第38話 穏やかであり、穏やかではいられない

 ヘレナの姿を見てツェーザル商会を訪れた翌日、オリヴァはツィツィとククルカを連れ立って噴水のある広場へとやってきていた。


 昨日、急な留守番をさせることになったツィツィ達への詫びを兼ねて、共に過ごす時間を設けたのである。


 シルヴィアは用事や手配があると別行動をとっており、自称メイドとしてテキパキとツィツィやオリヴァの身嗜みを整えた後、彼らよりも先に宿を出ていた。


 ……広場の一角には、噴水から流れ出る小川があり、そこではツィツィの様な幼子が水の冷たさを足先で感じ、はしゃいでいる光景が見える。


 それを眺めながら、長椅子ベンチに腰掛けたオリヴァは、その隣に伏せるククルカを撫でて、彼女を労っていた。

 


「ククルカ、昨日はありがとう。……ああ、昨日だけじゃないか、旅に付き合ってくれていることもありがとう、だな」



 そう感謝を告げるオリヴァであるが、友であるククルカの視点では、青年の精悍な顔付きにはどうにも落ち込んでいる色が見えてならない。


 友の嘆きは我が嘆きである。そう、誇り高き森の女王は魂へと深く刻み込んでいる為に、あえて感謝の言葉には応えず、オリヴァの黒い瞳を見つめた。


 その姿に、気付いたオリヴァは苦笑して、それから言葉をつづける。



「……バレてるよな。ちょっと悩んでいる……というべきなんだろうか」



 オリヴァはあくまで一人の戦士であり、万能の人間ではない。人を癒す事も出来なければ、人の心を窺う事にも限度がある。しかしそれでも、彼には考えざるを得ない現実があった。



「いっそ自意識過剰だと、自惚だと、笑ってくれたらいいんだが……シルヴィアも、ヘレナも……俺のせいで苦しんでいる。そんな気がしてならないんだ」



 心に闇を抱いたかつての仲間。そして、二人の口からから共通して聞こえて来たのは……己への愛を仄めかす言葉。


 仄めかす、どころではない事はオリヴァもわかっている。銀髪の乙女に関しては、表面上では冷静な従者を装っているが、時折垣間見せるのは明確な求愛行為に他ならない。


 この旅路の最中、幾度となく寝所に潜り込まれ、柔らかな身体を押し付けられ、淫美な言葉を囁かれて来たかわからない程に見られたオリヴァは、それを思い出しては顔を赤らめ、うぐ、と小さく唸った。



「どうしてこうなったのか。……俺達はただ、邪竜を討ち果たす旅を共にした、かけがえのない仲間! ……の、つもりだったんだが。……俺のせいなんだよなぁ、きっと」



 そうして堪えきれない様に溜息をついた青年を見て、ククルカは徐に立ち上がると、オリヴァの頬に鼻先を擦り当てて、それから優しく舐め上げた。


 ククルカは知能が高く、オリヴァの言葉を解してはいる。しかし、クーシーという存在は人類ほどに複雑な人間関係の構築はしない。故に青年の悩むところはわからないが……それでもただ、彼が悩んでいる事だけはこれ以上ない程に理解できた。


 “私がいるではないか”。そう言わんばかりのククルカの態度に、オリヴァはふっと表情を綻ばせる。



「慰めてくれるのか。……ありがとう。でも、そうだな。心配させるなんて俺らしくないな。すまない……もう大丈夫だ!」



 オリヴァが気を取り直して顔つきを変えたのを見て、ククルカは、わふ、と小さく吠えた。それから、舌をぺろりと出して、安心した様に再び身体を地面へと伏せた。


 まずはヘレナ、その為に剣闘、それからやはり、カレー。そして、ゆくゆくは……と、己の為したい事を確認したオリヴァの側に、白い髪の幼女が駆けて戻ってくる。



「ぱぱ。くくとなかよししてたの?」


「おかえり、ツィツィ。ククルカは優しいから、俺が癒してもらってるんだ。……それにしてもびしょびしょだな」



 くるぶしより上までの水位しかない小川で遊んでいたツィツィは、何をどうしたらそうなるのかという程に全身水浸しであり、至る所から水滴を滴らせている。そんな中でも、両耳の上の癖っ毛は外にぴょこん、と跳ねており、もはや本物の耳なのではないかと錯覚してしまえそうだ。


 オリヴァはツィツィのその姿に笑みを溢すと、予め銀髪のメイドが用意して持たされた手拭いで、風邪をひかない様にと拭い始める。



「ありがと、ぱぱ。……ぱぱはやさしいからなー。ツィツィも、くくも、“しう”も、みーんな大好き」


「はは、なんだよそれ。……というか、“しう”って?」


「しうは“しう”だよ。ツィツィはかしこいので、ああやって……あー……れーせーそうに見えても、ぱぱのことが大好きでいっつもむらさき色の目でぱぱを見てるって、知ってるんだよ」



 しう、冷静れーせー、紫の瞳、という言葉で、それがシルヴィアの事を指すのだとオリヴァも理解できた。


 ツィツィには名前を頭の音二つで呼ぶ癖があるらしい。シルヴィアの場合は、少しだけ幼さのある呼び名になっているのだが。


 なんとも子どもらしく、愛らしい癖だ。己がぱぱと呼ばれなかったら、“おりー”などと呼ばれていたのか。そう、オリヴァが思っていると、ツィツィはオリヴァの座る長椅子の隣に腰掛けて、脚をぷらぷらとさせながら言葉を続ける。



「だから、“まま”もきっと、ありがとうって、思ってた」


「“まま”、か。……なぁその……ツィツィの“まま”って、どんな人だったんだ?」



 オリヴァは、ツィツィを自身の子供であるとするつもりはない。これは如何ともし難い事実なのだ。


 しかし、頼るアテのない幼子が己を慕いついてくるというならば、愛情と度量を以て育んでやろうと考え、これまで彼女に接して来た。


 しかし本来なら、ツィツィにも親となる存在がいる筈で、その存在を気にかけずにはいられない。故にオリヴァは、まず彼女の母親について問うた。



「“まま”は……あー……きれいで、やさしくて、つよかった」


「強いって……ああ、なるほどな」



 “母は強し”などという言葉は、この世界でもよくよく言われるものである。特にツィツィくらいの年齢であれば、親というものは嫌でも偉大なものに見えて仕方がないだろう。


 そんな彼女が、その親から離れてしまったであろう事実に、オリヴァは一層己が守ってやらなければと、慈しむ眼差しをツィツィへと向ける。

 


「ツィツィのお母さんだもんな、それは相当に“強い人”だったんだろう。……そうだ、ツィツィ。ずっと気になってたんだが、自分の歳って覚えてるか?」



 そんな人とツィツィがいつ離れてしまったのか、という事実も気になれば、そもそもツィツィが何歳なのか、という事もオリヴァはわからなかった。


 そうして訊ねられたツィツィは、左手の指を、一、二と折り曲げたところで、首を小さく傾げて、それから空を見上げて、ゆっくりとオリヴァと赤い瞳を合わせたかと思うと、一言。



「わかんない」



 と、言葉を溢して、聞かされたオリヴァはがくり、と姿勢を崩した。



「わかんないか……まぁでも、ツィツィくらいの小さい頃なら、俺も自分が何歳とかあまり意識してなかったからなぁ。……せいぜいが、誕生日の日に夕飯が豪華になって、アルマがやたらと祝ってくれたと覚えているくらいか」


「たんじょーび?」


「ああ、自分の生まれた日のことだよ。生まれてくれてありがとうと親から。子は、育ててくれてありがとうって、感謝を伝えるんだ。……ツィツィは、自分の誕生日は覚えているか?」


「んー……おぼえてるよーな、ないよーな……わかんない」


「ん、そうか、わからないか! ……はは、いつか、祝ってやらないとな」



 いつかツィツィの誕生日を祝えたら、きっと素敵なことなのだろう。オリヴァは脳裏に描く、己の為したい事の目録に白髪の幼子の事を書き加える。


 そうして、屋台から漂って来たいい匂いに反応したツィツィを見て、“今は遠くの誕生日より、目先の串焼きか”と笑いながら、長椅子から立ち上がった。








 ——夜になり、宿泊する宿へと戻っているオリヴァは部屋にある寝台へと腰掛けて、なんとはなしに魔剣を手にすると、その黒刃が洋燈ランプの光を照らし返す様を眺めていた。


 剣闘の場では用いる事はない。しかし、その刃を振るう事で身に付けた力で以て、舞台へと臨む事になる。


 その事に想いを馳せていると、部屋の扉が控えめに叩かれた。


 オリヴァが魔剣を鞘に収め、それに応えたならば、寝間着姿の銀髪の乙女が部屋へと入ってくる。……今回は、別部屋を取ることが出来て幸いだったと、オリヴァは内心では思っていたりもする。



「シルヴィア、お疲れ。ツィツィはもう寝たのか?」


「はい。ぐっすりとおやすみになられております。……お時間をいただいても、構わないでしょうか」


「もちろん。許可なんか……いや、なんでもない。好きなとこにかけてくれ」



 “許可なんか取らなくていい”。と言ってしまうと、シルヴィアは本当に無許可で何をするかわからなかった為に、慌ててオリヴァが促すと、シルヴィアは静かに歩き、そして黙ってオリヴァのすぐ隣、寝台へと腰掛ける。


 身体が触れる様な距離で、僅かに香る風呂上がりの芳香をオリヴァの鼻が否応なく感じ取ってしまう。やはり入室は許可制にして良かったと、青年は改めて確認した。



「あー……今日は色々、歩き回ってくれたんだろう。ありがとう、シルヴィア」


「主様の為でございます、苦労などは決して。……お訊ねしたい事があったのです」


「ん? なんだ?」


「何故……



 シルヴィアは気付いていた。オリヴァが不器用ながらに、ツェーザルを相手に駆け引きをしていた事に気付いていた。


 ヘレナを取り戻す為に形振りを構わないというのであれば、やはりシルヴィアの名を使って即座に身請けしてしまえばいい。


 いくらシルヴィアの実家の事を鑑み、仮にシルバレーベからの追手が送られたとて、どうとでもなる筈なのだ。そうシルヴィアは考えている上、実際それを叶える武力として二人は他者を圧倒する実力を有している。


 故にオリヴァがあの手段を取った理由を、銀髪の乙女は知りたがった。



「そんなに酷い演技だったか?」


「ツェーザル男爵は主様の放つ気配に圧されて気付けなかった様ですが、私などは流石に」


「はは! まぁ、向こうにバレてなかったなら良しとしよう。……大前提としてヘレナの為ではあるし、そこにかかる余計な憂慮を排したかったのもある。あ、シルヴィアの事も勿論考えて、だぞ!……ただ、それ以外にも——」



 そうして語るオリヴァの言葉を受けて、シルヴィアはいつもの仕草……右手の人差し指を軽く曲げ口許へ添えて、僅かな逡巡ののちにオリヴァに小さく頷いて見せた。



「なるほど、確かにまたとない機会かもしれません」


「どっちにしろ、必要な事……確かめなければいけない事だからな。ヘレナを助け出せる上に、向こうがお膳立てしてくれるというなら、好都合だと思ったんだ」


「……第一にヘレナ様の為、というのはお変わりありませんか」



 “当たり前だろ”と応えるオリヴァを、シルヴィアは紫色の瞳でじっと捉える。


 これもまた、いつも通りの涼やかな表情ではあるが……少しだけ、いつもとは違う色がその視線には混ざっている。……彼女は認めないだろうが、見る人が見たならば、その色を“嫉妬”と呼ぶだろう。


 故に、シルヴィアの次の行動は、ある意味で単純だった。



「なるほど。お聞かせくださりありがとうございます。……ああ、主様、少し止まっていただけますか?」


「ん、虫か、埃でもついていたか?」



 シルヴィアに言われたオリヴァは、己では確認できないからと手を伸ばした彼女に任せる事にする。


 そうして距離を近づけたシルヴィアに、少しだけ気恥ずかしくなったオリヴァは目を逸らし、どことも言えない空間に視線を向ける。


 そして不意に、シルヴィアの瑞々しい唇が、オリヴァのものへと重ねられた。


 あまりにも唐突過ぎるが故に、オリヴァは驚いて固まり、飛び退く事も出来ない。


 そのまま青年が動けないと見て、銀髪の乙女は愛しき主の暖かさを堪能した後、ゆっくりと唇を離した。



「……なん……そ……なんでだ?! そういう感じじゃなかっただろ?! いや、そもそもだな……!」


「理由は……いえ、理由などございません」


「理由がない、だと?!」


「ええ。……それでは、本日はこれにて。明日はいつも通りの時間に参ります」



 そうして足早に部屋から去っていく彼女の揺らす銀髪を見送って、オリヴァはまた頭を抱える事になった。


 ……やはり乙女達は、いつまで経っても青年を悩ませてならないのだ。

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