五話【暗雲】

 ライスボックスと横に建つ雑居ビルに挟まれた、車一台通るのがやっとの細い路地。春の日差しも届かない暗くじっとりとした空間で、その陰湿さを具現化したような男が中学生らしき少年に迫っていた。男の体は少年より一回り大きく、見る角度によっては少年の体がすっぽり隠れるほどだった。

「おい!」こちらに背を向けている男に声をかける。「やめてやれよ! 嫌がってるだろ!」

 自分でもテンプレのような注意の仕方だなと思いながら言ってみたが、効果はあったようだ。頭にヒヨコでも飼っているのかとつっこみたくなる金髪モヒカンの男が振り返る。最初に目についたのは、両耳に鈍く煌めく複数のピアス。そして、忘れてしまいたかった懐かしい顔だ。


奈雲なぐも……?」


 その顔を見た瞬間、かさぶたが剥がれるように小学生時代の腹の立つ思い出がじわじわと滲み出てきた。



 奈雲重己なぐもしげき。俺の同級生であり、とにかく底意地の悪い男だ。

 奈雲という男を一言で表すと「ガキ大将」だった。某国民的アニメの音痴なガキ大将はまだ善良な部分があるが、こいつは悪質としか言いようがない。授業は真面目に受けようとしない、休み時間にはボールや遊具を力づくで奪い取る。給食費を盗んだ疑いもあった。小学生の時から中学生並みに体が大きく、逆らうのは簡単なことではなかった。


 そんな俺が一度だけ奈雲に戦いを挑み、勝利した経験がある。璃恩がこいつに暴力を振るわれた時だ。

 璃恩の両親は俺たちが小学一年生の時に離婚した。母子家庭となった早乙女家は、はじめこそ浮気したという夫の慰謝料でやりくりしていたが、次第に貧しさが滲み出てきた。当時の璃恩の服はつぎはぎだらけだった。

 それだけなら奈雲に目をつけられることはなかっただろうが、当時から人当たりのいい璃恩は誰からも評判が良く、さらに成長するにつれてたくましさと美しさを兼ね備える優れた容姿を見せ始めていた。

「貧乏なのに人気者でイケメン」その点が奈雲の癪に障ったのだろう。小学四年生の時、俺は校舎裏へ溜まったゴミを運んでいる途中で、奈雲が璃恩にいちゃもんをつけている現場を目の当たりにした。璃恩はどれだけ悪口を言われても平然としていたが、奈雲の才能と言うべきか、彼は璃恩の弱点を的確に突いた。璃恩の母親の悪口を言ったのだ。


「旦那に逃げられたんだろ!」「お前の母ちゃんブサイクだもんな!」「早く次の父ちゃん見つけてもらえよ! あっ、無理かぁ!」


 俺ですら聞くに堪えない言葉を璃恩は我慢しようとしたが、できなかった。璃恩が拳を振るったのをゴングに、奈雲は一回り大きな拳で璃恩の顔面を執拗に狙った。璃恩の鼻から、口から血が流れても、拳の応酬は止まらなかった。

 俺は飛び出した。中身の詰まったゴミ袋を振り回し、横から奈雲の頭に叩きつけた。いかに体格で勝っているとはいえ、死に物狂いで攻め続ける二人を前に逃げ出し、恨み節を残しながら逃げていった。この喧嘩がきっかけで、敗走したうえに先生から厳重注意を受けた奈雲の権威は失墜し、逆にみんなの鬱憤を晴らした俺たちはクラスのヒーローとなった。

 思えば、これが璃恩と仲良くなったきっかけであり、俺が本格的に〈善活〉を始めた原因だった。



「……誰かと思ったら、天宮か? ハハッ、似合わねー髪型で一瞬分かんなかったわ」


 ヒヨコ頭に言われたくないと言い返したかったが、思いとどまった。中学時代は幸運にも一度も同じクラスにならなかったが、しばらく見ない間にすごみを増している。まるで熊が学ランを着て立ち塞がっているかのようだ。

 俺は奈雲に甘く見られないよう、あくまで自然体に振る舞い、声で怯えを悟られないよう腹に力を入れる。


「高校生になっても変わらないな。というより、お前の成績で高校生になれたのか? それ、中学の学ランじゃないだろうな?」

「その腐った魚みたいな目でよく見てみろよ。中学のと全然違うだろうが」

「ああ、たしかに違うな。そのピカピカのおニューの制服が三年間持つことを祈ってやるよ」


 俺たちが火花を散らしている間に、恐喝されていた少年は隙を見て逃げ出そうとした。しかし足音で気付いたのか、奈雲は巨体に似合わない俊敏さで腕を伸ばし、少年の襟首をつかんで捕らえた。半ば首を絞められる形になった少年が苦しそうに咳き込む。


「おい、やめろ!」

「余計な口出しすんなよ。俺は今からこいつと楽しく遊ぼうとしてたんだからよ。なあ?」


 少年は首を横にも縦にも振らないが、俺はちゃんと分かっている。こいつの人間性を。

 この場には璃恩も助けてくれる友達もいない。通りを歩く人たちも、俺たちのことを怪訝そうに見やるだけで通り過ぎていく。

 一対一では勝ち目がない。しかし少年を見捨てるわけにもいかない。堂々巡りする頭は、苦肉の策をはじき出した。


「ここはゲーセンだ。ゲームで俺と勝負しろよ」


 奈雲は自分の知らない言語でも聞いたかのように眉をひそめて「なんでそんな面倒くせぇことを」と乗り気ではない。

 優位に立っている奈雲にとって、俺と対等に勝負するメリットはない。それなら俺が不利になる条件か、奈雲にとって魅力のある提案をしなければならない。

 本当に俺は損してばかりだなと嫌になってくる。


「俺が勝ったらその子を放せ! そして、二度とこのゲーセンに近寄るな!」

「じゃあ、お前が負けたらどうするんだ?」

「俺の財布の中にある全額お前にくれてやる! 五千円は入ってる。それに、今から勝負するゲームもお前が決めていい! 悪くない条件だろ」

「悪くねえが、ちょっと足りねえな。土下座して『私は二度と奈雲様の邪魔をしません』って謝罪するのも付け加えろ」

「……ああ、上等だ」


 どこまでも底意地の悪い奴だ。俺の提案に乗ってくれたことはありがたいが、これで負けたら、俺のプライドはズタズタになるだろう。きっと明るい高校生活など望めない。たとえ二度と会わなかったとしても、こんなゲスに心を支配されたままになる。


「それで、どのゲームで勝負するんだ?」


 俺の記憶だと、奈雲はゲームが下手くそだ。ゲーセンで負けて暴れたり、クレーンゲームで商品が取れずに筐体を蹴ったりしたという噂は何度も聞いた。

 対する俺はゲーセンなんてほとんど行ったことはないが、生まれつき器用だからどんな遊びも少し回数をこなせば結果は出せる。シンプルなレトロゲームなら見るだけでも充分。条件は決して悪くないはずだ。


「そうだな……。やっぱり、アレしかねぇだろ」


 そう言って奈雲は、ライスボックスの前に立つのぼりに親指を向けた。


「俺が今一番ハマってる〈Colorful Bullet!!!〉で相手してやるよ」


 よりにもよって、俺が一度も遊んだことがない最新ゲームが選ばれた。

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