危なかった。理性を失いかけちゃったからね」


 夜の公園で異常な興奮を見せたリリカ。俺はおふざけだと思っていたが、あれはサキュバスの本性が垣間見えた瞬間だったのか。


「でも、今はもう大丈夫。エクソシストを追っ払ったんだ。ずっとお預けを喰らっていた最高のディナーを遠慮なく頬張れる。最高の一日になりそう! アハハハハ!」


 頬に手を当てて狂ったように笑う。

 その瞬間、背中から黒い翼が生えてきた。羽毛を持つ鳥の羽ではなく、蝙蝠のような飛膜を持つ羽。禍々しい色、刺々しい先端。悪魔の羽だ。


 ここまで見せられて確信しないわけがない。

 魅惑の肉体を持ち、多くの男と夜を過ごし、悪魔の羽をはやす女。

 朝久場リリカはサキュバスだった。

 しかしそうすると、納得がいかないところがある。


「ちょ、ちょっと待てよ! じゃあなんだ? サキュバスは二人いたのか?」


 俺が天才エクソシストを信用できなかった理由は、たった一人の素直な子が初デートの別れ際に放ったひとこと。



『実は私、サキュバスなんです』



 その言葉を信じていたからこそ、土志田さんの意見を一蹴していたわけだ。リリカがどんなに怪しくても疑いの目を向けてこなかった。


「確か土志田さんは言っていた。この学校にサキュバスは一人しかいないと。どうなってんだよ。喜律さんは何者なんだ」


 押し倒された体勢のまま尋ねる。

 リリカは力強く張っていた羽を半分に畳んで首をかしげた。


「それが分からないんだよねー。いや、キリっちゃんがサキュバスじゃないことはわかるよ。同族特有の匂いが感じられないから。でも、だとしたら、どうして自分をサキュバスだと勘違いしていたのか。意味わかんない」

「喜律さんはサキュバスじゃない?」

「間違いなく」


 俺は頭を抱えた。

 なんだよ。じゃあ最初から世の理通りだったってことかよ。

 サキュバスらしいサキュバスのリリカ。

 サキュバスらしくない人間の喜律さん。

 サキュバスらしいリリカをサキュバスだと疑うエクソシスト。

 すべて正常だったんだ。

 ボタンのかけ間違いが起きたのは、やはり喜律さんのサキュバス宣言。アレがすべてを狂わせた。

 喜律さんはなぜあんなことを言ったんだ? 何を勘違いしていたんだ?

 その答えは、たぶん喜律さんにしかわからない。


「さて、無駄話はこのくらいでいいかな」

「うっ!」


 リリカがいやらしい手つきで俺の股間を触った。ズボン越しなのに直接触れられたような快感に襲われる。これがサキュバスの力なのか? 男を虜にするサキュバスの妖力。


 そうだ。今はこれまでの経緯を精査している場合じゃない。

 命の危機。このままだとリリカに喰われてしまう。死ぬまで精液を搾取され続けてしまう。


 死ぬわけにはいかない。

 せっかく喜律さんと正式にお付き合いができるようになったんだ。しかも人間ってことまで発覚した。こんなところで終われない。

 生き残るためにまずすべきことは、彼女から逃げること。今の体勢は性行為の体位で言うところの騎乗位。すぐにでも行為に入れる状況。


 抜け出さないと! 床につけた手で踏ん張ってリリカの太ももに抑えつけられている下半身を思いっきり引っ張り出そうとしたが、びくともしない。


「離れろ!」


 ならばと上半身を起こしてリリカの腹部を押すが、これも無駄。

 まるで巨大な岩と対峙している気分になった。


「アハハ! 人間ごときがサキュバスに勝てるわけないじゃーん」


 肩を軽く突かれただけで跳ね返され、ストッパーが外れたリクライニングシートのように上半身が地面に落ちる。後頭部を床に打ちつけ視界がぐらつく。


「安心してよ。死ぬ間際までこの世のどんな幸福をも上回る快楽を味わえるんだから。絶頂の中で死ねるなんてハッピーだと思わない?」

「いやだ! 喜律さんを残して死ぬわけにはいかない!」

「かっこいいね。下の鼻はこんなに期待しちゃってるのに」


 後ろ手で俺の股間を撫でるリリカ。なんて卑しい顔。エロ漫画でよく見るサキュバスみたいだ。あ、そのものか。

 下腹部から累積的に押し寄せるオーガニズムの予兆。これでまだ前戯の前戯。ズボンすら脱いでいない。もし本当に行為に及んだらどうなってしまうのか。考えるだけで恐ろしい。


「サキュバスの妖力には屈しないぞ!」


 フラグ回収三秒前のくっころヒロインみたいに強がってみたものの、どうしたらいいんだ?

 身動きは取れないし、性的快感には逆らえない。

 諦めるしかないのか?

 一瞬よぎったその思考を、俺は顔を振って否定した。


(どんな時でもあきらめない! 喜律さんからもらった射石飲羽の精神は潰えていない!)


 快楽に侵食されつつある脳。そのうちまだ被害を受けていない部分をフル稼働させて考える。


 何か手はないか? なんでもいい! 時間稼ぎでもなんでも、出来ることは何でもやるんだ!

 熱く、しかし冷静に視界に映るあらゆる可能性を模索していると、なぜか、一週間前のクレーンゲームの記憶が蘇ってきた。


 そういえばあのときも絶体絶命の危機だったな。

 難攻不落の巨大テディベアを落とさないとカップル(仮)の解散。喜律さんと別れることをこの世の終末と捉えていた俺にとっては現状と同じくらいの重要な局面だった。

 結局テディベアは手に入らなかったけど、結果として喜律さんとの仲を深める決定的なシーンだった。懐かしい。


 しかしなぜ今そんな場面がよぎったのだろう?


 そう思いながら、腹部にまたがるリリカを見て、気づく。


(あれ? あのときのテディベアと同じ体勢じゃね?)


 彼女は俺の股間をいじるために両手を後ろにまわしている。人体の構造上、後ろに手を回すと自然と胸が張り、体幹が後ろに傾く。そのとき重心のバランスをとるために、視線を少し下に向ける形で頭を前に突き出すようになる。

 つまり、前方へのバランスは頭部が担っているんだ。どんなに強い相手でも急所を突けば倒せる。あのとき学んだはずだ。


「ほらほら。はやく楽になっちゃえよ」

「うぅ……」


 リリカの手の動きが激しくなり、さらに快感が増す。

 もう一刻の猶予もない。ほかに選択肢はない。やるしかない。

 覚悟を決めた俺は一度、全身の力を緩めた。腹筋と右手にすべての力を集中させるために。


 そして次の瞬間、腹部に集めた力を爆発させて腹筋の要領で上半身を起こし、


「オラァ!」


 勢いのままリリカの額に掌底を打った。相手を人間と思わない全力の掌底だ。


「ッ!」


 上半身を起こしたことで土台となっていた腹部が坂道になったこともアシストして、リリカの体が後ろに大きく傾いた。倒れないまでも、手を地面に突き、両足で踏ん張る形になる。


 結果として、左右から足で挟み込む形で俺の体を固定していた力が消えた。


 その瞬間を見逃さず足を引き、素早く立ち上がって距離を取る。

 脱出成功だ。

  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る