第9話 神様、女神様

 メタバース空間での時間の進み方は現実よりも8倍ほど遅い。現実世界で1日が過ぎた頃、メタバースでは八日の月日が流れていた。飲まず食わずの状態でも生きていけるのがバーチャルの世界であるが、八日間何もすることがなく、ただじっとしている状況はまさに地獄であった。その場で軽く運動しようにもリアルの体のように爽快感はない。他にできることといえば、横になるか座るくらいである。このままでは発狂してしまうのではないかと思った時だった。クツマに異変が起こった。突然眩暈が襲ったかと思ったら、病室のベッドで寝ている自分に気が付いたのだ。

「おっ、おぉ~! オレ、助かったのか?」

 クツマが声を出すと、近くにいたタカヤナギが「しーっ」と人差し指を自分の口元に添えた。クツマは上半身を起こして窓の方を見た。まだ外は暗く、夜中だということが分かった。

「えっ、タカヤナギさん? まさか助けに来てくれたんですか?」

「まあ、そんなところだね」

「まじっすか、よくここまで来れましたね?」

「救急入口で守衛のじいさんにイワタの知り合いだって言えば簡単に入れるんだよ。それより、すぐにアラキさんたちが飛んでくると思うから、急いで逃げよう」

 タカヤナギはパジャマ姿のクツマを病室から連れ出した。しかし、何日も寝たきりだったクツマの足はうまく動かず、タカヤナギに肩を借りながらの逃亡となった。

「タカヤナギさん、助かりました……。でも、どうしてオレを……?」

 あれは、タカヤナギがキヨカワエミカを連れ出すときのことだ。クツマのことを見限ったかのようなセリフを残してタカヤナギは去って行ったはずだった。それが今、こうしてクツマを助け出しに来た背景には、何らかの心境の変化があったのだろうとクツマは思った。

「すべて私のせいだと気が付いたんだよ……」

「い、いや、そんなことは……。だってオレ、仕事放り出してバーチャブレイン社と契約して……」

「そのことはもういいんだよ。それも私が招いたことだ。キヨカワくんから話も聞いた」

 タカヤナギはキヨカワエミカに最初の仕事を振って以来、不動産管理システムで失踪してしまうまでの間、いくつかの仕事を任せてきたという。しかし、もともとプログラマーとしての経験がほとんどない彼女は、うまく仕事をこなせなかったのだ。それでも、仕事をくれるタカヤナギの役に立とうと彼女は頑張ったが、ついに自分に自信がなくなった。そんなとき、仕事のできない彼女でも高い報酬で雇ってくれるというバーチャブレイン社の甘い罠に引っ掛かったのだ。違約金で脅されつつ、男性相手の仕事をさせられた後は、何度も死にたくなったらしいが、その度に妙な薬を飲まされて記憶や感情を麻痺させられたという。

「クツマくんも私から無茶ぶりされて困ることもあっただろう? 気付いてやれなくて申し訳ない……」

「い、いえ……」

 誰もいない深夜の病院でパタパタとクツマの履いたスリッパの音だけが響く。何があったのだろうと看護師たちが宿直室から出て様子を見に来たが、かろうじて見つかることなく二人は病院の外までたどり着いた。病院のロータリーにはすでにタクシーがスタンバイされており、この脱出劇はすべてタカヤナギが計画したものだということをクツマは理解した。

 ニ十分ほど走り、二人はタクシーから降りると、タカヤナギは都内郊外にある一軒家の自宅へとクツマを案内した。クツマのマンションはイワタたちに住所がバレているからと、タカヤナギが自らの自宅へとかくまってやると言うのだ。クツマは恐縮しながらタカヤナギの家にあがると、お世辞にも綺麗とは言えない生活臭のあるダイニングに案内された。キッチンの流し台には食べかけのカップ麺が置かれており、ダイニングテーブルには、いつ買ってきたかわからない菓子パンの入ったコンビニ袋が放置されていた。しかし、その様子を見たクツマはどこか違和感を感じていた。玄関に家族の靴ひとつなかったこともそうだが、どこを見てもタカヤナギと一緒に暮らす家族の形跡がないのだ。

「あの、タカヤナギさんって、この一軒家で一人暮らししてるんですか?」

 クツマがたずねると、タカヤナギはキッチンで湯を沸かしながらその通りだと答えた。しかしクツマは、以前にタカヤナギが嬉しそうに娘のことを話していた記憶があった。そのことをたずねると、それは二十年以上昔の話だと言う。妻が赤子だった娘を連れてこの家を出て行ったきり会っていないそうだ。聞いてはいけないことを聞いてしまったと思って、クツマは話しをそらした。

「あぁ……、そうそう、キヨカワさんはあれからどうなりました?」

「うん、相当に衰弱していてね……、まだ当分退院できないんだ。薬の影響で記憶も飛び飛びでね……。実は意識が戻ったのも今日の夕方なんだよ」

「でもよかったです……。キヨカワさん意識が戻ったんですね」

 タカヤナギは散らかったダイニングテーブルの上を片付けて、淹れ立てのコーヒーを無造作に二つ置くと、クツマの向かいに座った。

「キヨカワくんからメタバースでの話を聞いたとき、私は彼女の心に大きな傷を負わせてしまったことにショックを受けてねぇ……。しかも、彼女と同じように違約金をちらつかされて、メタバースを抜けたくても抜けられなくて苦しんでいる人がまだたくさんいるらしいんだよ。クツマくん、キミも同じだろ? だから、助け出したんだよ……。キミの違約金は私が工面するから、今までのこともすべて許してほしいんだ……」

 思いがけないタカヤナギの申し入れに、クツマは不覚にも涙を流しそうになった。

「タカヤナギさん、ありがとう。でも目先の金に目がくらんだ自分が悪いんです……。それより、サトウさんですよ。彼を助けてあげたいんです!」

 クツマはメタバースでサトウから聞いたイワタの悪だくみや、それを阻止しようとしたサトウがまだ独房に閉じ込められたままだということをタカヤナギに伝えた。じっと話を聞いていたタカヤナギは、手に持っていたコーヒーカップをテーブルに置いた。そして、神妙な面持ちで腕を組んで考え事を始めた。キヨカワエミカを連れ出した日のことを思い出そうとしていたのだ。タカヤナギの記憶では、最初に45部屋ほどある病室を見て回ったが、ネームプレートにサトウの文字はなかった。ということは、衰弱しきった体の状態の悪い若者ばかりを収容する5つの病室のいづれかに、サトウがいたということになる。すると、タカヤナギは突然椅子から立ち上がった。

「サトウくんはそうとう衰弱しているはずだ。すぐに連れ出そう!」

 意気込んで身支度を始めたタカヤナギを、クツマは慌てて引き留めた。時刻は深夜3時、タカヤナギの顔色も決してよくなかったからだ。それに、クツマがタカヤナギに連れ出されたせいで、現場はパニックになっているはずだ。そこへタカヤナギが再び侵入しようものなら、アラキたちに容易に制止されてしまうだろう。クツマは、明日二人で乗り込みましょうと伝えて、とりあえずのところはタカヤナギをなだめた。


 次の日、クツマが目を覚ましたのは朝の8時だった。ボーっとしながら階段を降り、一階のリビングルームをのぞいたがタカヤナギはいなかった。ダイニングルームを見ても、昨日の状態のままコーヒーカップが二つテーブルに置かれているだけだった。まだ寝ているのかと、タカヤナギの寝室を覗いたが誰もいなかった。まさかと思い玄関を見ると、タカヤナギの履いていた靴がなくなっていた。先を越されたと、クツマは急いで身支度をして病院へ行こうとしたが、財布も何も持っていないことに気が付いた。

 「タクシーでニ十分のところを歩いて行ったら、どんだけかかるんだろうな……」

 仕方なくクツマは、パジャマのまま歩いて東京中央病院へと向かった。


 タカヤナギが病院へ着いたのは朝の8時。クツマを自宅へれてきたのが深夜3時だったから、それほど睡眠はとっていないことになる。しかし、眠いなどと言っていられなかった。こうすることがタカヤナギにとって、キヨカワエミカへの罪滅ぼしだと思っていたからだ。

 先日と同様にタカヤナギは、救急入口から二号病棟へ潜りこんだ。運よく、その日も誰とも遭遇することもなく、以前に見て回った545号室まですんなりとたどり着いた。タカヤナギは、ほっと胸をなでおろした。

 ここから先にある5つの部屋が衰弱した患者の眠る病室になるが、549号室はキヨカワエミカの病室だったから誰もいないはずだ。つまり、545号室から548号室までの4つの部屋のどれかにサトウがいることになる。タカヤナギはこの前と同じように辺りを見回しつつ、そっとドアを開けて病室に忍び込んだ。やはりそこには衰弱した若者がVRゴーグルをかぶせられて眠っていた。

 ところでタカヤナギは、サトウと二度ほど面識があった。しかし、それぞれ一時間程度の打ち合わせをしただけで、それほどよく顔を覚えているわけではなかった。ただ、ひょろっとして人の良さそうな顔をした男、程度の記憶である。しかも、VRゴーグルで目と鼻が覆われてしまっているため、なおさらサトウかどうかの判別は難しかった。そこでタカヤナギは思いついた。VRゴーグルを外しさえすればメタバースからログアウトすることができるのなら、いっそのこと、ここにいる4人全員分のVRゴーグルを外してやったらどうだろうと。4人のうちどれかが必ずサトウなのだから、顔を確認する手間も省ける。それに、永い眠りから覚めた時、自分が今にも死にそうな状況に置かれていると知れば、メタバースでの活動を考え直す契機にもなるはずだ。

 タカヤナギはそっと患者のベッドに近づいた。そして、ゆっくりと息を凝らしてVRゴーグルに手をかけた時だった。病室のドアが勢いよく開いた。

「ほらー、やっぱりタカヤナギさんだ!」

 そこにいたのはアラキだった。タカヤナギは驚いてVRゴーグルから手を離した。

「昨晩クツマさんが逃げたと思ったら、まさか、あなたが逃がしたんじゃないでしょうね?」

「し、知りませんよ……、私はサトウくんを救いたいと思ってここへ来たんです」

「サトウさんを救う? 彼が自ら契約したのにですか?」

「サトウくんはメタバースから手を引きたいと言っているんですよ」

「私は聞いてないですけど……、だったらタカヤナギさん、3億払えますか? 彼の年俸と同じ金額を違約金として払っていただきますよ」

「さ、3億? そ、そんなのは違法だ……」

「じゃあ裁判でも何でも起こせばいいですよ。それにサトウさんはここにはもういないですから」

「それは、どういう意味ですか?」

「サトウさんは3カ月前に亡くなっています。親族の方が来られて遺体を引き取りに来ました」

「そんなバカな!」

「嘘をついても仕方ないですし……。まあ、ウチとしては死んでくれた方がコスト的には助かりますけどね」

「なんてこと言うんだ!」

「とにかくサトウさんはここにはいません。ほら、このとおり、死亡証明書です。サトウシンゴという方は、この病院のどこにもいない。なんなら都内の病院全部探しますか? あっははは!」

 アラキは機密事項というラベルの貼られたファイルを開いてサトウの死亡証明書をタカヤナギに見せた。タカヤナギは食い入るようにファイルを見たが、書類に偽りはなかった。アラキはファイルをタカヤナギから取り上げると、勢いよく閉じて、これ以上邪魔をすると今すぐ警察を呼ぶと警告を発した。しかし、タカヤナギは動じなかった。

「警察なんか呼んだら、あなたがた自身の首を絞めるだけですよ」

 アラキも同じくタカヤナギの言葉など意にも介さず、外れかけていたVRゴーグルを直して、タカヤナギを病室から追い払った。タカヤナギは仕方なしに、いったん引き下がろうとすると、去り際にアラキは一枚のA4用紙をタカヤナギに手渡した。それはキヨカワエミカとクツマの契約終了通知と、違約金の請求書だった。

「こんな大金……、ふざけてる!」

 金額を見たタカヤナギは肝をつぶした。一人当たり二千万円で、合計四千万円と書かれていたのだ。違約金を自分が払うなどと言ったものの、その額までは把握していなかったのだ。険しい顔をしたタカヤナギを見てアラキは笑いながら言った。

「タカヤナギさん、払ってくれるっておっしゃいましたよねぇ」

 するとタカヤナギは、ここで動じたら違約金でがんじがらめになっている若者たちと同じだと思い、その場で請求書をくしゃくしゃに丸めて床に投げ捨てた。

「な、なにをするんですか、逃げるつもりですか?」

「は、ははは、そうですね、破産宣告でもしましょうかね」

 タカヤナギはそう言って病室をあとにした。

 時刻は午前9時を回ろうとしていた。まもなく一般病棟は面会可能時刻になる。いつも見舞いは夕方だったが、今日だけは朝からキヨカワエミカの病室へ向かおうとタカヤナギは決めた。久しぶりに天気も良く、廊下の窓から清々しい朝の陽ざしが差し込んでいたからだ。病室のドアをコンコンとノックをして病室に入ると、エミカは目を閉じて眠っていた。心なしか昨日よりも顔色が良くなっている気がした。

「キヨカワくん、おはよう、今日は良い天気みたいだよ」

 タカヤナギは小さな声で寝ているエミカに語り掛けると、そのまま病室の窓際まで歩いて行ってカーテンを開けようとした。すると、寝ているかと思ったエミカはタカヤナギに「開けないで」と小さくか細い声で言った。タカヤナギは驚いてカーテンから手を離した。

「キヨカワくん、起きていたのか」

 不可解に思ったタカヤナギが理由をたずねた。すると、目を閉じると見知らぬ人の姿が見える時があるとエミカは言うのだ。そして、その人物をもう一度見たいから、部屋を明るくしないでほしいと言う。タカヤナギが、その人物とは誰なのかたずねるが、誰なのかは判然とせず、ただ暗い場所に若い男が一人でいる様子が見えるというのだ。それを聞いたタカヤナギは先日の医師の言葉を思い出して、エミカに言った。

「この前、お医者さんが言っていたよ。まだしばらくは意識が朦朧とすることがあるって。だから、そういう夢とも現実ともつかない映像が不意に見えることもあるかもしれないね……。太陽の光を入れたほうが体調も良くなると思うよ」

 無用な心配を抱かせたくないと思ってそう言ったつもりのタカヤナギだったが、エミカはどうしても見たいと言って聞かなかった。精神に異常をきたしたのではないかと心配したタカヤナギは、しばらく病室で付き添うことにした。ベッドの脇においてあったパイプ椅子に座ったタカヤナギは、睡眠不足のせいかそのまま居眠りを始めた。

 小一時間ほど過ぎると、病室をノックする音がしてタカヤナギは目を覚ました。またアラキたちが違約金を盾に脅しに来たのかと身構えていると、病室のドアを開けたのはパジャマ姿のクツマだった。

「タカヤナギさん、置いていくなんて酷いですよ。ここまで歩いて来ましたよ……」

「やあ、申し訳ない。キミにはゆっくり休んでほしかったんだよ」

 タカヤナギは自分が座っていた椅子にクツマを座らせ、ここまで歩いてきた労をねぎらった。そして、サトウが三カ月前に亡くなり、既にこの病院にはいないことをクツマに伝えた。しかし、その話を聞いたクツマは、絶対にありえないと反論した。なぜならクツマは、メタバースで何度もサトウと会っており、しかもそれは、つい昨日の出来事だったからだ。三カ月前の死亡証明書など捏造にちがいないと、クツマがベッド脇であれやこれやとタカヤナギとやりあっていると、その声でエミカが目を覚ました。

「おぉ、キヨカワくん、すまない、私たちがうるさくしてるから起こしてしまったね……」

 タカヤナギがそう言うと、エミカはベッドの脇で座っているクツマに気が付いた。クツマは、どことなく気まずい思いで彼女に話しかけた。

「お久しぶりです。クツマです……、覚えてますか……」

「えーと……、すみません、ちょっと記憶がなくて……」

 エミカはつい先日メタバースでクーロンとしてクツマと会ったことを覚えていなようだ。しかし、その時のことを思い出させるのは精神的に良くないと思い、クツマは軽くうなづいて、それ以上何も話すことはなかった。

「それよりキヨカワくん、謎の男の人は見えたかい?」

「また見えました……。でも、その男の人は泣いているみたいで……。どんな状況なのか、よくわからないんです……」

 二人の会話を聞いていたクツマが口をはさんだ。

「えっ、タカヤナギさん、それって何の話ですか?」

 タカヤナギが簡単に説明をすると、エミカが見たと言う謎の人物にクツマは興味を持った。そこでエミカが目を閉じると見えてくる謎の男の様子を詳しく話し出すと、クツマの顔はみるみると青ざめていった。様子がおかしくなったクツマになにか思い当たることがあるのかとタカヤナギがたずねると、その男こそがサトウだとクツマは二人に告げたのだ。

「タカヤナギさん、この前話しましたよね。その人、間違いなく独房に閉じ込められたサトウさんです。僕も閉じ込められたんですけど、タカヤナギさんに助けられたんです。サトウさんも早く助けないと……」

 クツマの話を聞いたエミカは、悲しそうな顔をしてクツマに言った。

「だから、泣いていたんですね……」

 しかし、タカヤナギは腑に落ちなかった。

「でもおかしいよね。サトウくんは三カ月前に亡くなったってアラキさんが言っていたし、死亡証明書も見た……。まさか、幽霊じゃあるまいし……、助けようがないよ……」

 タカヤナギの怪訝そうな顔を横目に、死亡証明書は捏造だと信じて疑わないクツマは、もう一度エミカに詳しい様子をたずねた。

「キヨカワさん、サトウさんは何か言ってました?」

「いえ、ただ泣いているだけで……」

「どこかに出口は見えませんか?」

「いえ、何も……」

 どうにかしてクツマはサトウを脱出させたいと思ったが、これといった妙案も出てこないまま時間は過ぎていった。

「せめて励ましてあげることでもできたら……」

 クツマがそう言うと、突然エミカが小さな声でつぶやいた。

「あの……、このサトウさんって人、私の声が聞こえるみたい……」

 クツマは驚いてタカヤナギと顔を見合わせた。

「もう少し、サトウさんと話してみます……」

 そう言ってエミカは目を閉じて優しく微笑んだ。


 暗くじめじめとしたデジタルの独房で、サトウは何日も孤独な時間を過ごしていた。時間の感覚もなく、無限に続く時の中で、眠ることさえもできず、ただじっとしていることしかできなかった。拷問というのは必ずしも肉体の痛みは必要ないのである。長年プログラマーとしてIT業界の最先端で働いてきた無神論者のサトウだったが、いつのまにか涙を流しながら神に助けを求めていた。「神様、助けてください」何度そう呟いたことだろう。そんなとき、薄汚れたコンクリートの天井から何者かの声が聞こえた。耳を澄まさなければ聞こえない程の小さな女性の声だった。

「か、神様?」

 サトウが問いかけても声の主からの返事はなかったが、神様が救いに来てくれたに違いないと思い、何度も天井に向かって叫んだ。

「神様お願いです、ここから出してください……、お願いです……」

 サトウは涙を流しながら何度も懇願した。しばらくすると、徐々に女性の声ははっきりと聞こえてくるのだった。

「あなたには帰る場所がありますよ」

「神様、どういうことですか?」

「帰る日が来ました……」

 サトウは女性の言葉を聞いて思い当たることがあった。眠ることさえもできないはずの独房で、ただじっとしている時、ふと光り輝く世界の夢を見たのだ。その光の世界の中心あたりに思いをはせると、その場所こそが本来の故郷、いつか帰る場所であることがわかったのだ。寂しい独房から出て、早くそこへ帰りたい。でも帰れない。そんな夢だった。そして、そのことを長らく忘れかけていたサトウだったが、今なら夢で見た光の世界に帰ることができそうな気がして、天に向かって手を伸ばした。すると、その手は光となり、独房の天井を突き抜けてぐんぐんと天高く伸びていった。その光の手の行く先には、幼い頃に亡くなった両親の姿があった。いや、両親だけじゃなかった。亡くなった祖父や祖母も、みんなが待っていたのだ。

「神様、思い出しました。ずっと前に僕はこの世界に来て、もう十分に遊んだ。だから、もう帰ってもいいんですね……」

「はい、あなたはいつでも帰ることができます」

「でも神様……、あの、もしかして、ここへ帰ったらもう戻れないですか……?」

「えぇ、戻れませんね……」

「じゃあ、少し用事を済ませてから帰ります……」

 そう言ってサトウは、独房から姿を消した。

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