第9話 地下4000階の住民

ヤコフはうつむいたままだ。

「……まあ、それでも俺はここに来てよかったと思ってるぜ。こいつらと出会えたし、新しい世界に人類で初めて到達したんだから」

そう言うとヤコフは上を向いた。

「俺、一度だけ家族で旅行をしたことがあるんだ。遠くの山に行って…テントを張って…寝たんだ……その日、初めて満天の星空を見たんだ。きれいだったよ。人生で一番美しかった」

ヤコフの目から涙がこぼれ落ちた。

「でも…一度でいいから…また家族に会いたい…あの日見た満天の星空を見たい…もう一度…もう一度……」

……自分の身の上話を済ませるころには、二人は今が夜なのかもわからないまま寝てしまった。






朝。

目覚まし時計も、朝日も、コーヒーもない。


……こんなに気持ちのいい朝は初めてだ。


ニュースだってない。

何のしがらみもないんだ。


……何にも追われてなんかいない。


……何とも戦っていない。


大きなあくびをし、体を伸ばした。足がつりそうになった。

まるで、この世界にたった一人いるような感覚だ。

しかし、この世界でもやはり働くことは必然なようだ。すでに周りの魚人たちは家事や狩猟を始めている。ヤコフも起きている。


……そういえば、ここにきてからまだ一度も写真を撮っていない。早速この“朝かわからない最高の朝”を写真に収めるとしよう。

カシャッ

村の人々がそれぞれの仕事をせっせとこなしている。そんな日常の風景。我ながらいい写真だ。

写真を眺めていると、ヤコフが近づいてきた。

「どうだ?ここの朝は」

「最高です!」

「っははは。当たり前だ」

ヤコフの声を聴いていると、なんだか力が湧いてくる気がする。

「さあ来いよ。村を案内してやる」


しばらくついていくと、何か大きな穴にたどり着いた。

「ここは調理場兼加工場だ。ここでは地熱を使って料理を蒸したり、煮たりして材料の加工なんかをやったりする」

よーく見ると、大きな穴の側面には無数の横向きの穴がある。あそこの中に入れて加工なんかをしているのだろう。

火が使えないこの世界ではロクな加工方法はこれくらいしかない。

ここの食べ物の味に飽きるのと、慣れるのはどっちが先だろうか…いや、考えても無駄か。

カシャッ

穴とそこで何かを作っている魚人たちの様子を写真に撮り、次の場所へ行くことにした。


またしばらく歩き、今度は居住地についた。

居住地といっても家はない。この世界には雨も風もないからだ。

魚人は一匹もいない。きっとここでは寝ることしかしないからだろう。

「ここでみんなで寝るんだ。昨日みたいに食事の場で寝ることもあるけどな」

「この人たちには自分の土地という感覚がない。国も、団体もない。あるのは一つの村と、家族だけだ」

たしかに、ここには境界線がない。みんなの物をみんなで共有しあって生きている。

「何で、そういった感覚が生まれないんですか?」

「先祖の教えさ。“争いは私物から”とか、“助けなくして幸せなし”とかっていう言い伝えがあってな。これを破ると天罰が下るらしい」

「天罰…?」

「ああ。天罰さ。誰も見たことないらしいけどな」

この世界にも言い伝えや伝承なんかがあるのか。なかなかちゃんとした文明だ。

「まさに、理想郷だよな」

ヤコフがため息交じりで言った。確かに、ここは理想郷かもしれない。でも、何か引っかかるようなものがあるように感じる。

「ここに来たばっかりの頃は、科学を使って生活水準を上げようとしたんだが、どうやら彼らにはもう揃うもんが揃ってるみたいだから、やめたんだ。彼らはもう幸せなんだよ。科学なんてなくたってさ」

「そうですか……」

…何もない、ベッドしかない居住地。

なんて殺風景なんだろうか。

カシャッ

私はまたシャッターを切った。

「さあ、次に行くぞっ」


居住地から少し離れたところに、湖岸がある。

大小さまざまな丸木舟のようなボートが並び、遠くでは漁をする魚人たちが見える。湖の水は青く透き通っていて、湖底に埋まる鉱石がキラキラと光っている。

「到着。ここはエデンの湖だ」

「エデン?」

エデン…なんだか聞いたことはある名だ。

「旧約聖書は読んだことあるか?」

「いいえ」

「エデンってのはな、アダムとイブが住んでいた楽園のことだ。彼らに残る言い伝えによれば、この湖は“太古の昔から存在する、生きとし生きる者の住処であり創造者からの贈り物”だそうだ」

湖にも伝説や伝承のようなものがあるのか。にしても、湖が神からの贈り物とは面白い話だ。

「それで、俺が勝手にエデンの湖って呼んでるだけさ」

「彼らの呼び方は何ですか?」

「それがだな……如何せん彼らのなかでも“エデンの湖”が定着しちまってな。彼らにも独自の言語ってのがあったんだが、それが難しくて難しくて…」

「みんなロシア語を話すようになったんですね」

「ああ。みんな独自の文化を捨てて簡単なロシア語に乗り換えたんだ。だから、彼らの読み方は年寄とかに聞くしかない」

……

「文化って難しいんですね……」

「ああ。特に異文化が混ざり合ったときはな」

そう言うと、ヤコフは連れていきたいところがあると私をボートに乗るよう誘った。

カシャッ

私は乗る前に一枚、地平線まで広がる湖と漁をする魚人たちを撮った。


ボートは小さく、四人乗れるかどうかというほどの小ささだ。若干不安定で、嵐が来たらひとたまりもなさそうだが、ここに嵐なんてものは来ない。

ヤコフは慣れた手つきでオールのようなものを動かし、湖を進む。

深いところもあれば浅いところもあり、深い場所では無数の魚が群れを成して泳いでいる。


しばらく漕いだのち、一本の長い線が見えてきた。

…近くなってくるうちに正体がわかる。あれは水だ。天井から湖に向かって水が落ちている。

「これがエデンの湖の源だ。どこからどうやってここにきてるかはわからないが、こいつがきっと何万年もかけてこのオアシスを作り出したんだろう」

…美しい…

恐る恐る手にとってなめてみると、しょっぱい。多分海水だ。でもなぜここにあるのかはわからない。

「…神秘的だよな」

ヤコフがうっとりした様子でつぶやいた。

「うん……」

まさしく、ここは聖域だ。

カシャッ

エメラルドブルーに光る水柱を写真に収め、何も言わずに座り込んだ。


「さて、村に帰ろう」

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