どうやら彼女が俺に惚れているらしい①
法月知恵という少女について俺が知っていることはそれほど多くないが、だからといって何も知らないわけではない。
持ち前の社交性を駆使して彼女は学校中を常に飛び回っており、常に誰かの輪の中心にいるような人物だ。
クラスが違うはずにも関わらず、入学当時からよく俺の所属するクラスにも顔を出し、クラスメイトの俺ですら話したことのないような人達と仲良さげにしていたのをよく覚えている。
それは二学年になった今も同様で、下手をしたら我が二年A組で俺より彼女の方が溶け込んでいるかもしれない。
勉強こそあまり得意ではないがそれも俺ほどではなく、最低限の成績はあるということで教師たちからの評判もそこまで悪くはないと聞く。
そもそも、彼女にはサンコー女子バスケットボール部のエースという明確な長所があるので、それを免罪符とは言わないまでも、勉強ができなくても許されているようなふしがあった。
加えてなんと言っても、男女区別なく知人友人が多いので、もはや勉強ができないことすらコミュニケーションの一環としてあっけらかんと自分から話している。
まさに天真爛漫、その一言に尽きる。
有栖川のようにマスコット的なアイドル扱いされることもなく、西尾のように畏怖をもって知れ渡ることもなく、ある意味もっとも自然でノーマルな人気者といった印象なのが法月だった。
ゆえに、そんな彼女が俺に惚れているというのはあまりに荒唐無稽に感じるのだ。
有栖川はご存知の通りアホなので、行動原理がまったく読めない。
そのおかげで逆に、俺に惚れるという奇行もそこまで不自然ではない。
西尾はなんだかんだ単なるぼっちで、彼女なりの独自の価値観があるので、俺に惚れる可能性もかなり低いが実際ありえないことではないと思っていた。
だが、法月は違う。
彼女は他の二人と比べ、あまりにノーマル過ぎる。
たしかにあの校内有数の有名人であり、有栖川に匹敵する人気者ではあるが、そのベクトルが違う。
スペシャルな存在ではあるが、彼女自体はそれなりにノーマルな人格の持ち主なはずだから。
それに致命的な問題がある。
数学の補講中に手紙を俺に渡すことが最も困難だったのが法月だということだ。
有栖川なら、若干大変だが、頑張って手を伸ばせば届かないことはない距離にいた。
西尾なら、唯一教室全体を見渡せる位置に座っていたので、皆の注意が外れている隙を正確に把握し、隠密行動が可能だった。
しかし、法月はどうだろう?
はっきり言って、彼女が俺の座っていた机に手紙を置くのは不可能に近い。
彼女は最前列に陣取っていたので、あそこから俺の席まで行こうとすれば、さすがに教壇にいた綾辻女史に気づかれるだろう。
俺に惚れる可能性、俺に手紙を届けられる可能性、その両方が三人の容疑者の中で最も低いのが法月だ。
それでも、有栖川と西尾が容疑者から外れた今、すでに彼女が俺に惚れていることは確定している。
腑に落ちないことばかりだが、どうやら彼女が俺に惚れているらしいことは確かなのだった。
「——おい、私の話を聞いているのか? この状況で上の空とはお前は本当にクソだな島田」
すると、崇高な考察を邪魔するように誰かが俺の額を小突く。
どこの不届き者かと思い目を凝らしてみると、何やら目の前に人肌の温もりを忘れてしまった憐れな三十路の女の姿が見えた。
「先生、そんなに眉間に皺を寄せたら、また婚期が遠のきますよ?」
「次、同じ台詞を吐いてみろ。その空っぽの頭をクソ貯めにぶち込んでやる」
剣呑な雰囲気を纏って、およそ教師とは思えない物騒な言葉を口にするのは、当然俺の担任である綾辻女史だ。
辺りを改めて見渡してみると、自分が職員室にいることを思い出す。
普段ならば憂鬱な月曜日はあっという間に過ぎていって、すでに時間帯は放課後になっている。
なぜ俺がこんな場所にこんな時間にいるのかというと、それもやはり目の前で疲れたように頭を抱える綾辻女史に呼び出されたのが理由だった。
「島田。お前自分がなぜここに呼び出されたのかわかってるんだよな?」
「そうですね。幾つか予想は立てられますが、おそらく先生がただ俺とお喋りしたかっただけでは?」
「〇すぞ」
「え?」
「いま、お前が職員室に呼び出されているのは、この前の金曜日に無断で学校からいなくなったからだ。はあ、勘弁してくれ。ただでさえ手がかかるのに、これ以上問題を起こすな」
一瞬、ついに教師としては一線を超えた過激発言が飛び出したような気がしたが、きっと気のせいだろう。
あまりに衝撃的で聴覚に一時的にノイズが走ったほどだ。
さすがに愛しの生徒に殺害予告するわけはないよな。
そうに決まっている。
ただ綾辻女史が本気で不機嫌になりかけているのが分かったので、俺は少しだけいつもより優しく接してあげることにする。
「す、すいませんでした、先生。先生に迷惑をかけるつもりはなかったのですが、結果的にそうなってしまったことは反省します」
「ああ、存分に反省しろ」
「本当にすいませんでした。この不出来な自分を許してください」
「まあ元々、お前にはそこまで期待していないからな。ただもう二度とするなよ。何か理由があってどうしても早退したい時は、私に一言いえ」
「俺はいつもいつも迷惑ばかり。申し訳ありません」
「まったくだ。不得意なのは分かるが、少しは学習というものをしてもらいたいな」
俺は深々と頭を下げ続ける。
色々アレな点はあるが、実際のところ俺は綾辻女史のことを尊敬していたし、懐いていた。
俺はありとあらゆる能力の水準が低く、これまでどんな教員にもまともに相手してもらえなかったが、彼女だけは違った。
特別俺に優しくするということもないがが、反対に俺にだけ無関心や特別な嫌悪を示すこともない。
彼女は他の皆と同じように俺を扱ってくれるのだ。
他の優秀であったり、明るい性格の生徒に対するものと変わらない言動は、彼女にとっては当たり前のことかもしれないが、俺にとってはそうではなかった。
だから俺は綾辻女史が大好きだし、彼女に見捨てられることだけは避けたかった。
「すいませんでした、先生」
「……もういい。頭を上げろ。一応これでも教師だからな、お前が本気で悪いと思っていることは伝わった」
「俺はどうしようもない無能ですが、どんな罰でも受けますので許してください」
「だからもういいと言っているだろう。罰なんて面倒なことしない。さっさと頭を上げろ」
「いえ! 先生! それでは俺の気持ちが収まりません! どうかこの卑しき豚めを罰してください! この豚め! と大声を上げて俺に叱責を!」
「お、おい、島田やめろ。もういいと何度も言っているだろ」
「さあ先生! 俺は先生の豚です! 豚を豚らしくお好きなように調理してください!」
「ば、馬鹿なことを大きな声で言うな。他の先生方がこちらを見ているだろ? もういい。わかったから。お前の気持ちはこれ以上ないほどにわかったから」
「……許してくれるんですか?」
「ああ! 許す許す! だから頼むからその顔を上げてくれ!」
ふう。
どうやら綾辻女史は無許可で早退という非行を働いた俺を許してくれるらしい。
口は厳しいがやはり優しい人だ。
その優しさをもっと普段から前面に出せば、顔だって年齢を考えれば立派なものだ、きっと貰い手もすぐに見つかることだろう。
「いやあ、やっぱり先生は素敵な方だ。こんな俺を許してくれるなんて。俺の人生で最も幸運な出来事第二位が、先生の教え子になれたことですよ」
「はあ、お前と会話していると本当に疲れるよ。私の人生の中で最も不運な事第二位が、お前を教え子に持ったことだ」
「あはは、そうですか。俺たち、気が合いますね。ちなみに一位はなんです?」
「どこで気が合うと判断したんだ。お前は本当にクソだな島田。ちなみに一位は教師という職業についてしまったことだ」
顔を上げると、目の前のデスクに座る綾辻女史は額に少し汗をかき、顔も薄ら紅くしていた。
職員室内の空調のせいだろうか。俺はそこまで暑いとは思わないが。
ちなみに俺の人生で最も幸運な出来事第一位は、もちろんこの前ラブレターを貰ったことだ。
「それで? どうして金曜日は勝手に学校からいなくなったんだ? ついにクラスでの居場所がなくなったか?」
「ついにってなんですか。大丈夫ですよ。俺は今のところ、酸素並みにクラスに溶け込めています」
「そうだな。お前には最初からクラスに居場所なんてなかったな。ではなぜだ? 無理にとは言わんが、話せるなら話してみろ」
手を団扇代わりにしながら、綾辻女史は金曜日に俺に起きたことの詳細を知ろうとする。
何か失礼な台詞が混じったような気がしたが、特に追及することはしない。
「実はあの日、昼休みに西尾に会ったんですが、そのまま彼女に着いてこいと脅されて」
「西尾? 下手糞な嘘を吐くな島田。お前如きがあいつの興味を惹けるわけないだろう」
「ほ、本当ですよ! 昼頃に勝手に早退する西尾に捕まったんです」
「そうなのか? んー、だがたしかに、あの日は西尾も早退していた気がするな。もっとも、あいつが無断で消えるのは珍しいことではないが」
やっと汗が引いてきた様子の綾辻女史は、手で自分を扇ぐのを止めて、考え込むような仕草を見せる。
そういえば結局、なぜ西尾が数学の補講に出席していたのかはわからないままだな。
単純にスランプだっただけだろうか?
たしか恋人ができたのも一か月くらい前からだと言っていたし、案外それがスランプの原因かもしれない。
やっと付き合えたのに中々デートの約束を取り付けられず、頭がその事でいっぱいになり、数学に手が付けられなくなり補講に呼び出された。
しかしついに念願のデートの約束を果たし、スランプから脱出。
考えるとこれが正解なような気がしてきた。
なんというあっけのない種明かしだろう。
とても腹が立つ。
「そういえばお前、この前も西尾のことが知りたいとかどうとか言っていたな。何かそれが関係しているのか?」
「あ、いえ。それはもう忘れてください。全ては俺の勘違いでした。あいつはただのチワワですよ」
「最後の台詞の意味がまったくわからないが、とにかく正気には戻ったようだな」
ただの惚気不良モドキの情報をわざわざ綾辻女史に頼んだという、かつての若気の至りはもう忘れてしまおう。
俺に手紙を出したのは法月だと確定したのだ。
もう何も怖れることはない。
すぐそこでなぜか安心したような表情を浮かべる綾辻女史の目をどうやって掻い潜ったのかは謎だが、よく考えればそんなことはどうでもいいことだった。
俺に告白したのは、法月知恵。
その事実だけが全てで、それ以上多くは求めまい。
「リョーコちゃん! この数学の問題教えてー!」
その時、綾辻女史のデスクに一人の女子生徒が小走りで駆け寄ってくる。
誰かと思って見てみれば、驚くべきことにそれはちょうど俺がいま頭に思い浮かべていた人物その人だった。
ひょうきんな声で、人懐っこい笑みを浮かべる彼女の名は法月知恵。
まさに俺に手紙を渡した人物で、つまるところ俺に惚れている人物だ。
「……ってあれ? もしかしてお取込み中?」
「いや、そんなことはないぞ。もうだいたい話は終わったし、色々と面倒になってきたからな。ほら、もうお前は行っていいぞ」
「あの、いま面倒って言いませんでした?」
「教師が生徒の相手を面倒だなんて言うわけないだろ。わかったら早く散れ。面倒な奴だな」
法月がやってきたことで、綾辻女史はもう俺からすっかり興味を失ってしまったらしい。
実際のところ西尾に脅迫され学校を抜け出したことは事実だし、それ以上説明のしようがないのでべつに構わないのだが、なんとなく腑に落ちない気分だった。
「駄目だよリョーコちゃん! そんな適当なこと言っちゃ! ごめんね島田君? 私邪魔しちゃったよね?」
「んほぉっ!? い、いいいいいや、そそそそそそそんなことはないさ!?」
だが法月はそのまま綾辻女史に相談事をすることはなく、謝りながら俺の右手を両手でぎゅっと握った。
そう、ご覧の通り俺の言語機能に不具合が生じてしまったのは、まさにそれが理由だ。
運動部に所属しているとは言ってもさすがは女の子。
俺の手を包み込む手は暖かみと柔らかさに満ちていて、筆舌に尽くしがたい幸福感が全身を貫いた。
「それじゃあ、私、出直すね! また来るよリョーコちゃん! それまでごゆっくり〜!」
やがて俺の手を離すと、法月は明るく笑いながらこの場を去って行った。
突然やってきて、また唐突に姿を消す。
まるで風のような人だ。
しかも暖かくて柔らかい。
「……驚いたな」
「そうですね。いきなり来て、びっくりしましたね」
「いや、そうではなくてな。あいつは普段ああいった、人の感情を意図的に勘違いさせるような言動は取らないんだ」
「意図的に勘違いさせるような行動? 何のことですか?」
「お前、法月に何かしたのか島田? お前あいつに相当嫌われてるぞ」
「えぇっ!? な、なんでですか!? 今のどこでそう思ったんですか先生!?」
「……はぁ、どうにもまた近いうちに面倒事が起きそうだな」
綾辻女史は不安そうに顔をしかめているが、その原因に見当はつかない。
俺が法月に嫌われている?
それは違う。
むしろ彼女は俺にベタ惚れしているのだ。
「ん?」
そんな認識の訂正を綾辻女史に求めようか迷っていると、先ほど法月に握られた右手の中に何かクシャっとした感触があることに気づく。
どうしたことかと手をひらいてみれば、俺の掌の上には見覚えのない紙切れがある。
よく見てみるとその細長い紙切れには、何やら文字が書かれていた。
“今日の夜七時、体育館の裏で”
どうやら法月が俺に惚れていることはどうしようもなく決定的で、一通の手紙から始まった俺の恋の物語にもクライマックスが近づいているらしい。
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