第1話 - 鳥と兎と犬猫と

 鸞翔高校が生徒に求める学力は、日本で高等学校と名のつく他の追随を許さない。通常は大学で履修する第三外国語についてもカリキュラムへ含まれているかと思えば、茶道や日本舞踊といった伝統芸能の実習も授業に組まれている。過酷な課題の連続に音を上げて、西暦が一年分更新されるまでに自主退学で学び舎を去る生徒は、例年二割を超えている。卒業まで生き延びて初めて誇れる戦場と形容しても、決して過言ではない箱庭だった。

──まだスタート地点に立っただけ。卒業まで踏ん張って……いや、それ以上に功績を残して、二度と私と、私の家族を馬鹿にできなくしてやる。

 厳格な指導の賜物として、歴代の卒業生は軒並み各界で名の知れた人物に成長するのが、鸞翔高校が高い入試倍率を維持する理由の一つだった。十年前、日本初の女性総理大臣として先進国のトップニュースの一面を飾った議員もそのうちの一人で、彼女の学歴を遡れば、鸞翔高校の名前を目にすることになる。

 飛鳥が背もたれに向かって体を傾けると、ポニーテールの厚みに阻まれた。やむを得ず不完全な脱力を享受し、やや寝不足な瞼を緩慢に動かしていると、右隣の椅子に影がかかる。新入生は到着した順に席を詰めるよう案内されるのだから、人が来ること自体は何も不思議なことではない。ただ、席へ辿り着いた後、続けて着席するそぶりがないことを不審に思った飛鳥が顔を上げると、光を背負って彼女を覗き込む男子生徒の視線に射抜かれた。予想していたよりも近い距離からの眼差しに、少女の薄い肩がびくりと跳ねる。

「なっ、にか、用でも」

 飛鳥から見て逆光を背負ったままの彼は、驚きで強張った問いかけと、たじろいで離れた数センチを深追いしない。その代わりとでも言うように、自身の位置を変えないままで、警戒を露わにする同級生へはにかんだ。

「あすちゃん、だよね」

「……え?」

 二人の間に流れた数秒の空白で動いた身体の部位は、生きている以上は必須となるルーティンで瞬きを繰り返す、二対の瞼だけだった。

「ほら、小学校の……ええと、あすちゃんが引っ越すまでは、よく遊んでたんだけど」

 覚えてないかな、と力なく眉根を下げる、少年の青い瞳と左目の泣き黒子を凝視した飛鳥は、それらの特徴が合致する知人を脳内で検索する。毛先が肩につかない長さの栗色で作られたハーフアップのシルエットは、彼女が目にしてきた異性の範囲内では、さほどありふれたスタイルではなかった。

「……もしかして、おと?」

 恐る恐る口に出した飛鳥に目を輝かせた男子生徒は、今にも飛び跳ねそうなほどの喜びを表情に乗せた。

「そう、桜兎だよ!」


『おい、見ろよ。おとのやつ、また女子と遊んでるぜ』

『おとチャンはオンナノコだもんなぁ』

 飛鳥が幼少期を共に過ごした同級生の「おと」は、鬼ごっこやジャングルジムよりも、人形遊びやお絵描きが好きな、落ち着きのある子どもだった。彼の穏やかな気性と相性が良かったのは、身体を動かすことで己の優秀さを見せつける強気な男子よりも、大人っぽさに憧れて背伸びをする女子の方で、そんな彼を揶揄うクラスメートもいた。

『こんなもので遊んで、教育に悪ーい!』

『や、やめて、返してってば!』

『年長でおままごととか、気持ちわりーんだ、よっ!』

 カーペットに叩きつけられた小さな人形の首が外れて、フェルトペンで「あすか」と書かれた少女の上履きにぶつかる。上履きの主人は、散らばったパーツを拾い上げ、ナイロン製の髪に絡んだ埃を手で払って取り除いた。

『ねえ』

『うるさい、おんなが出しゃばるな!』

『人のことに口出しできるほどヒマなら、自分がかっこよくなるのをがんばったらどうなの』

 小ぶりなポニーテールの根元に結ばれた赤いリボンが、髪の動きと合わせて揺れる。出しゃばるなと通達された少女は、半泣きの少年へ直した人形を手渡し、彼をからかっていた男子三人組へ遠慮なく距離を詰める。びし、と効果音がつきそうなほど彼らにきっぱりと指を差した「あすか」による糾弾の眼差しは、少年たちの反論を完全に抑え込んでいた。

『いじわるしてるの、すっごくかっこ悪い』

 しん、と静まり返った保育室に、昼休みが五分後に終わることを知らせる予鈴が鳴り響く。電話応対で数分だけ席を外していた保育士が戻ってくる駆け足の音も、段々と近くなってきた。

『な、なんだよ……』

『行こうぜ、もう』

 ばつの悪そうな顔で自分たちの席に戻った悪童は、半透明のビニール素材の筆箱を、忙しなく振り回している。

『あすちゃん』

 呼びかけに振り返った少女は、青い瞳に涙をいっぱいに溜めた少年へ、開けたばかりのポケットティッシュを差し出す。

『ごめんね』

 「おと」は、「ありがとう」よりも、「ごめん」の方が多い子どもだった。


 女生徒の思い出に住む子どもの姿と、目の前に現れた男子生徒の体格は、印象が大きく異なっていた。痩せ型なのは昔から変わらないが、昔の彼は、身長が同世代の女子の平均よりも低かったはず。それが今では、軽く見積もっただけでも、男子の平均よりも高い背丈へと育っているのは明らかだった。

「男子三日会わざれば、って奴ね」

 口角が上がったままの桜兎は、満を持して席についてから話を続ける。

「高校で会えるなんて思わなくて、自分の目を疑ってたんだ。じろじろ見て、びっくりさせちゃったよね」

「私の方こそ、すぐに気付けなくて。桜兎、かなり背が伸びたんじゃない」

「その分、成長痛は辛いよ」

 飛鳥は少年の喉仏を盗み見してから、会場の前方へ顔を向け直した。

「泣き虫は治ったの」

「あはは、どうだろう。背が伸びてからは、ちょっかいかけてくる子も減ったから」

 頬をかく桜兎も、隣人に倣って視線を移す。ざわめきが増して声が通りにくくなった会場の出入口となっている両開きの扉が閉めきられ、電灯の明るさが二段階絞られる。まもなく入学式が開会されることを告げる放送部のアナウンスが、通路に点々と設置された小型のスピーカーから流れ出した。


「さて。そろそろ休憩は終わりにして、今後の説明を始めようか」

 祝辞が長々と読み上げられた入学式が終わり、保護者が退席を促された後。おもむろに壇上に登ったのは、学生服を纏った男子生徒だった。舞台の中央に設置された椅子のない机へ両手をついた彼は、飛鳥も受付で世話になった、ハーフリムの眼鏡を愛用する三年生だった。後ろ側の席に座った一年生にも顔を見せるため、宙吊りにされたスクリーンへ話者のバストアップが投影された瞬間、押し殺された黄色い声が、観客席の所々から上がった。桜兎が横目に盗み見た飛鳥は、だんまりを決め込んだまま、これから演説をせんとする彼を眺めている。

「改めて、入学おめでとう。俺は、鸞翔高校の寮鳥会……平易な言葉にするなら、生徒会のようなものかな。その会のまとめ役をしている、三年の戌月だ。在校生を代表して、皆を歓迎しよう」

 隙間なく閉じられたベルベットのカーテンの向こう側では、高い位置に座した太陽が、雲の隙間を縫って大地を覗いている。しばしの別れの寂しさと、世界でも有数な名門校へ入学した我が子への感動を涙で流し終えた保護者らは、ぱらぱらと校門の外へと向かい始めていた。

「細かい規則や授業内容については、受付で渡したシラバスを確認して欲しい。この場では、最低限のルールだけ通達させてくれ」

 マイクがなくともよく通る、声変わり済みの喉をもつ戌月は、手元に用意された台本をちらとも見ない。

「肝が座ってる」

 小さく独りごちた飛鳥は、寮鳥会会長の均整が取れた相貌よりも、数百人を前にして視線を落とさない、彼の堂々たる振る舞いへ注目していた。幼馴染の呟きを耳で拾った桜兎は、短い相槌で同意を示す。

「第一に、ここでは生徒の誰もが平等に評価される。出自や経歴に関係なく、実力のみを重んじるのが鸞翔高校だ。皆の中には、権威あるご家庭から送り出された生徒もいるだろうが──」

 きん、と鼓膜をつんざくハウリングが、演説の間に挟まる。

「くれぐれも。軽率な行動は慎むように」

 冷たい微笑みが突き立てられたのは、最前列で雑談を続けていた男子生徒たちだった。彼らは、戦後に解体の憂き目にあった財閥の子孫で、現在では押しも押されもせぬ大企業の御曹司でもある。財界のみならず政界に至るまで顔が広い親のおかげで、少年たちが昨日までのいつでも許されてきた自由時間は、綺麗に揃った彼ら自身の悲鳴で締め括られた。

 目元を和らげた戌月は、改めて新入生の全員を視界へ入れ直す。

「それに伴い、我が校では苗字を使用しないことになっている。生徒同士でも下の名前で呼び合って、ぜひ親交を深めてほしい」

 ただし、模試や大学受験の時だけはフルネームを記名するようにと補足を付け足した彼の説明は、すらすらと澱みなく続いていく。

「寮の門限は夜の八時で、起床の鐘は六時半だ。他の時間帯は、男子寮である鷲寮と、女子寮の烏寮を互いに行き来して構わない。ただ今日は、疲れている生徒も多いだろうな。食堂で昼食を済ませたら、寮の部屋割りを確認して、各々の自室でしっかり身体を休めて欲しい」

 二時間にも及んだ式典への参列に対する労いを締めの言葉として、簡素な学校説明会は幕を閉じた。プロジェクターの電源が切られ、カーテンが開け放たれた窓辺から注がれる弱い日光は、空に薄雲がかかっていることを示している。

「あすちゃん、お昼は誰かと約束してる?」

 立ち上がり、固まった背中の筋肉をほぐす桜兎の天辺は、身長が百六十センチある飛鳥と比べて、顔の半分ほど上にある。

「桜兎が良ければ、一緒にどう?」

「……ぼくから誘おうと思ってたのに」

 空気でむくれた彼の頬が、穴の空いた風船が萎むように元の形へ戻っていく。互いに一桁台の歳の頃を知る友人の幼い仕草で、飛鳥の顔は綻んだ。

「少し、遠回りをしたいの。すぐに食堂へ行っても混み合っているだろうし、校舎を回ってみたくて」

「もちろん。オープンキャンパスも、入れる場所が限られてたしね」

 足元に置いていた飛鳥の荷物は、彼女が拾い上げる前に、桜兎の右肩へまとめてかけられた。抗議の声を上げた飛鳥が取り返そうと腕を伸ばし、奪った彼がそれを避けて何度も振り出しに戻ることを重ねるうちに、運営の腕章をつけた通路沿いの二年生が咳払いをした。

「い、行こうか」

 ぶ厚いシラバスでキロ単位になった二人分の荷物は、男子生徒の腕によって大講堂を運び出されていった。


 三階建ての本校舎のうち、普通教室が集合している東棟を見物し終えた飛鳥と桜兎は、次に西棟の一階へと足を向けた。西棟には、理科室や美術室など、各科目用の設備に特化した専門教室が主に備えられており、また三階には、寮鳥会が占有することを許された部屋もある。参考書が詰められた蓋のないロッカーや、教室の扉に設えられた覗き窓から得られる僅かな情報を話のタネにする幼馴染たちの鼓膜は、不意に、用具室と保健室に挟まれた廊下の突き当たりで話し込む声をも拾い上げた。どちらからともなく中断された会話を埋めるために澄まされた聴覚は、彼らの会話が談笑ではなく、口論であることを脳へ伝達する。ざわめきの渦中から見て死角となる位置へ移動した二人が、柱の陰から様子を盗み見れば、女子が一人に、男子が二人。彼らに気取られないよう、飛鳥と桜兎は互いに耳打ちをした。

「あれ。ナンパかな」

「にしては、ガラが悪すぎるでしょ」

 囲まれている女生徒の詰襟についたバッチが光に反射して、床に色が落ちている。鸞の瞳から零れ落ち、空気に希釈された小さな点は、淡い赤色だ。

「女の子、一年生だよ」

 だからさあ、とストレス過分な女性の中音域が、一際大きく廊下へ響く。

「ありがたいとは思うんスけど、リアルに干渉されると厳しいっつーか」

「いいじゃん、堅苦しいこと言わないでさ」

「ちょっ、と! どこ触って……っ!」

 窓際に追い詰められていた一年生の腰が、異性によって服越しに撫でられる。前を閉じられた詰襟の裾からせり上がろうとする男の手は、汗でじっとりと湿っていた。生温い湿気を押し付けられて、少女の体感温度は急降下していく。

「バラされたら困るのはお前だってこと、分かってないんだもんなあ」

「離せ、離してったら!」

「俺たちのおかげでいい顔してられるんでしょ。なら、ちょっとはいい思いさせてよ」

──これは、ダメだな。

 道すがら通り過ぎてきた東棟にある職員室へ向かうため、桜兎が振り向いた背後からは、彼のすぐ近くに陣取っていたはずの飛鳥の姿がなくなっていた。桜兎がそれに気付くと同時に、先刻までは悠々と脅しをかけていた男子生徒の悲鳴が、鍵のかかったガラス窓を強く震わせた。

「どう見ても非合意ですよね、先輩」

 温度のない声の持ち主を追った桜兎が目にしたのは、男子生徒のうち一人の両手を彼の背中で捻り上げた、仁王立ちの同伴者だった。痛みを訴える友人と、現れたばかりの一年生を交互に見遣ったもう一人の容疑者は、女生徒を守る詰襟のボタンを外すために持ち上げていた腕を引っ込めた。男が飛鳥を見下ろす眼には、隠しきれない戸惑いが浮かんでいる。

「な、なんだお前……」

「嫌がってる相手を暴力で言うこと聞かそうなんて、最低ですよ」

「あすちゃん!」

 飛鳥が二年生の手首を固定していた掌を、桜兎が強引に解く。そのまま丁寧に磨かれた廊下へと雑に放られた年上は、関節が外れる寸前だった疼痛と、ついた尻もちの鈍痛の両方に悩まされることとなった。

 入学式を手伝わせるための例外を除き、在校生は寮で一日自習をするよう通達されている今日、偶然に通りすがる年長者はいない。澄ました鸞の瞳の色で分断された陣営は、睨み合ったまま膠着状態に陥っていた。二年生の怒りの矛先は、緊張した面持ちで他の一年生を背中に庇う桜兎ではなく、彼の後ろにいる飛鳥へと向いている。

「い、ったー……暴力とか、自己紹介のつもりかよ。それとも、ツッコミ待ちのサムいギャグ?」

「そうそう。こっちはじゃれてただけなのにねぇ」

「女の子一人に対して、二人がかりで? どう見ても、襲っているようにしか見えませんでした」

 桜兎を横にずらし、毅然とした態度で彼らを睨む飛鳥と、こめかみに青筋を立てて苛立つ二年生に挟まれた桜兎は、血の気が引いた顔で両者を交互に見た。元から日焼けの少ない彼の肌が、より一層白さを増している。

「ま、まあまあ落ち着いて! すみません、ランチに行く途中でして。ね、きみも一緒に行こう、今すぐ行こう、それじゃ先輩ぼくたちこれで」

「この状況で、ハイそーですか、ってなるわけなくない?」

 二種類の痛みに見舞われたばかりの二年生が、頑なに飛鳥の身体を後ろへ回そうとする桜兎の胸ぐらを掴んだ。仕立てたばかりの真新しい制服に、無理に引き寄せられてできた皺の線が走る。

「桜兎!」

「邪魔だよ」

 大きく振りかぶった先達の拳を左頬に見舞われた少年は、窓と窓の隙間にあった柱へ、後頭部をしたたかに打ちつけた。脳が揺れた拍子に目眩を起こした桜兎は、壁に背をつけたままずるずると座り込む。近すぎたが故に数秒を見逃しかけた飛鳥が、蹲った桜兎の様子で事の成り行きを把握した瞬間、彼女の深い黒の眼光がぎらりと強まった。鬼の形相となった少女を前にして、威勢よく喚いていた二人はようやく口を噤む。拳を固く握りしめた飛鳥が殴り返すより早く全員の動きを止めさせたのは、他の一年生たちから最も厳重に庇われていた女生徒の大声だった。

「先生、こっちでーす! 今日は外出禁止なはずの二年生がここにいまーす! なんなら一年が三人絡まれてるんで、どうにかして欲しいんスけどー!」

 廊下の先に向かって笑顔で両手を振り、腹から声を出す彼女の発言を聞いた二年生たちは、呼びかけた方向を振り返るだけの余裕もなく、用具室の脇にある裏口へと慌てて駆け出した。追おうとする飛鳥の脚を掴んで止めたのは、未だ立ち上がれない桜兎だった。騒がしい二人分の足音が、ぐんぐんと遠のいていく。彼らと入れ替わりになるように女生徒から存在を匂わされた教師は、結局、ただの一人も現場に駆け付けることはなかった。

 つまりは。

「……ふぅ、騙せるもんスねえ」

 安堵の溜め息をついた一年生は、先の発言が演技だったことのネタばらしを同級生へすると共に、疲労が滲む苦笑を見せた。


「本当に、もう平気?」

「大丈夫だよ。むしろ、付き添わせてごめん」

「アンタに謝られると、ヨネの立場がねーんスけど」

 己を「ヨネ」と称するウルフカットの女生徒は、養護教諭が出払っている保健室で桜兎を休ませる間に、夜猫という本名を明かしていた。彼らとはどういう関係なのか、距離が取れないのであれば警察へ訴え出た方がいいと諭す飛鳥の前へ差し出されたのは、黒猫のシリコンカバーが被せられた、最新型のスマートフォン。画面に表示されているのは、全世界で最大のユーザー数を誇る大手動画投稿サイトで千万再生を突破したばかりの、とある動画のサムネイルだ。投稿者の名前は、「夜々中寝子@公式」。ジェスチャーで夜猫に促されるままに飛鳥が再生ボタンをタップすると、アップテンポのイントロと、ペンライトを振り乱す人々の歓声が流れ始める。そのまま待つこと数十秒、ステージいっぱいに引き伸ばされたスクリーンへ、アニメ調の作画がなされた女性キャラクターが登場する。髪は黒のストレートで、瞳は切れ長の金。猫耳と長い尻尾は髪と同じ色で揃えられ、衣装には青のリボンがふんだんに盛り込まれた、可愛らしくも華やかなデザインを意図して作られた偶像がそこにいた。彼女は、右手に握ったマイクをおもむろに口元に寄せ、ゆっくりと息を吸い込む。次に吐き出された歌声を聞いた飛鳥と桜兎は、彼女が動画の中の歌姫と同一人物であることを理解した。

「ヨネさ、界隈じゃ結構名の知れたバーチャルアイドルなんスよね。二人に見てもらったのは、活動休止前にやった、先月のライブ映像」

 所有者によって停止された動画は、指先を下から上に滑らせるスワイプ操作で、液晶の描画範囲の外へと弾かれていった。

「バーチャルアイドルって……いてて。確か、声は生身の人間がアフレコして、外見は三次元モデルに踊らせる、ってやつだっけ」

「そう! 声の担当は踊らないから、バックで歌だけに集中できるんスよ」

 女子たちによる見様見真似で作られた氷嚢を頬にあてがった桜兎の浅い認識へ、夜猫が太鼓判を押す。漫画や動画といった娯楽からはかけ離れた三年間を過ごしてきた飛鳥は、初めて耳にする情報へ素直に耳を傾けていた。

「学業と両立できりゃ、一番良かったんスけどね。この高校に通いながらアイドルやってたら、両方ダメになりそうだったんで、バーチャルの世界は休業中。そんで、さっきの二人はヨネのファン」

「あまり、そういった業界に詳しくないのだけど……ファンだったらアイドルに何をしても許されるなんてこと、絶対ないと思う。あと、あなたも、有名人の自覚があるのなら、軽率に一人になるべきではなかったんじゃない」

「飛鳥チャンてば、すっごい棘あるぅ!」

 リノリウムの床を蹴り、腰掛けたオフィスチェアをくるくる回す夜猫は言葉に笑いを混ぜてから一周、ゴム製のソール二枚を使って椅子の動きを止めた。

「ま、正論スね。いわくつきの学校に潜入できて、浮かれてたのは認めるっス」

「いわくって……評判じゃなく?」

「国立鸞翔高等学校の校舎のどこかには、第二次世界大戦から隠され続けている秘密がある」

 怪談師の物真似で声の調子を変えた夜猫は、目と口をそれぞれ三日月型にしてから、元の表情へと顔つきを戻した。飛鳥と桜兎の反応を窺うよりも、誰かと謀を共有したくてたまらない気分になった夜猫は、上半身が段々と前のめりになっていく。

「ネットの掲示板とかでは、かなり前からある噂なんスよ。で、情報通なヨネちゃんは、この噂の真相を確かめるべく、頑張りに頑張って入学したってワケ」

「私は、聞いたことないけど。その噂って、手がかりとか、証拠はあるの」

「んにゃ。ただの勘」

 断言した夜猫を目の当たりにした飛鳥と桜兎は、数秒間目を見合わせてから、揃って苦笑いを浮かべた。

「あなた、思い切ったことするのね」

「よく言われるっス!」

 氷がほとんど溶けた布袋をアルミのバットへ避けた桜兎は、自分の掌を胸の前で叩き合わせた。

「ええと、つまり。夜猫さんは、その秘密の在り処を探して、一人で行動していたと」

「そ。寮鳥会の部屋が怪しいって、ヨネの第六感が囁いてるんス。だから、式で役員が出払う今日を狙ったんスけど……まさか、って感じでさ。二人とも、マジでありがと」

 両膝に挟まれたクッションへ掌をついた夜猫は、同級生たちに向かって頭を下げる。言葉の途中で揺れた声が、静まり返った保健室に染み入る。中々顔を上げない被害者に、まさか泣いているのか、と性を同じくする飛鳥が心配して肩を叩こうとしたところで、怒りに燃える眼をたたえた夜猫が勢いよく立ち上がった。

「泣き寝入りはしないっスよ。間違っても二度目がないように、キッチリお仕置きしてやんなきゃ気が済まねえや」

 夜猫は、再び点灯したスマートフォンの液晶画面に並ぶアイコンから、受話器のマークが描かれた緑の正方形を指の腹で押した。続けて、あらかじめ登録した電話番号が並んだリストを一気に下までスクロールし、短く「パパ」と表示された見出しを叩く。間もなく呼び出し画面に切り替わった電子の板は、素早く彼女の右耳にあてがわれた。

「警視総監様に、直電で言いつけちゃうもんね」

 通話相手の応答を待つ間に、瞳孔がヘーゼルカラーで縁取られたアーモンドアイが、器用に左側だけ閉じられる。夜猫の特別なファンサービスは、彼女がウインクをした瞬間、小さな星が流れる幻覚を二人に与えた。

「あ、もしもしパパ? うん、うん、ヨネもお兄も元気。でね、ちょっとお願いしたいことがあるんスけど……」

 事の顛末を説明する彼女は時たま、端末を顔から離し、騒音という名の愛ある説教を顰めっ面でやり過ごしている。スピーカーから溢れてあまりある成人男性の低い声は、現役の警視総監が記者会見に臨んだ際、全国規模のテレビ局から生中継で放映されたものと一致していた。

「これは、ぼくたちも迂闊に悪いことできないね」

 夜猫が父親と話し込んでいる間に、桜兎は幼馴染へそっと声をかける。話しかけられた飛鳥は、彼に肩をすくめてみせてから、冷凍庫に保管された割り氷の粒を白いアイススコップで掬って、バットの上でくたびれている温い氷嚢へ冷気を思い出させた。


 夕暮れが沈み、薄雲で天上が明るく感じられる午後七時。烏寮の玄関に貼りだされた部屋割りで同室となった飛鳥と夜猫は、狐色の衣から湯気が立つイエガー・シュニッツェル――仔牛のパン粉焼きへ、マッシュルームのクリームソースをたっぷりかけたドイツ料理――に舌鼓を打った夕餉の後、寮の自室ではなく、西棟の三階にある寮鳥会室に向かっていた。提案とは名ばかりのわがままを言い出したのは、未知の可能性に瞳を輝かせながら前をずんずん進む夜猫の方だ。飛鳥が空になった自分の皿へナイフとフォークを揃えて置いた瞬間に両手を攫い、さらに上目遣いで同伴をねだる新しい友人に押しきられた彼女はといえば、足音で誰かに勘付かれはしないかと、周囲を何度も見渡している。なお、二人と同じテーブルで食事をとっていた桜兎は、大事を取って鷲寮へ直帰させられていた。別れ際、彼はもの言いたげな顔を女子たちに晒したものの、怪我人は安静にするべき、という点においては調査隊の意見が分かれることはなかった。

「正式に許可を貰ってから探す、っていう案はないの? 今日は門限も近いし」

「だからこそ! 他の生徒に見つからずに、じっくり物色できるんスよ。それに、馬鹿正直にアポ取ってたら、絶対お目当ての品が隠されちゃうっス」

「確かな証拠もないのに、夜猫さんの作戦を飛び込みで決行するのは」

 無謀、と続けようとした飛鳥の言葉は、夜猫が片手で横へとスライドさせた目的地の扉によって、いとも容易く掻き消された。

「あ、ヨネのことは呼び捨てでもいいっスよ」

――これは、彼女の気が済むまで、路線変更は出来なさそう。

 先に帰ることも許されず、夜猫に手首を掴まれて強制的に室内へと引き込まれた特待生は、決死の思いで勝ち取った一枠を維持するために提示されているいくつかの条件の中に、生活態度の水準を指定した項目があったか否かを脳内で検索する。たとえ不文律だったとしても、寮鳥会室は生徒代表のための部屋、すなわち生徒用の設備である。学校敷地内の各棟を移動するためにかかる時間を把握していなくても、新入生という肩書があれば、不用意ではあっても不自然ではない。もしも誰かに発見された場合は、執行猶予の交渉で絶対に「はい」と言わせてみせると昏い決意をした飛鳥は、今しばらくは、スマートフォンの明かりをサーチライトのように使う夜猫の宝探しを手伝うことにした。

 息を潜めて足音を殺し、動かした物を完璧に復元していっても、ひとたび部屋の電気を付けてしまえば、窓の外へ居場所を宣言することと同じだ。新旧二台の端末から放たれる光は、家具やインテリアの輪郭をおぼろげに浮かび上がらせている。

――第二次世界大戦から隠され続けている秘密、ね。単なる「学校の七不思議」だとは思うけど。

 南側の引き戸から入って右手側にある、執務に使うと思しき長机には、「処理済」「承認待」「確認中」「差戻」「未確認」といったステータスごとに用意された書類ケースが、整然と並べられている。俗にお誕生日席とも呼ばれる位置に配置されている、天板の面積が特に広い引き出し付きの会長席にも、承認用であろう大ぶりな判子が、ケース入りの朱肉と並んでいる。全国的にペーパーレス化が進んで久しい今日でも、何かにつけてアナログな手法が重宝されることを象徴する眺めだった。

 向かい合った二つの長机とソファの向こう側、方角では北側に位置する壁際には、過去の卒業アルバムがずらりと並んだ棚が右手にある。左側には、入学式における人員配置の見取り図が書き残されたホワイトボードや、千枚単位で箱に詰められたコピー用紙が足元に山積する、整頓された部屋の中では比較的雑多な印象を受ける一群があった。

 事務作業の痕跡から飛鳥が顔を上げた頃、夜猫が頬を紅潮させて眺めていたのは、部屋の南側、開き戸の面に強化ガラスが採用され、収納した中身が見えるように作られた縦長の棚だった。中に収められているのは、袖のない膝丈のコートにケープを重ね、さらに背中で布地を縫い合わせて固定した、黒のトンビコートが一着。ワードローブ内にたった一つ用意されたトルソーは、この上着のためだけに存在していた。ドライクリーニングでは光沢の源泉である油脂が落ちてしまうため、日々のブラッシングや陰干しでのケアが推奨されるカシミヤで仕立てられた外套は、綾織りにされた山羊の軟毛がしっとりと艶めいており、カビや虫食いも見当たらない。

「首席卒業者だけが袖を通せる、鸞翔高校の伝統衣装なんスよ。一期生からずーっと受け継がれてる、かなりの年代物っス」

 スマートフォンを翳していない彼女の右手が、笑う度に少しずつ硬くなる頬を支えるように添えられる。

「かっこいいっスよねぇ。うちの学校、平成終盤に制服を一新する案もあったらしいんスけど、トンビコートが合う洋服は詰襟だから却下された、なんて話もあるくらいだし」

「まるで、恋する乙女みたいな顔をするのね。夜猫は、これを着たいの?」

「んー……。物に付随したドラマが好き、って感じっス。目の前の物に、誰かの強い思いが込められてるんだ、ってのにドキドキしちゃう」

 だから、着たいっていうんじゃなくて、もっと知りたいとか、直に見たいとかが強いかなあ――己の思考を整理しながら言葉を選ぶ夜猫の様子からは、嘘をつく時に見られるような、細い弦を張り詰めた上で綱渡りをする様子にも似た緊張感が微塵も感じられない。良くも悪くも表裏のない人間なのだろうということと、こういった知識欲が旺盛なばかりに現在があるということの両方を理解した飛鳥は、奔放な彼女を叱るに叱れなくなってしまったなと内心で苦笑した。

「隣は……予算案、要望書、ボランティア活動一覧。ファイルの背表紙を見る限りでは、普通の棚みたいっスね。こっちも鍵かかってら」

「そうなると、他に隠し物ができそうな所は……」

 西側に面した会長用の机には引き出しが付いていたが、それらにも施錠されていた。加えて、相談事や掃除でも頻繁に人が行き交い、簡単に覗き見ができる位置へ何かを隠すとは考えにくい。内緒話は、知っている人が多くなればなるほど露呈しやすくなる。今回の探し物は、昔からネット上で噂になってはいるものの、決定的な証拠が未だにないという情報から、飛鳥は会長席の周りを捜索対象から弾いた。

「なんつーか、この部屋、ちょっと違和感あるんスよね」

 次の可能性を探す飛鳥の耳に、非公認ツアーの主催のぼやきが届く。

「ほら、ここって三階スけど、一階の保健室と同じ位置にあるじゃないっスか。それにしては、保健室よりも微妙に狭い気がして……」

 暗いからそう見えるだけかなあ、と後頭部をかく夜猫は、喉に小骨が刺さったような顔で、寮鳥会室を見渡している。一方、彼女の発言を聞いた飛鳥は、口元を手で隠すように覆い、視線を暗い床へ落とした。十秒弱そのままの姿勢で固まっていた特待生は、突如としてホワイトボードと未開封のコピー用紙が山積した方面へと歩き出した。


「あった……」

 予測していた以上に物が積み重なっていた部屋の北西地点から、二人で少しずつ山を切り崩した先には、一枚の扉が佇んでいた。

「すっ、げー! 飛鳥チャンてば大天才!」

「いよいよ怒られそうで、後が怖いけど」

 その場で足踏みをして喜びを露わにした夜猫は、発掘したばかりの扉へ待ちきれないといった風に手をかける。施錠できない造りの片開き戸は、簡単に奥への口を開き、二人を迎え入れた。

 到達した未知の世界は、棚、棚、棚で四方が天井まで埋め尽くされていた。窓があるはずの西側の壁も隙間なく戸棚が敷き詰められており、内側からは目視できない。入室の瞬間までは賑やかだった夜猫も、想像していた以上の光景が現実として目の前に現れた衝撃に、今日一番の静けさを見せていた。手近な位置にあった引き出しに触れてはみたものの、鍵か仕掛けかが施されているらしい木製の収納は、飛鳥の両腕で引いてもびくともしない。夜猫が感じた息苦しさは、この閉塞感に満ち満ちた小部屋を作成するために切り詰めた分の体積だったのである。

 飛鳥は、ワードローブを制作した工房が手掛けたと察せられる、戸の部分が強化ガラスになっている本棚を覗き込む。一冊の幅が辞書にも匹敵するファイルの背には、「第一期生」から始まり、先月卒業したばかりの「第百四十五期生」までが左から順番に書き込まれていた。

――卒業生の、何を、ここで管理しているの?

 部屋はほとんど汚れておらず、棚の段差にも埃が溜まっていない。人が住まなくなった家は痛む。そして、その定義は部屋にも同様に適用されるはず、と思い至った飛鳥の顔から、一気に血の気が引いていった。

――誰かが、頻繁に部屋へ出入りしている。

「すぐここを出て、早く!」

 飛鳥は、呆けたままの夜猫の手首を掴み、己よりも先に小部屋の外へと押し出した。追って自身も引き返そうと振り返った拍子に、通路の狭さと焦りが災いして棚に肩をぶつけた飛鳥は、頭上から落ちてきた一冊の本を拾わざるを得なくなった。早く元に戻さねば、と震える手がやっとの思いで掴んだのは、歴代の首席卒業生の記念写真を一冊にまとめている、四六判のアルバムだった。創設当初からデザインが変わらない制服の上にトンビコートを羽織って、寮鳥会室や教室、中庭などといった敷地内の各所で撮影された写真の脇には、被写体の名前も手書きで記されている。文字は卒業生本人が書いたものらしく、筆跡はバラバラだ。他に落ちたものはないかとスマートフォンの画面を床へ翳すと、飛鳥は裏返しになった写真を見つけた。きっと剥がれてしまったのだろう、と紙片を摘み上げた少女は、印刷面の汚れを確認するために手首を捻り――その刹那、彼女の瞳孔は拡がって揺れた。

「……かあ、さん?」

 白枠の中で微笑む少女は、首席卒業者の証であるトンビコートを羽織っている。背景は、カーテンが微風になびく、寮鳥会室の窓辺だ。やや色褪せた写真の中心に佇むモデルは、飛鳥の母親である海と同様に、左右の耳垂にピアスのような黒子があった。しかし、被写体の名前の手掛かりとなる付記を求めて裏返しても真っ白で、母体であるはずのアルバムにも空白のページはない。

――鸞翔高校が母さんの母校であることは、幼い頃のいつかに聞いた。

 二度と会えない両親のうち、通った高校が残存している母の面影を学び舎に求めたのも、飛鳥が鸞翔高校を志望した理由の一つだった。

――でも、この少女の名前が仮に「海」だとしたら……どうして、この写真は、仲間外れなの?

「飛鳥チャン」

 手持ちのカードでは答えが出ない思考の泥沼に嵌りかけた飛鳥を引っ張り上げたのは、先に秘密の部屋から脱出し、寮鳥会室と接続している出口から覗き込んだ夜猫の声だった。

「あの、大丈夫スか? 気分でも悪い?」

「……ごめんなさい、平気よ」

 居場所のない写真をアルバムに挟み、収納できる手ごろな隙間を探す。すると、飛鳥の視界の隅では、タイプライターに似た形の器具を収めたガラスの引き戸が半開きになっていた。機材に気を遣ってか、道具の横には数センチの隙間もある。タイプライターにとって最も重要な部品であるキーボード以外にも、歯車型のホイールや、古めかしいガスコンロで見るようなツマミが埋め込まれた箱の用途に疑問を抱きつつ、少女はアルバムを差し込んだ。


 障害物を移動させる前に撮影しておいた写真を頼りに、急いで隠し部屋を封じ込めた二人の額には、季節と時間に見合わない玉の汗が浮かんでいる。特に、直前の飛鳥の様子と体調を案じた夜猫は、重い用具の運搬を自ら進んで請け負ったため、肉体労働の余韻が全身に広がっていた。

「つ、疲れたぁ……」

 革張りの四人掛けのソファにうつ伏せで横たわった夜猫は、くぐもった声でぽつりと言ってから、しばらく動きを止めた。飛鳥としては、物理的にも危険と隣り合わせである寮鳥会室よりも、二人のために用意された寮の自室で休息を取りたかったが、その願望を実行するべく身体を動かせない程度には、異常事態の連続に頭が追い付いていなかった。自重で結び目が落ちてきたポニーテールを解き、赤いリボンをポケットへ入れた飛鳥は、近くの壁に背を預けた。

――夜猫が探していた秘密かどうかは分からない。本当は、単なる物置かもしれない。

 けど、何かが意図的に隠されている気がするのは、きっと勘違いじゃない。

 夜猫が屍のように伸びていたはずのソファで突然鳴った音は、先の出来事を真剣に反芻する飛鳥を無視して、新しい玩具を与えられたばかりの子どものように無邪気な笑みの少女が飛び起きたことにより発生したものだった。

「何アレ。絶対、ぜーったい面白いじゃないっスか!」

 暗闇に慣れた飛鳥の目で捉えた夜猫の表情は、お手本のような満面の笑みだった。

「隠し部屋ってだけでワクワクしてたっスけど、あんないかにも怪しいですって内装、そうそう拝めるもんじゃないっスよ! アルファベットが書かれた資料もあったけど、どうも英語じゃなさそうだったし。そもそも、何のために集めてんのかってのも調べたすぎる! ね、ね、再チャレンジしたいんスけど、明日はさすがにダメ?」

 食堂で探検に誘ってきた時以上に輝く瞳で迫る夜猫と、壁際で逃げ場がない飛鳥。危機感というものが備わっていないのかといぶかしみつつ、距離を取るために両手を胸元へ上げた特待生の顔つきは、大層苦い。

「ちょっと! 今日みたいなのはもうダメ、危ないわ」

「でも、先生とかの監視付きじゃ、さっきの部屋は入れないっスよね」

 学校が隠そうとしているものの解明を、教師が容認してくれるとは思えない。そう話す夜猫の言には異論がない飛鳥は、上げていた手を下ろして腕を組んだ。

――私も、あの写真の子について調べたいけど。

 自由に部屋へ出入りができて、かつ、怪しまれない立場でなければ、あの膨大な量の調査を完遂することは不可能だ。加えて、開かない棚が大半とくれば、部屋に侵入できるだけでは意味がない。鍵を持っているか仕掛けを知る管理者か、それに準ずる、一時的な貸与が認められる地位が必要だった。瞼を閉じて思案していた飛鳥は、そろそろと目を開ける。

「……あくまで、可能性の話だけど。寮鳥会の一員になれたら」

 件の隠し部屋への通り道である寮鳥会が、秘密と無関係であるとは考えにくい。加えて、当該組織に所属する生徒の選抜方法は、教師陣からの推薦である。公表されている生徒代表としての仕事以外にも、彼らには何らかの権限が付与されているのではないか、というのが飛鳥の推測だった。

――寮鳥会に、選ばれれば。

「新学期初日から夜更かしとは、感心しないな」

 飛鳥が夜猫へ説明するために開けた口から言葉が出る前に、男性の低い声が水を差す。パチ、という軽い音で明るくなった部屋の入口を揃って振り返った二人の視界に飛び込んできたのは、入学式後の説明会で「軽率な行動は慎むように」と睨みを利かせた戌月が、押下したばかりの照明のスイッチから人差し指を滑らせる姿だった。彼の右手には、下へ向けられた懐中電灯が握られている。作戦会議に没頭していた女生徒たちは、校則の番人たる会長が校舎内を巡回する足音を聞き逃していたのだった。

「門限はとっくに過ぎているぞ。名前と学年、それからクラス、を……」

 手持ちのライトを暗くしながら歩み寄ってきた彼は、飛鳥から夜猫の順番で顔を確認した途端、油の切れた機械のように突然立ち止まった。首を傾げる飛鳥とは異なり、夜猫は誰もいない方角に向かって口笛を吹いている。ウルフカットの襟足で見え隠れする首筋には、薄っすらと冷や汗が流れていた。

「君は、彼女に巻き込まれたのか?」

 飛鳥と目を合わせた戌月は、消灯した懐中電灯の先を夜猫に向けている。彼の声色は、凛として張りがあった第一声から一転、疲労と呆れが滲むものへと変わっていた。

「……最初は、まあ、そうですね」

 男子生徒からなされた質問に、頭の上に疑問符を浮かべたままの飛鳥が応えると、戌月は深い溜め息をついた。ついでに、左手の親指と人差し指を眼鏡のブリッジの上へと回して、皺の寄った眉間を揉んでいる。

「あのな、ヨネ。そんなに俺を胃潰瘍にさせようと頑張らなくていいんだぞ」

「お兄、今日は大目に見て欲しいっスぅ」

「今日はじゃなくて、今日も、の間違いだろ……」

 腰に手をあてて項垂れた会長が夜猫の実兄であることが飛鳥に明かされたのは、二人が無断で門限を破ったことに関する説教が始まってからのことだった。

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