第七話 町田改革(2)昭和デモクラシー

 町田内閣による列島改造五カ年計画が進んでいく中、国内情勢も大きく動き出そうとしていた。


 1934年から始まった、である。


 満州特需及び朝鮮特需によって日本経済が好転する中、人々は町田内閣に対しかなりの期待を抱くようになっていた。考えてみれば当然のことではあるが、それ故に現状に不満を持っていた人々は立ち上がったのである。町田首相ならなんとかしてくれると信じて。


 まず、地方自治拡大運動だが、これは廃藩置県以来中央政府の影響力が強かった地方自治体において、更なる自由を求める形で行われた大正デモクラシー時の普通選挙運動の延長線上のようなものであり、列島改造が進む中で現状の地方議会では決められないことがあまりにも多かったことが引き金となって始まったものである。


 ただ、普通選挙運動とは違い、中央政府の権限が強いことが行政上の手間となっている所が多分にあると考えていた地方自治体の公務員たちも、この自治拡大運動を陰ながら支持していた。


 一方、台湾自治拡大運動は、1914年の台湾同化会設立以来続いていた台湾総督府の中央集権的な特権の撤廃を求める運動が再燃するような形で始まったものである。運動の中核となったのは、であり台湾の地方自治実現を求める右派の政治団体であった。


 朝鮮自治政府では弾圧されていたはずのこの運動は、台湾経営が黒字で推移していたことと朝鮮人と異なり日本人と類似した真面目な姿勢が評価されていた為、現地の日本人も好意的にこの運動を受け止めていた。


 台湾総督を務めていた中川健藏なかがわけんぞうも、この運動には不可侵を貫くよう総督府に通達しており、逆に日本政府に対し台湾の地方自治を認めても良いのではないかと相談していたほどである。


 これらの運動を受け、1935年5月3日にが制定された。


 道州法では、これまで地方公共団体の最上位とされてきた道府県の上に、樺太州・北海道・東北州後の奥羽州・関東州・中央州・近畿州・瀬戸州・南西州・台湾州・南洋州後の大洋州の9つの州・道が設置された。


 また、東京府・大阪府はその人口・経済規模を理由にとされ、東京都・大阪都と改称され州から独立した存在とな理、行政上の問題点解消の為特別区の設置などの権限が認められた。


 地方自治法では、市区町村の首長の直接公選制や地方議会の権限拡大が認められ、中央政府からも多くの権限が委譲された。また、今まで官選であった府県知事を直接公選で選出することが可能となり、地方自治がさらに進むこととなった。


 ただ、道州知事については政略に走ることのない健全な地方政治実現の為、従来と同じ官選によって選出されることとなり、諸外国とは少し異なる形で地方自治の拡大が認められるようになる。


 また、大戦景気以来の好景気と国内改革による列島改造に期待を寄せた労働者・農民達も、大正デモクラシーをもう一度と再び立ち上がった。の始まりである。


 以前にもまして大規模となった労働運動において、労働者達は労働組合の合法化や労働者待遇の改善、労働者の権利の容認・拡大を要求し大々的に運動を行った。


 一方、全国的に行われるようになった農民運動において、農民達は小作農からの脱却の為にを展開し、地主制度の破壊を訴えた。


 これらの運動に、当初日本政府はあまり立場を明確にしていなかったものの、労働運動については財閥の弱体化や日本企業の健全な成長につながると考えられた為、比較的早く権利を認めても良いと方針が決まった。


 農民運動については、今まで手をつけていなかった地主制度との対決を意味しかねない事態に政府は方針も対応も示せずにいたが、農民運動を指導する左派が社会主義的姿勢を全面的に押し出し始め、農村出身の兵士達にも運動の影響が出始めていることが発覚したことで事態は動き出した。


 政府は、社会主義運動を予防する為に労働者・農民達の権利をある程度認めることとしたのだ。


 こうして、1935年5月22日にが制定された。


 労働基本法は、1911年制定の工場法を見直す形で制定されており、当時の国際基準をかなり満たすものとなっていた。


 条文には、労働条件の最低基準や労働時間などの制限、労働者の権利などが記されており、これによって労働者達はようやく大々的に労働運動に成功することとなる。


 余談だが、この法律に反対する議員及び財閥幹部の汚職事件が法律審議中に発覚したことで世論の多くの賛同を得る形で制定されており、町田内閣に更なる賞賛が寄せられることとなる。


 また、6月2日には調が制定された。


 農地調整法の制定に伴い、国家による地主小作地の買収が行われ低価格で小作人に対し売却されることとなり、事実上地主制度は破壊されることとなった。


 また、農業の機械化・大規模化を支援する為に、JAO日本農業機構が設立され低金利ローンによる融資や農業用機械の供与、栽培に関する提言などが行われることとなった。


 一方、小作人への適切な給与支払いや待遇改善、機械化の推進などを行い自ら地主制度の改革を推し進めた地主に対しては、強制買収は行われないということになり、農業運動の激化に危機感を覚えていた地主を中心に改革が行われた。


 結局地主制度は半壊し、残る半分の地主は地主改革に成功するという命運が分かれる結果に終わり、後世ではヨーロッパで起きた革命に準えてフランス式農業革命王政破壊・共和政イギリス式小作革命王族存続・議会の権利拡大と揶揄されることとなる。


 一見、順調に進んだ改革だが社会主義勢力の拡大や地主・財閥・一部議員からの強烈な反発を招くことになってしまった。当然、町田内閣も黙って見てるだけではない。飴と鞭を使い分けることで、彼らは問題を封じ込めようとしたのである。

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