約束
胸に当たる微かな寝息。
俺の腕の中では黒い角を生やしたお姉ちゃんが安らかな寝息を立てている。
「温かいなぁ……」
目の前にある曲線を指で優しく擦る。
双角はほんのり温かく、ツルツルとした触覚がとても心地良い。
「気になりんすか……?」
「あ、ごめん……嫌だった……?」
「ふふっ……主さんなら構いんせんよ……」
「ありがとう……」
失礼なことをした俺を優しく受け入れてくれるお姉ちゃん。
俺はそんなお姉ちゃんの手を布団の中で握りながら口を開いた。
「今日、帰ろうと思うんだ……」
「今日……でありんすか……?」
「うん……面接とか色々しないとだし……」
「も、もう少しだけ……ここに居んせんか……?」
「終わったら迎えに来るから……絶対に……」
早く動かなければきっと後悔する。
そんな気持ちが俺を行動に移させていた。
「分かりん……した……」
「ありがとう……」
暗い表情のまま顔を伏せるお姉ちゃんへ感謝の言葉を投げ掛ける。
「お姉ちゃんのお陰で俺は腐らずに立ち直ることが出来た……」
「わっちは何もしてやせんよ……」
「料理作ってくれたでしょ……とびっきり美味いヤツをさ……」
「そう言ってもらえると嬉しゅうござりんす……」
「また作って欲しいな……」
「わっちで良ければ……いつでも……」
そう言うお姉ちゃんの顔はどこか複雑そうで、寂し気に微笑んでいる。
俺はその表情に言いようのない不安を覚えた。
「あのさ……」
「ただいま〜……」
俺の言葉を遮るように祖母の疲れ切った声が聞こえてくる。
お姉ちゃんの表情の真意は真夏の陽炎のように霞むこととなったのだった。
「下行こうか……」
「はい……行きんしょう……」
布団を畳んだ俺とお姉ちゃんはそそくさと居間へ移動する。
居間で買い物袋から戦利品を取り出していた祖母は、俺達を見るなりニヤリと口角を歪めた。
「おはよう……」
「元気かい……?」
「元気だよ……あ、お土産買ってあるから……」
「あぁ……ありがとうねぇ……」
「ニヤニヤしねぇでおくんなんし……」
「いや……もう少しで曽孫の顔が見れると思うとねぇ……」
「まだでありんす……!」
昨日とは打って変わって賑やかな雰囲気が家中を包み込む。
その雰囲気にずっと身を置いておきたい所だが、俺にはやるべきことがある。
「俺、そろそろ行くよ……」
「早いでありんすよぉ……」
「ええやないかぁ……またすぐに会えるわ……」
「じゃあ……俺はこれで……」
「見送りんすえぇ……」
「ありがとう……」
駅へと向かう道中で周囲の長閑な景色を目に焼き付ける。
この景色とはしばらくお別れになってしまう。隣を歩くお姉ちゃんとも。
「お姉ちゃんのお陰で楽しかったよ……」
「わっちもでありんす……」
俺はクスクスと微笑むお姉ちゃんの手をさり気なく握った。
別れの地となるであろう古びた駅に辿り着くまで、その状態は続いた。
「あと30分あるから……ちょっと話さない……?」
「えぇ……是非……」
俺達は駅内に備え付けられているベンチに腰を掛けて息を整える。
帰りの電車が来るまでのちょっとした残り時間。それは何物にも代え難い。
「はは……寂しくなるなぁ……」
「えぇ……本当に……」
「あ、帰ってきたらお姉ちゃんの家行ってもいい……?」
「構いんせんよ……」
「ありがとう……」
その言葉を最後に会話は止まった。
長い沈黙の中、ただただお互いの手を握り締める。
「間もなく電車が到着致します、黄色い線の内側から出ないようにしてください……」
駅構内に響くアナウンスの声。
別れ際の30分はあっという間に経過してしまったらしい。
「それじゃあ……また……」
「はい……」
切符を買って階段を上がり、既に到着していた電車へ乗り込む。
お姉ちゃんは駅のホームで俺に向かって小さく手を振っている。
この数日は本当に楽しかった。
溢れ出そうになる涙を堪える為に深い溜息を吐いて、駅のホームへ視線を送る。
だが、その場にはもうお姉ちゃんは居なかった。
まるで幻でも見ていたかのように跡形もなく消えていた。
「さようなら……」
脳裏に響くお姉ちゃんの切ない声。
電車の走行音に掻き消されたその声を聞いた瞬間に俺は確信した。
お姉ちゃんにはもう会えないのだと。
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