第3話 あのひとと傘

 豊玉とよたま寮から泉ヶ原いずみがはら駅まで走れば五分もかからない。

 でも、もちろん、走ったりしないで、樹理じゅり先輩といっしょに歩く。

 それぞれが傘をさして歩く。

 緩い下り坂だ。

 樹理先輩との歩調が微妙に合わない。

 「お姉ちゃんが傘持ってないなんて、よく気づきましたね」

 ゆうが言う。

 「朝、見たとき、あいつ、傘持ってなかったんだよね」

 言ってから、樹理先輩は優を振り返って

「あ、あい

とみじかく言い直す。

 妹に対して「あいつ」と言うとよくない、と、まじめな樹理先輩は思っているのだ。

 「あい」でも「愛」でも、「」がつくかつかないかの違いしかないのだけど。

 優は、笑って、

「置き傘は、あるはずなんですけどね」

と、当然のことのように言う。

 樹理先輩は、えっ、という顔になった。

 だったら、傘を持って迎えに行く行為自体が無意味になってしまうと樹理先輩は思っているのだろう。

 優は笑う。

 「でも、たぶん持って行ってませんよ」

 樹理先輩はほっと息をついたようだった。

 ほっとしたのを通り過ぎて、いらいらと言う。

 「朝はともかく、昼からあんな降りそうだったのに、それで置き傘もあるのに、どうして傘を持って行かないわけ、あんたのお姉さん?」

 樹理先輩は言ってから、つけ加える。

 「天気予報とか見てないのかな?」

 「じっくり、見てますよ、たぶん」

 優はまた笑う。

 「晴れるか、雨降るかだけじゃなくて、天気図っていうのを見て、どうして晴れるのか、どうして雨が降るのか、その天気はどれくらい続くのかまで理解する、っていうのがあの……」

 いけない。

 「あのひと」と言いそうになった。

 「お姉ちゃんですから」

と言い直す。

 「じゃ」

と樹理先輩がきく。

 「どうして?」

 「前に傘を取られたんですよ。それも、おばあちゃんにもらっただいじな傘っていうのを」

 それは、あのひとが明珠めいしゅじょに入って最初の梅雨の時期のことだった。

 ちょうど一年ぐらい前だ。

 その傘は、おばあちゃんがそのまたお母さんからもらった傘だったということだった。たしかのところが木でできていて、そこに何かがってあったと思う。おしゃれな、鮮やかな赤の傘だった。

 あのひとは中学校に入ったころにその傘をもらって、とてもたいせつにしていた。誇りにもしていたのだろう。

 あのひとは、その傘を明珠女学館の大学の図書館にまでさして行った。探していた本が高校の図書館にないというので、紹介状をもらって大学の図書館まで行ったのだが。

 そこで、しかも鍵のかかる傘立てに入れたのに、鍵を壊されて持って行かれたという。

 あのひとが高校に行くようになってすぐのことで、優はまだ中学生だったから、家に住んでいた。

 あのひとは、慌てて、取り乱して、何度も電話をかけてきた。そして、泣き声でおばあちゃんに謝り、お母さんにも謝っていた。

 あまりに気の毒だったので、優が電話をかわってもらって

「そこまで謝ることじゃないんじゃない?」

と言うと、泣き声の「泣き声」度が一段上に上がった。

 「だって、いま何しても取り返しがつかない!」

とか何とか言ってなきじゃくったのだ。

 高校にも落とし物として届け出て、明珠女学館大学にも何かの届け出をして見つかるのを待ったけど、けっきょく、行方はわからないままだ。

 「そのことがあってから、あの……」

 いや。

 「あのひと」ではなく。

 「お姉ちゃん、傘持って出たがらなくなって。しかも、だから安いビニール傘しか持ってないですよ、お姉ちゃんは」

 今度は「あのひと」ではなく「お姉ちゃん」と言った。

 樹理先輩にあのひとのことを教えられるのが優はうれしい。

 「だから、どっしゃり濡れてきても、自業じごう自得じとくだと思いますけどね」

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