第5話 北条時氏 2


 息が、苦しい。

 体の底から力が抜けていくようだ。

 時実が生きていた頃、我が家で寝込むのはもっぱら弟で、私は風邪一つ引かないのが自慢だった。

 そのせいだろうか、今はひどく心細い。


 思い返せば、私たちは必ずしも親しい兄弟ではなかった。

 武芸の鍛錬には精を出さぬ。学問にも身を入れぬ。

 父上が何度諫めても、その場だけ従順な態度を取って、のらりくらりと躱しておれば良いと思っている風情だった。

 大方、北条の家に生まれたことで、世の中を舐めているのだろう。

 そう解釈して、内心では弟を軽蔑した。

 私は父上のような立派な人間になる。時実は将来落ちぶれてから、ぼんやりと遊んでいた今を後悔すれば良いと、突き放してさえ考えていた。

 しかし、弟の不思議なところは、放蕩者の例によらず、いかなる遊芸にも夢中になることがなかったという点だ。蹴鞠や和歌は教養として推奨されていたから、私も少しはかじったが、弟は殊更忌み嫌って、視界に入れることすら嫌がった。

 双六なども誘えば打つが、決して勝負に熱くなりはしなかった。

 放っておくと懐手でぼうっとしているだけだったので、害はないものの、何とも張り合いのない男だと思っていた。

 ところが、さらに不可解なことに、そんな弟を竹御所様はひどく気に入っているようだった。

 特に三人でいる時なぞ、時実にだけ聞こえるように何かを耳打ちし、秘密を通じ合っている素振りを好んでほのめかすのだった。

 私は苦い嫉妬に駆られた。

 身分違いは承知の上だ。しかし、幕府のために尽くすことが、ひいてはあの方のためにもなるのだと思いつめていた当時の私には、あまりに理不尽な仕打ちに思われてならなかった。

 しかも、当の時実が嫌悪感すらにじませて、それをさもうるさそうに振り払うのだから、私の反感はいやましに募るのだった。

 だが、今はそんな風に考えたことすら謝りたい。

 私は何も分かっていなかったのだ。


 いつだったか、そろって弓の稽古をつけてもらっていた時、お前はこっそり手を抜きながら、尋ねてきたことがあったな。

「……兄上は本当に父上の跡を継ぎたいと思っているのですか?」

 お前が唐突に妙なことを言い出すのはいつものことだったから、またかと呆れた。しかし、同時にお前の目が真剣なことに気づいて、私は恐怖を感じた。

「まさか、お前まで跡目を継ぐと言い出すのではないだろうな?」

 お前が首を横に振るのを見て、正直私は安堵した。跡目を争うとなれば、正妻の実子であるお前が最大の敵になる。それに、常に何を考えているのか分からない、お前の不思議な無欲さを日頃から恐れてもいたんだ。

 お前が否定してくれたことで私は図に乗って、胸を張った。

「当然だろう。私は父上のようになりたいんだ」

 すると、お前は幾分かためらいがちに口にしたものだ。

「……父上が今善人でいられるのは、お祖父さまや尼御台が陰で手を汚してきたからです。しかし、兄上が跡を継ぐ時は、誰も代わりに手を汚してはくれません」

 私はお前の言う意味が分からなかった。それで、てっきり戦の話だとばかり思った。軟弱者の考えそうなことだ、とも。

「幕府のために戦って、手が汚れるとは思わないな。むしろ、武士として生まれついた者にとっては最高の名誉じゃないか。俺は嬉しいことだと考えるね」

 そう答えると、お前はいつもの剽軽な目つきに戻って、兄上は凄いなぁと話を打ち切った。私はかえってお前に失望されたような感じがして、気分を害した。

 実際、無知だったのは俺の方だった。

 戦場はそんな美々しいところではなかった。

 承久の戦で単騎、宇治川を渡り切った時も、決して勇敢だったわけではない。ただただ死に物狂いだった。

 死地にあって私を突き動かしていたのは、生き残るためには一人でも多く敵を殺さなければという、極めて原始的な本能だった。名誉や美徳のことなど念頭に上りもしなかった。

 それでも、まだましだった。

 私はあの時、幕府の、そして北条の正しさを信じていたし、何より戦場は平等ではあった。

 お前の言った、手を汚すとは、そんなことですらなかったのだな。

 許してほしい。私はお前の内心の一分も理解できていなかった。

 お前はその幼さで、私よりずっと多くの真実を見聞きし、知っていたのだな。


 そう。私がそれを知ったのお前が死ぬ数日前のことだった。

 私たちは長年の捜索の末に、承久の戦の犯罪人である尊長、和田朝盛とももりの二名を捕えた。

 尊長は後鳥羽院の殿上法師で、首謀者の一人と目されていた。朝盛殿はかつての幕臣で、和田合戦によって滅びた和田一族の生き残りでもあった。

 尊長は六波羅へ運ばれてきた時にはすでに瀕死の状態であった。捕まると悟って自殺を図っていたのだ。医師が近づこうとしても暴れる。やむなくそのまま取り調べを行ったが、こちらの問いかけには一切耳を貸さない上に、

「義時を殺した毒を飲ませてみよ!」

 そうわめき散らして事切れた。

 元々北条憎しの一心に染まったこの男から、まともな聴取が出来るとは期待していなかった。そこで私たちはすぐさまもう一方の詮議に移った。

 朝盛殿は逃亡生活のためにやつれてはいたが、落ち着いた態度でこちらの質問に正確に答えた。

 その姿を見るにつけても、私は口惜しくてならなかった。

 一族を滅ぼした北条への恨みが深いことは分かっている。しかし、実朝公の形見でもある幕府に刀を向けるなど、朝盛殿とも思えぬ短慮。

 かつて朝盛殿は実朝公に和歌の才を認められ、近習として仕えていた人だった。

 文武両道を地で行くその在り方を、模範として敬わぬ若い幕臣はいなかった。勿論、私もその一人だった。

 公の取り調べが一通り終わった後、私は朝盛殿の牢を訪ねた。

「……お久しぶりです」

 呼びかけても、朝盛殿は黙したまま、私のかざした紙燭の灯りにまぶしそうに目を細めるだけだった。

 そんな反応は予想済みであったので、構わず事務的な話を前置きとして続けた。

「六波羅での詮議が終わり次第、貴方は鎌倉に移送されることになります。具体的な処遇はそこで決定されるでしょう」

 己のこれからについてだというのに、朝盛殿は無感動な表情を続けていた。

 やりきれない思いが高まり、私はつい声を荒げてしまった。

「何故、幕府に弓を引いたのです? かつて全ての幕臣の模範として誰より忠を尽くしてきた貴方が……。復讐のためですか? 私怨で大義を見失ってはならないと常に説いていたのは他ならぬ貴方だったではありませんか!」

「……今の幕府に大義があるとでも?」

 投げ槍な言葉ではあったが、返事が返ってきたことにほっとした。同時にそんなことで安心している自分を情けなくも思い、咳払いをして威儀を正した。

「ございます。畏くも朝廷を相手に、我々が勝利したことこそその証拠。天が幕府を正しいと認めてくださったのに違いありますまい」

 すると、朝盛殿は私の顔を見つめ、どこか悲し気に呟いた。

「そうか、何も知らないのだな」

 私は言い知れぬ恥辱にかっとなった。竹御所様が時折私に示すものと同種の哀れみを感じたのだ。

「私が何を知らないと仰る!」

「……何もかもだろう。お前の言葉で無知を明かさぬところは一つもなかったぞ。私怨で京方についたのかと問うたな。愚弄するな。我ら一族は名誉を守り、戦い抜いた。私が仇討ちなど企てようものなら、余計な真似をするなとどやされるわ」

「ならば、何故?」

「実朝様を暗殺した北条を幕府から除かねばならなかった」

 もし相手が朝盛殿でなければ、その時点で聞くに堪えぬと話を打ち切っていたに違いない。

「馬鹿なことを。祖父義時は実朝公の後見で、尼御台に至っては実の母親だ。殺さねばならぬ理由などどこにもないではありませんか!」

「そんなもの、保身のために決まっていよう。実朝様は後鳥羽院に、次の将軍は皇族からお選びになるよう働きかけておられた。その動きを義時は警戒し、実朝様を殺めるよう公暁をそそのかしたのだ」

「何を言い出すかと思えば……。皇家将軍を戴くことには北条も賛同していた。でなければ、何故尼御台が自ら交渉人を買って出たりしましょうか」

「あの悪女には実朝様のお考えを理解することが出来なかったのだ。自ら後継者を用意するとは殊勝なことくらいに受け取ったのだろう。その点、流石に義時は勘が鋭かった」

 朝盛殿は無念そうにうなり、ややあってまた言葉を続けた。

「実朝様は朝廷に政をお返しし、ご自分はその補佐に立たれるおつもりだった。聖徳太子の治世を熱心に学んでおられたのも、そうした夢をお持ちだったからだ。しかし、その夢が叶えば、北条は将軍の外戚という立場も、執権という地位も失う。一介の御家人に過ぎなくなる。それが義時には面白くなかったのだ」

「何を根拠に……。そもそも当時、貴方はすでに幕府を離れていたはず。大方、京方の謀反人たちからそれらしい話を吹き込まれただけなのでしょう。違いますか?」

「和田合戦の後も私は鎌倉と連絡を取り続けていた。実朝様はいずれ北条と敵対するときに備えて、一部の信頼出来る近習にのみ、お考えを打ち明けてくださっていたのだ」

 朝盛殿はそれから自嘲気味に笑った。

「だが、私には何も出来なかった。あの方の無念を晴らす、ただそのために京方に加勢したというのに、結局この世には神も仏もないと明らかにしたのみだった。この世は上手く立ち回った者が生き残る。それだけだ。私はもう一分一秒もこんな世界に生き長らえたくはない。何も聞かなかったことにして、二度と顔を見せないでくれ」

 言われなくともそのつもりだった。やはり時間の無駄でしかなかった。私はやり場のない怒りを抱いたまま身を翻し、その場を去った。

 朝盛殿に対する失望は大きかった。あの人も大局を見ず、ただ北条を憎むだけの大勢と変わりなかったということか。実朝公を北条が殺めたなどと、そんなくだらない妄想をよくも口に出来たものだ。

 しかし、それがもし真実であったら……?

 私は背筋にひやりと冷たいものが走るのを感じた。これまで信じてきた正しさが根底から揺らいでしまう。将軍の無二の臣下である北条が、ただの権力の簒奪者に過ぎないことになる。

 何を馬鹿な。私は迷いを振り払おうと頭を振った。そんなこと、あっていいはずがない。

 そして、牢の出口にある人影に気づき、私ははっと足を止めた。そこに控えていたのは私の家人である三善為清みよしためきよだった。

 よりにもよってこの男か。内心、不快に思うのをどうすることも出来なかった。

 三善は私の家人の内でも、よく目端の利く男だった。しかし、その分要領の良さを鼻にかけているようなところがあり、心底からは信頼できない男とも思っていた。

 私は平静を装いつつ、何気ない口ぶりで尋ねた。

「どうしたのだ、こんなところで」

「殿を探していたのです。尊長の遺体の扱いについて相談したいとのことで、皆様、お戻りをお待ちしているようでしたから」

「そうか、それは手間をかけさせた」

 三善の口調は普段と変わらない。私はかすかに安堵しつつ、再び三善の顔を見た。そして、血の凍るような思いを味わった。

 三善の目が笑っていた。卑しく、馴れ馴れしい目付きだった。

 やはり盗み聞かれていたのだと私は直感的に悟った。どこまでかは分からない。けれど、少なくとも弱みを握ったと考えられる程度の内容は把握されてしまったに違いない。

 とはいえ、それから数か月は三善も時折意味深な目配せをする程度で、それ以上の目立った動きを見せることはなかった。

 ところが、朝盛殿が鎌倉に送られたと聞き及ぶと、三善の態度はにわかに増長を始めた。私の前でもやけにくつろいだ姿を隠そうとしない。それだけなら些細な問題だが、六波羅の備品を私から下賜されたと偽って持ち出しているらしいことが知られてくると、捨ておくわけにもいかなくなった。

 私は三善を呼び出し、問いただした。すると、三善はかえって開き直った様子でこう言い放ったものだった。

「いろいろと物入りなんです。やめろと言うなら、殿がたんまりお持ちの財産を少しは分けてくださいよ」

「馬鹿を言うな。何のために毎月禄を与えていると思っている。必要ならそれで都合しろ」

「……あーあ、全く真面目に働くのが馬鹿馬鹿しくなっちゃいますよねぇ。結局、悪どく権力を握った連中に、俺たちみたいなのは安く使いつぶされるだけなんだから」

「……何が言いたい?」

「いえいえ、他意はございませんとも。ただまぁ、俺にも主人を選ぶ権利はあるんでね。そういえば、和田殿は三浦に引き取られたのでしたっけ。俺も三浦に仕えた方が色々と融通を利かせてもらえるかもなぁ」

 主をゆするつもりか! かっと怒鳴りつけそうになるのをやっとのことで抑え込んだ。

 北条と三浦は一枚岩ではない。祖父義時が亡くなってからというもの、両家の間は疎遠になるばかりだ。もし、三善が例の件を注進するようなことがあれば、三浦は朝盛殿から証言を引き出し、北条を討つ格好の口実を手に入れてしまう。

「……分かった」

 私は歯を食いしばり、言った。

「入り用な時は私が出そう。その代わり、公儀の備品を持ち出すのはやめてくれ」

 三善は我が意を得たりという風ににんまりと笑うと、

「やはり持つべきものは北条の主人ですなぁ」

 などとうそぶいた。

 そんな男と知ったればこそ、やつが賭場で刃傷沙汰を起こしたとの報せが入っても格別驚きはしなかった。来るべきものが来たというような感覚であった。

 しかし、まさか殺傷した相手が日吉社に連なる僧侶だとは予想が出来なかった。日吉社の背後には山門、比叡山延暦寺が控えている。朝廷ですら長年悩まされてきた強大な勢力だ。六波羅から急行した現場に血まみれの法衣姿の男が倒れているのを見て、がく然とした。

 家人たちには野次馬の取り締まりに当たるよう指示し、私は賭場として利用されていたと思しい、打ち捨てられた古寺に足を踏み入れた。

 すでに博徒たちは皆逃亡した後のようで、堂内には三善とその手当てをする下人とがいるばかりであった。三善は少しも懲りた様子はなく、私の顔を見るとほっとしたように軽薄な笑みを浮かべた。

 何があったのかと尋ねると、三善は安心しきっていたためか、いつになく素直にあらましを語った。

 被害者の僧とは一月ほど前に知り合い、金品を借りることも数度に及んだらしい。

 折しも六波羅が南都の寺院の非武装化に着手し始めた時期でもあり、山門も警戒心を強めていた。三善はそこに付け込んで、私の家人であることを盾に、山門には手を出さぬよう取りなしてやってもよいと持ち掛けたのだと言う。

 しかし、僧の側も流石に三善の要求の際限のなさと一向に金を返そうともしない態度に不信感を募らせたらしく、今日ばかりは耳をそろえて返済するまで逃がさないと仲間とともに三善を取り囲んだ。

 三善の話を聞くうちに、改めてこの男に対する不快感が増した。こいつは誰かに寄生することしか頭にない男だ。この男が側にいる限り、私も延々と足を引っ張られ続けなければならない。

 私の目の内の軽蔑を見て取ったのか、三善は媚びるような笑みを浮かべながら、流石に必死に言葉を続けた。

「えっ、へっ、へっ、まさかお見捨てにはなりませんよねぇ。もし私が罪に問われれば、私に融通していた殿も無事では済みますまい」

 それは確かにそうであった。家人の監督不行き届きに加えて、不当な援助もしていたとなれば失脚は免れようもない。その上、三善が例の件まで口にすれば、被害は私だけではない、父上にまで及んでしまう。

「……だが、今回の件は私にもどうすることも出来ない。相手は山門で、しかも非はこちらにある。いい加減な詮議では決して済まされないだろう」

 その時、三善の目に異様な光が宿ったことに気づいていれば、続く行動を制することも出来ていたのかもしれない。しかし、あの時の私は自分自身の未来も閉ざされたことを受け止めきれず、周りに気を配る余裕を持っていなかった。

「なら、お互いに非があればいいんですね」

 唐突にやつは懐刀を引き抜くと、側にいた下人の喉を切り裂いた。

「な、一体、何を……」

 呆然とする私に、返り血にまみれた三善は瘧にかかったように震えながらこう言った。

「この下人は僧に殺されたんです。ふふふ、賢明な殿ならお分かりのはずだ……」

 この男は狂っている。慄く私に対して、三善はにんまりと微笑んだ。

「これで山門の罪も問えますよねぇ。私たちはどこまでも一蓮托生ですよ」

 自分の保身のためだけに何の罪もない人間を殺すなど、獣にも劣る行いだ。

 にもかかわらず、私はこの悪魔のような男の誘いを拒むことが出来なかった。

 後日、事件が明るみに出て、山門から三善の引き渡しを求められた時、私はその申し出を一蹴した。三善の下人を殺した下手人と交換でなければ不公平である、と。

 元より山門に下手人を差し出すことなど出来るはずもなかった。そんな人物は存在しないのだから。

 時間稼ぎにしかならない手であることは重々承知していた。日に日に山門側とも一触即発の雰囲気になっていく。鎌倉からは穏便に対応するようにとの忠告が届く。それでも、私は断固として自分の主張を譲らなかった。

 どうしても納得出来なかったのだ。

 三善のようなろくでもない男のせいで、私のこれまで積み重ねてきたものが全て台無しにされてしまうということが。

 足元が崩れていくような不安で堪らなくなった折は、いっそ山門と合戦になれば良いとさえ思った。そうなれば、もはや三善の詮議などうやむやになってしまうだろう。

 だが、同時にそんなことを大真面目に考えている自分に気づいて、私は私自身が恐ろしくなり、激しい吐き気に襲われた。厠に駆け込み、惨めに胃の腑を空にしながら、一体どこまで浅ましくなれば気が済むのかと自分で自分の頭を殴った。

 事件の顛末だけを考えるのであれば、私は救われた。先に山門の座主の方が音を上げたのだ。急進的な僧兵と六波羅との間に立ち続ける緊張から心身の不調となり、座主を辞する決意を固めたということであった。

 これには鎌倉も静観を続けることは出来ず、父上は審議を省略して三善を流罪にすることを決定された。そうして私は六波羅の長を解任。鎌倉へ呼び戻されることとなった。

 ある意味では運が良かったのだろう。私は今なお北条の跡継ぎで、山門相手に一歩も引かなかったことも、家人思いだと評価してくださる方さえいるようだ。

 だが、流罪を宣告された時の三善の恨みのまなざしが忘れられない。三善が健在である限り、私に心の平安が訪れることは決してないだろう。

 それに、他の家人たちの中からまた三善のような男が現れないとも限らない。その度に同じことを繰り返すのか?

 時実の言葉がよみがえった。代わりはいない。今の立場を守るため、手を汚して、汚して、汚し続けて、それで……?


 ……いつの間にか夜が来ていたらしい。目を開いても天井が見えない。ただ無限の闇が広がっているばかりだ。

 私は夜が恐ろしい。目に見えぬ悪いものが絶えず周りを跳梁している。そんな気がする。

 こんな恐怖は子供の頃にすっかり克服したはずだった。だが、もしかすると怯えるのは恥ずべきことだからと、殊更忘れたふりをしていただけだったのかもしれない。

 自分を見下げつくして、何の希望も抱けないまま生きていくのは、私にはとても耐えられない。

 私は父上にはなれなかった。

 我が身を保身の鬼と知り果てて、どうしてこの世の美徳などと、民のための政治などと語れようか。

 私はもう立ち上がれそうにない。

 時実、どうか助けてくれ。

 叶うことなら、私も共に連れて行ってくれ……!


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