Episode08:狂酔

七色の燐光プリズナーの噂からひと月が経とうとしていた。不気味なほど穏やかな時間に苛立ちを見せるのはタチヤナだった。


「あたしが見た見慣れない顔はひとつよ」

「カリカリするな、俺にニカを疑えってのか。貴族出の坊ちゃんだぜ、金にもスリルにも事欠かない」

「……本当のこと言っただけよ」


 今宵の彼女はやけに盃を重ね過ぎている。開店間もなくやって来て、客を引いたと思いきや、一刻もせずに舞戻ってから不機嫌を募らせてこの調子だった。酒に強い性分を知っている上で注文に応えていたが、何度目かのおかわりにユーリィは首を横に振った。


「らしくもない、仕事に集中できないなら帰ってベッドを温めたらどうだ」


 最近のタチヤナは、固定客だけを相手していたことをユーリィは思い出した。今夜の相手は、珍しく新規に声を掛けられていたはずだ。そこまで思い至って、思案を意識的に散らす。イリスの一件以来他者に目を走らせるあまり、余分な情報を拾い過ぎていることに息が漏れた。そんなことはどうだっていい。唇だけでぼやいて、客の少なくなった店の中を一瞥する。

 ミルキィウェイの閉店時間はいつも気まぐれだった。客のいる限りは大抵開けていたし、客が少ない日はそう粘らない。今夜もじきに幕引きだ、とユーリィは判断していた。


「帰りたくない」。それはまるで空言のような響きで、声の主を探すように泳いだユーリィの視線に紅いルージュだけで微笑う彼女は、ひどく新鮮に飛び込んで来る。そんな感想を抱いた自身の狼狽えを必死に殺した。

 ユーリィが次の句を投げ掛ける前に、タチヤナは明朗に言葉を紡いだ。


「おやすみのいい子にホットミルクなら出せるでしょう」

「……飲んだら閉める」

 

 材料を取るためにカウンターの死角へ屈んだユーリィは、自身の言葉を反芻して気を落ち着かせる。再び立ち上がる頃にはいつも通りの平静のつもりで、鍋に眼差しを注いだ。

 視界の外で、タチヤナが動く気配を感じる。空いた席のグラスをカウンターへ乗せ、再び席に着く。


「あなたはどんな風に人を好きになるの」

「寝物語には度が強い話だな」

「こうして観ていて違和感がなんなのかはすぐわかった。女を前にして欲を滲ませない男は少ないわ。だれも愛せないのか、女が嫌いなのか。どっちなの?」


 鍋の湯面がふつふつと音を立てる。火から下ろして蜂蜜をひと掬い加えて混ぜる。ユーリィは顔を上げなかった。


「どちらも」


 耐熱グラスを差し出す際に、意識的にまっすぐに彼女の瞳を見つめて答える。そんな揺さ振りに応じるつもりはないと告げるように。

 真紅の瞳がじっと自身を捉えて動かなかったことを知るのはそれからだ。

 ゆっくりと瞬きをして、タチヤナは微笑う。


「そんなセリフが吐けるのは、本気で愛した相手が居たからよ」

「いくら客が居ないからって、そんな話には乗らない。店主のことを嗅ぎ回るなよ」


 彼女の強い眼差しから逃れるように、気付けば静まり返って人の居ない店内へ視線を逸らしたユーリィは、内心苦虫を噛み潰す思いで水仕事に手を付ける。精神の柔らかな部分に触れられて良い思いをする人間はそう居ないだろう。いや、硬い部分だろうか。

 タチヤナは気にする素振りを微塵も見せずにたっぷりと一杯に時間を費やす。わずかに見えた気がした寂寥感も勘違いだったのかも知れない。そう感じさせる程楽しそうに、上機嫌を取り戻していた。

 グラスが空いても席を立つ素振りを見せない。煙草に火を点ける様子を一瞥して、ユーリィは彼女のグラスを下げ、無言で洗い片した。


「機嫌が直ったなら帰れよ」

「女の扱い方を知らないのね、温めようかって訊くものよ、こういう時は」

 

 ユーリィの眉がピクリと動く。この女がどこまで冗談をほざくのかが判断できずに、うんざりとした表情を露骨に出しながら、とうとうカウンターの灯を落とした。

 

「表に出ろよ、店仕舞いの時間だ」


 大袈裟に肩を竦めてみせたタチヤナは、革のトレンチを羽織ってようやく席を立ち上がる。店内の灯も続けて落とし、ラジエータの電源を確認したら、ユーリィは彼女の背を押して地下扉の施錠をした。ヒールが登る足音に引っ張られるように心臓が跳ねた気がした。


「試してみるか?」


 口にしてみて、それは自分への確認のようだとユーリィは気づく。なぜ自身がその判断をしたのかもわからない。いや、考えたくないのか。

 先に地上へ立ったタチヤナの影が振り返る。


「長い夜にして頂戴」


 わずかに届く街の灯を背に、薄闇の中彼女の唇は微笑ったように見えた。

 試すだけなら訳はない。無意識な深呼吸を零して凍てついた風を頬へ受ける頃、ユーリィの心音は凪のように落ち着く。

 彼女を伴って店の裏に位置するVIPルームの鍵を開けた。この店にもお忍びで遊びに来る貴族は居たもので、そうした客が紅眼ロゼリアと興じるために欲しがった場所がこれに当たる。

 とはいえ、私情でこの部屋を使うのは初めてはなかった。シュエと別れた後自信は日を追って回復して行き、タチヤナが想像するほど異性と身体を重ねる機会がなかった訳でもない。店に関わりのある人間を相手にはして来なかった、それだけのことだった。

 部屋の灯を燈すより先に、今入って来た扉へ彼女を押さえて口付ける。首筋から鎖骨へ、肌は心臓へ近付くに従って温かさを伝えた。紅眼の娼婦たちは寒さに強い。風除けの外套を肩から落とせば、皆薄いワンピースひとつ。タチヤナもそれは変わらず、ワインレッドの胸繰りの開いたワンピース一枚の出で立ちだった。

 その胸に抱き込むように彼女の腕がユーリィの髪を撫でて抱き締める。それは、久しく感じる温もりだ。鼻先を掠める薔薇の香り。何度目だろうか、ユーリィはその香りに痛みを覚えた。女達の温もりを、芳香を感じるたびその先に雨花ユイホァを探している。だから嫌なんだ。心の中でだけ呟く。

 悟られないようにタチヤナの素肌を撫ぜ、その感覚にだけ集中した。縺れるように寝台へなだれ込み、組み伏せるとタチヤナは声を上げて笑った。それの意図するものがわからなかったが、彼女の中へ触れた時にユーリィは気づいた。ひどく濡れたそれは、彼女の体液ではなかった。


「……お前、まさか」

「なにも言わないで。今夜だけでいいの、なにも言わずに、続けて頂戴」


 絶句するユーリィの頬を撫でるタチヤナの表情は同じく硬い。瞬く間に、タチヤナはくるりと姿勢を入れ替え、ユーリィのマウントを奪って動いた。動揺と、同情と、くすぶるような苛立ちがひたひたと満ちる。

 タチヤナが帰るのを渋っていたのは、このためだったのだろう。強かに見えた彼女にも、この傷は安いものではない。

 紅眼にも肢体にも、彼女の振舞いにも酔うことのできない夜だった。形振り構わず女娼らしく振舞う姿がこれほど哀しく見えたことはない。ただ優しく抱き留めて、応えることしかユーリィにはできることがなかった。

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