千代は近江甲賀の出身、望月家の繋がりを深める為、十六で信州望月家に嫁いで来た。家は甲賀にある忍びの五十三の家を束ねる立場にある。その血筋が千代には強く受け継がれ、千代の価値観に強く影響した。小さい村落で立場の弱い女中や気に入った女に構わず押し倒す男を子供の頃から見てきた。その為、当時から男という存在に疑惑を抱いていた。

 そして突然、信州へ嫁に行けと言われた時、疑惑が確固たるものへと変わった。

 女だから男の下へ行くのは当然だという父の態度に憎悪を覚えた。

今の信州望月家は病弱な信頼に変わって持って生まれた間者としての才能を遺憾なく発揮している為、存続出来ていると言っても過言ではない。また、主家の武田家一族が養子に入ったということも相まって信州望月家は辛うじて脈絡を保っている状態である。

 だが、子供が生まれなければどうなるのか分からない。千代は恐れを抱いていた。望月家を自身と信頼だけでなく、家臣達の子々孫々にも伝えなければならない。それは重々承知している。信頼に子を作れる元気があれば話は別だが、躑躅ヶ崎館に行く前の彼はすっかりやつれていてとても弱い二十の若者には思えなかった。

 世継ぎがいないままでは御家断絶の上、領地没収も必至となり、千代も他の男と都合で婚姻させられる。

「奥方様、顔色が優れないようでございますが?」

「む。いや、何でもない」

 心配そうに声をかけてきた家臣の声で顔を上げる。季節外れの汗が額を伝い、手綱を握る手に落ちた。考え事をしていたせいで無意識に入っていた肩の力を抜き、視線を少し上げる。紅と黄に染まった山々に囲まれた武田家の本拠、躑躅ヶ崎館(つつじがざきやかた)が見えてきた。

 館の門前まで着くと信玄の命で来たと言って城内に入り、女中の案内で躑躅ヶ崎館の中を歩く。

歩いている間、千代は気になっていたことを考えていた。褒美のことについては信玄の方から本拠、望月城に使者を寄越すとあった為、それ以外のことだというのは分かる。普段、躑躅ヶ崎館に信玄が誰かを呼び出す時、前もって告げるべき内容の大まかなことは使者を通じて伝える。はたして呼ばれた理由は何だろうか。

 冷たい隙間風に耐えながら女中に付いて行くと違う足音が聞こえ、現実に戻される。

 前方を見ると数人の将の一団が見えた。ほとんどが千代のことを知っている重臣たちだ。形式的に頭を下げる。将達は応じることもなく、そのまま去って行った。その中の者の一人の一瞬だけこちらに向けてきた蔑んだ目を千代は見逃さなかった。

(女のくせに……)

 目は明らかにそう語っていた。他の者達も同じことを思っているに違いない。

 誰もいなければそれとなく舌打ちをしてやりたいところだったが、信玄に呼ばれている以上、優先しなければならないことは決まっている。気にしない方が良いと分かっているが、歯ぎしりしたくなる。ましてや彼等は千代が特に忌み嫌う者達なのだ。

評定の間に通されると先程の連中のことを忘れようと必死に頭を整理して信玄を待つ。しばらくすると坊主頭に髭面の信玄が入ってきた。

「望月よ。此度もまたご苦労であったな」

 開口一番、信玄は労いを込めた言葉を送る。たびたび信玄の命によって各国を渡り歩いている。そこで千代が得た情報を駆使して信玄は信州の小笠原や村上といった手強い勢力を追放した。

「有り難きお言葉」

「しかしながら、まさか今川殿が尾張のうつけになぁ……」

 信玄はまぶたを閉じて腕組みをする。吐息には未だに信じられないという気持ちが込められ、ありありと伝わってくる。

 今回、信玄の命で駿河の大名、今川義元の上洛を監視するようにと命じられていた。あわよくば同盟を放棄し、今川の国を取ってしまおうとした目論見の為だった。ところが、千代も思っていなかった程、役目は早く終わった。一月もせずに通過するであろうと思っていた尾張の地で、僅かな兵の織田軍によって義元が桶狭間で討たれたのだ。千代も驚いたが、実際に義元が討たれるところを自身の目で見たのだから間違いない。

「紛れもない事実である以上、偽れるようなことではありませぬ」

「うむ……」

 信玄が思考へ集中した為、沈黙が落ちる。男と二人でいるのに耐え切れない。先程のこともあって機嫌の悪い千代は急かしたくなった。

「御館様。私を今日お呼び致したのは何故でございますか?」

 既に恩賞のことに関しては使者を通して渡すと約束されている。信玄が今川の敗北を話題に四方山話をしようとは思えない。その程度の話なら他に適任がいる。強めの口調で問うと信玄は温和な笑みを浮かべて詫びを入れる。こちらの思いも知らないでいるのは仕方ないにしても段々と苛々が募ってくる。

「お主を呼んだのは他でもない。是非、間者としてその力を貸して欲しいのだ。お主を武田の草として用いたい」

 千代の目は大きく見開かれた。その真意をすぐに悟り、少しだけ眉間にしわが寄った。

「本格的にお主に間者として動いてもらうのは信頼が死んだ後になるだろう。先程も言ったようにさすがに当主として担ぐのは良策ではない」

 千代は平然と言ってきた信玄に汚物に触れるような気分になった。おそらく、信玄でなければ自制心が効いたかも分からない。

 間違いなく、千代を道具として女として利用しようとしている。間者のことを示す草という言葉で騙そうとしている。緊張の走る地へと赴かせ、蔓で出来た橋を渡るような真似を、夫、信頼が亡くなることを見越し、望月の家をさらに武田の中に入れようとしている。

 御家の事を考えれば武田の保護をますます受けられるようになる為、喜ばしいこと。しかし、武田の介入が強くなり、ますます望月の者達の立場が弱くなってしまう。千代も国衆の血が流れている為、大名の介入をあまり受けたくない。

「子のおらぬ我等は一体……」

「案ずるな。私の仲介で養子を送ろう」 

 信玄の真意を理解した千代は嫌悪感を抱きつつも頭を下げた。望月家だけではなく、他の信州の各家々も保護という名目で影響力を深めるつもりだろう。他家にも譜代家臣を信州に送り込み、その者達の下に信州の国人衆を引き込んで力を吸収しようとしている。

 たとえ不満が募ったとしてもそれはすぐに収まり、信玄の援助が無ければどうなっていたことやらと皆が感嘆の息を吐くだろう。それだけ信州の国人衆の力は弱い。信玄が信州に侵攻した際、従わない者はもちろん、従った者にも徹底的に弱体化を図った。望月家もまたそれに漏れることはない。千代の夫が武田一族の者であるように。

「ありがたき幸せ。旦那様に子を成す力も無く、家臣等もなかなか養子のことを承諾してくれず、頭を悩ませていたところでございます」

「そうか。今の信頼では望月を支えることは難しいと思っていたところだ。ならば、異論は無いな?」

「はい」

 千代は頭を下げ、すぐに部屋から出る。あてがわれた部屋に入ると廊下にも聞こえるぐらいの息を吐き出す。

信玄は信頼のことをもう用無しであると暗に言っていた。望月家に送り込んだとはいえ、一族であることに間違いないはずだ。

 肉親にさえも冷酷にならなければ生きていけないことは間者として各地を回っている千代も分かっている。恋情を抱いていない者に平然と娘を婚姻させ、信頼のように嫡男でない男を他家に養子として送り込んでその家を丸ごと手中に収めるなど常套手段。信玄は更に自身が推した養子を送り込むことで望月家を着実に武田家へと変えようとしている。

 老臣達が再婚すべきと言っている理由がようやく分かった。養子のことに関して、信玄の後ろ盾が出来たことによって老臣達の不満の声は表面的には収まるだろう。信頼も今日の話を聞けば喜ぶに違いない。

 だが、千代自身、信玄の前であったからこそ承諾したが、内心では不平不満の嵐であった。信頼は無理強いをしなかったが、信玄の正式な配下になれば、顎で使われるも同然である。仮に今後、未亡人になった時には知らない男と寝ろという命も下されることあるだろう。一切御免被りたい。

「随分とやつれているようで」

 中では蓮が部屋を整えていた。こちらを一瞥すると持ってきた着替えなどの整頓を再開する。蓮のことを近くに座って意味もなく眺める。小柄な体を屈めている為、童にも見える。

「お前には隠せないか」

「幾年、一緒にいると思っているの?」

 誰もいないのを良いことに蓮はからかうように言ってくる。幾度か注意したこともあったが、全く聞き入れようとしない為、諦めている。

「まぁ……お前になら……」

 蓮も間者である。千代に対しては無遠慮でも余計なことを言うように育てられてはいない。また、信用しているのだから構わない。一つ息を吐くと先程の信玄との会合で何を話したのか簡単に蓮に教えた。

一通り説明し終えると話し続けた口に休息を与える為、千代はもう一度息を吐く。蓮の方は納得したように曖昧に何度も頷いている。

「なるほど……なら、あなたが御館様に怒りを抱いて同然か」

「じゃあ、蓮は何とも思わないか?」

 蓮は千代の問いに頭を横に振ってみせる。どこか儚げで自虐的な笑みを浮かべ、俯きながら口を開く。

「私は別にあなた程、男を嫌ってはいない。こんな時代に女として生まれてきた私の運が悪かった」

 千代は雷に打たれたような衝撃を受けた。蓮が男を嫌っていないことは知っている。しかし、自身の身の丈を哀れんでいるとは今まで知らなかった。蓮の告白を千代自身、どのような表情で受け止めているのか分からない。確かなのは心が激しく狼狽していることだ。二十にもなっていない千代にその衝撃は余りにも強過ぎた。小首を曲げて蓮が顔を覗き込んで来る。

「千代?」

「いや……何でもない……」

「嘘。それほど表情を変えたのを見せたのは久し振り」

 蓮は千代に近付いて額に人差し指を当てる。真剣な口調から真意を聞き出そうとしているのがありありと伝わってくる。

「これだけ眉間にしわを寄せて……」

 そのまま蓮は額に円を描くように指を動かす。払いのけたくなったが、幾分か落ち着いてきた為、やりたいようにさせてやる。子供になったようだが、何となく心地よい。おかげで表情は何とか戻せたような気がしたが、蓮は心配そうに千代を見ている。 

「まだ、心が落ち着いていない……やむを得ないけど」

「すまない。少し驚き過ぎた」 

「気にしないで。私も言い過ぎた」

 気を使ってか、蓮は整理を終えるとすぐに部屋を出て行った。少しは考えを理解してくれていると思っていた蓮からの言葉は少なからず衝撃を与えた。考えが違うことは知っていたが、面と向かってあれほどはっきり言われたのは初めてだった。しかも、普段は明るい蓮が自身を卑下するようなことを言うと衝撃もなおさら強い。

 心を落ち着かせるように息を大きく吸って吐いてを繰り返す。幾分か心が落ち着いてきたのを感じると千代はもう何も考えまいと連が来る前に先に自身で布団を敷き、横になる。普段、徒歩で諸国を移動する千代だが、別の意味で疲れてしまったようで体が重い。これから太陽が沈もうとする刻限だが、千代は眠気を優先させ、そのまま目を閉じた。

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