千代は越後から戻ると躑躅ヶ崎に向かう前に信頼の容態を確認するため、望月城に立ち寄った。

「旦那様。お加減は?」

「うむ……今日は、大丈夫だ……」

 普段なら千代に対して気の利いた一言でも出るところだが、信頼は咳き込んでしまう。着実に病が体を蝕んでいるのが手に取るようだ。

「看病をさせて頂きたいのでございますが、御館様に急ぐようにと命ぜられておりまする。明朝、ここを立つ所存にて」

「左様か……」

 いつもの長い自責の念も言わないところを見ると体の力もかなり磨り減っているのだろう。そろそろだろうかと思いながらも千代は立ち上がる。それなりに心を許した数少ない男であるため、千代も少し寂しさがある。だが、役目を果たさなければ望月という家を守るという大義を果たせない。蓮達を守るには主の容態も無視する。

「では……」

「待ってくれ」

 珍しく鋭い口調で声をかけてきたため、千代の足も止める。何か粗相でもしたかと首を傾げながらも元いた所に座ると信頼は奥にある棚から指示した場所を千代に開けさせる。言われた通り一番上にあった書状を取り出すと差出人は信玄となっていた。

「お前に宛てたものが、二日前にやってきた」

 千代は文面を改めると目を見開いた。内容は信頼の死ぬ前に養子を送り込みたいのでどれくらい信頼の体がもつのかを知らせて欲しいというものだった。書状から目を離し、千代は顔を上げる。

「何故、この書状を……」

「私は望月の主。身内に来た書状を改めずに何とする?」

 千代は呆れによる溜め息を飲み込んで、書状を折りたたみ、自身の懐に収める。内容は信頼が明らかに死んだことを前提に認められており、信玄の信頼に対する態度を明確にしていた。ひどくやつれているのにも納得がいく。

「父上は、私のことなどどうでも良いのであろう……」

 冷たい隙間風が吹いてきた。千代は否定することも出来ない。他に何と言えば分からないからだ。何も言わずに長いようで短い沈黙が部屋中を走る。沈黙を破ったのは再び信頼だった。

「私は体が弱く、この年で死期を悟る程だ。父上も知っておる故に、その書状なのだろう……かつて、父上の父君であられる信虎様を追放したことは知っておろう?」

 信頼は突然話題を変えてきた。何故と思いながらもここはそのまま話を聞いておいた方が良いと頷いて続きを促す。

「甲州統一がために動いていた我が祖父も父上は無用と断ずれば意図も簡単に追放される。私もその道を辿るであろうな……」

 信頼に涙はない。既に枯れきっているのだろう。また、完全に諦めているとよく分かる。それでも、千代の心に同情という感情は浮かんでこない。千代の中で男であるという先入観の壁は要塞の如く厚い壁となり、信頼を心から気遣おうという気持ちを完全に押さえ込んでいる。

「ご案じ召されず、後のことはこの私が望月の家を守り通して行く所存にて」

 千代もまた、信頼を死んだように扱う。目の前にいる信頼はまだ生きているのにもかかわらず、信頼の体への気遣いなど一切しない。気にかかるのは望月家の行く末である。末代まで男が統べるようでも守らなければならないという千代の気持ちは強い。だが、もはや余命いくばくも無い信頼をどうすればいいのであろうか。

 千代は静かに立ち上がると急いで部屋を辞そうと襖へと手をかける。その瞬間だった。

「……お前はどうしてそこまで、私のみならず、男を嫌うのだ?」

 動きを止め、驚いて千代は信頼の方を見る。信頼の目は振り返った千代の目をしっかりとらえている。今まで蓮以外の者にはひた隠していた。何故、信頼が知っているのだろうか。千代自身、猫をかぶり続けて誰にも悟られないようにしてきたはずだった。

「短い間でも夫婦だったのだ。多少はお前のことを見てきたつもりだ」

 言い終えると信頼は咳き込んで体を寝かせる。しばらくして落ち着いたのか息を長く吐くと千代の方へ顔だけ向けてきた。

「何となくだ。お前のまとう気というか……確証のないことだが、私に接する時、時折、近寄りがたい雰囲気があった。時を重ねるごとに緩やかになったがな」

 信頼は苦笑いか微笑みなのか判断し難い表情を向ける。病弱で目立ったことを出来なかったとはいえ、武田信玄の息子。人を見る観察眼や物事を見定める洞察力は親譲りなのだろう。そう考えると千代も得心がいった。幸い、心優しい信頼なら誰にも言うことは無いだろう。言ったところで望月家に何の利益も無い。

「されど、今のお前はどこか嬉しそうでもあった」

「旦那様のことではありませぬ」

「良い。そのようなこと、お前に言われずとも分かっておるが、気になるのだ。無理とは言わぬ。教えてくれないか?」

 千代は考えるために少し時間を置き、はっきりとした口調でこう言った。

「お断り致します」

「……やはり、か」

 信頼は嬉しそうに笑みを浮かべると布団に潜り込む。頭を下げ、千代は部屋を辞した。

「薄情なことで」

 部屋に戻ると勝手に部屋に上がり込んでいた蓮が言ってきた。

「何故ここにいる? そして、何で先程の旦那様との話を知っている?」

「偶然さ」

 誤魔化すように蓮は笑みを浮かべる。千代は嘘だとすぐに分かったが、咎める気も起きない。蓮のことを無視して千代は箪笥の中を開き、躑躅ヶ崎に向かうための支度を始める。本来、侍女に任せるのが普通だが、密偵という役目の手前、自ら行わなければならない。

「私は手伝わなくて良い?」

「邪魔だ。出て行け」

 千代は無視して手を進める。

 今はとにかく、時間が惜しい。蓮と共にやっていると話しをしながらで手が止まって、作業にならない。特に先程の信頼との会話を聞かれているのであればなおさらだ。

 千代は蓮を見ていない。だが、背中越しに聞こえる大きな溜め息が蓮の感情をはっきり呆れていると伝えている。蓮はしばらく無言で千代を見ると大きく息を吐いた。

「武田を裏切るようなことはないように」

 そう言い残すと蓮は出て行った。千代は一人になった部屋でしばらく作業を進めていたが、手が進まなくなった。脳裏には先程、信頼から受けた衝撃よりも春日山で見た情景が強く浮かぶ。今まで隠していたことを夫とはいえ男に見破られた。それ以上に一瞬だけ見とれただけの桜の木の群に心を奪われたことになる。

 有り得ないと千代は頭を振って否定する。しかし、脳裏は桜の木をはっきりと根付かせている。山の色を風に乗り、不規則に浮いたり沈んだりする花びら。千代は溜め息を吐くと再び箪笥の中を詮索し始めた。人は一度、脳裏に浮かんだものを簡単に外へ弾き出すことは出来ない。

 千代は諦め、桜を想像しながら箪笥の中から必要な用具を出し続けた。

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