スピログラフ

白日朝日

第1話「ゆびとくちびるをつなげる赤い糸」

 ひとりきりのあやとり。

 わたしは二段ベッドのはしごに腰かけ、赤い糸で菊の花を手繰っていました。枕から蝶、蝶から菊花へ、形の変化は胡蝶の夢のように、わたしは少しずつ現実感を失い、幼い頃の記憶へと連れ去られてゆくのです。

 わたしの背が姉と頭一つ違っていた頃、ふるかわゆきねと記された大ぶりな定規が一つノートの上によく置かれていました。

 強めの桃色が配された半透明のプラスチック。定規の内側両サイドに大きな円が開けられ、中心にある歯車の穴に鉛筆を差し込み、円に沿うようぐるぐると歯車を回せば、あやとりの菊花のような図形が描かれるのです。

 スピログラフ――そんな名前のおもちゃ。

 姉のために父が買い与えたものですが、欲しがる様子を見かねてかすぐにわたしへプレゼントしてくれました。

 だから、『ふるかわゆきね』は大好きなお姉ちゃんの名前。文字通りの名残。

「お姉ちゃんはいつだって、誰よりも優しい」とわたしが言うたび「優しくないよ、ひな」と返す姉。けれど、わたしが困ったときはいつだって傍にいてくれました。

 ああ、そうです。わたしはヒナ、古河陽菜。

 自分の巣に篭もって、手助けがなくては生きられないわたしにお似合いの名前。

 太陽の下で輝く花のよう育って欲しい、そんな意図で名付けたのだと母は語っています。今のわたしは間逆で、今日も学校を休み自室で手遊びに耽るだけでした。

 何も無い日々、スピログラフのような、回ってずれて戻ってくる日々。

 けれど、今日は嬉しいことが一つだけあります。

 本日、十二月二十二日は、終業式。待ち望んだ冬休みが始まります。

 いつも休んでいるわたしにとって、冬休み自体は特別嬉しいものではありません。ただ、お姉ちゃんといつも一緒に居られることが、わたしの胸を高鳴らせてしまうのです。

 菊花の隙間から窓の外をうかがい、姉の到着を心待ちにするわたし。

 わたしのお姉ちゃんへの好意は、きっと、家族愛の範疇から外れてしまったもので。

 今も窓の外に出ることをためらっているわたしは、お姉ちゃんを家の中に、わたしのそばに繋ぎたくて、思いだけがぐるぐると、菊花を描いてしまうのです。

 今日からはずっとお姉ちゃんと一緒にいたい。身体をひっつけたままいたいし、同じ空気を吸っていたい。ああ、時計の針の音だけがやけに大きく響いて、かちかちくるくる、かちかちくるくる。どうにかしなければ、どうにかなりそうな気持ちが膨らんでゆくのを、二つのおっぱいに触れ、意識してゆくのです。

「お姉ちゃん、会いたいな」

 手のひらを跳ね返す、確かな胸の鼓動。毎日会っているのに、こんなにも、好き。

 三度ほど菊花を解いた頃でしょうか、扉の外から規則的な足音が響いてきました。誰に教わるともなくこれが姉の歩く音色だと身体が覚えています。わたしは自然と扉まで向かい、鍵を開けます。

「ただいま」

 玄関ドアの開く音、射し込む光に短い言葉。わたしの待ち望んだ周波数。合わされるチャンネル。

「おかえりなさい。お姉ちゃん」

「うん、ただいま。ひな」

 高校に入って遠慮がちにブラウンを入れた髪。揺れるポニーテール。

「終業式、どうだった」

「大過なし」

 そう言って、姉は後頭部の尻尾をほどきます。ふわりと舞った涼やかな香りはわたしと同じシャンプーのフレグランス。

「そうじゃなくて、何かわくわくするイベントとかはなかったの?」

「毎日がわくわく」「そんなキャッチコピーみたいな日々、ウソっぽいよぉ」

 はぐらかすような言葉に浮かべた笑みは、包みこむようで。

「毎日がワークワーク」「それはつらいね」

 冗談を言って笑い合える空気は、やっぱりずっと手に届く場所に置いておきたくて。

「ひなは?」問われる言葉に少しの勇気を込めて答えます。「わたしには、お姉ちゃんの帰宅が何よりわくわくだよ」

「じゃあ、一日に何度も帰ってくるね」

「ちーがーうー、一緒にいられるのが嬉しいってこと」

「うん。かわいいね。ひな」

 勇気をこめて伝えた言葉を簡単に受け流し、笑顔でわたしの頭を撫でる姉。くすぐったさは、胸裡のそれとよく似て。

「えへへ」

 でも嬉しい。手のひらの優しさも、髪を下ろした姿も、家族の前だけだと知っているから。

「お帰りなさい」改めて告げる。「ただいま」姉の返す何より安心出来る応答。わたしはそのまま姉を抱き寄せる。制服のブレザーは少し硬くて冷たい。

「あったかいね。ひな」

「うん。お姉ちゃんのための体温だから」

 姉は少しだけ笑って。わたしたちの冬休みは、そうして始まったのでした。

 お姉ちゃんとは同じ部屋で暮らしています。部屋の隅に鎮座した二段ベッドがその証左。わたしは下段で眠りお姉ちゃんは上段で、そしてときどき一緒に眠ります。

 わたし一人だと淀みそうな空気も、お姉ちゃんの呼吸でゆっくり入れ替わってゆきます。その空気は春みたいな匂いで花の香りと生命感に溢れ、わたしを吸い寄せるのです。

「ひな、ひっつかない」座った状態でお姉ちゃんに抱っき。「ダメ? この部屋、暖房ついてないから」

 姉の言葉には従わずにどんどん擦り寄っていきます。

「姉力エアコン……」

 呟かれた架空の家電製品がわたしにとってなんとも魅力的です。

「一家に一台欲しいところだね」

「でも、妹力エアコンの方があったかい」

 お姉ちゃんは、抱きついてきたわたしを嫌がらずにぎゅっと受け止めます。

「ほんとう。お姉ちゃんの方が冷たいや」

「うん。外、もうすぐ雪降るって」

 わたしは姉に身体をあずけたまま空模様に目を遣ります。そこにはナチュラルメイク程度にファンデを施した曇天が広がっていて、わたしの中にホワイト・クリスマスへの期待を高めてくれます。

「じゃあ、もっとくっつくね」

「ひーな。着替え、できないから」

 姉に諭され。

「手伝いは?」「不要」ぴしゃりと。

 夕食が近い時間に差し掛かりましたが、気づいたら何の準備もしていません。

 わたしはベランダの洗濯物を取り込むと、すぐに台所へ向かいご飯を研ぎます。この家は母とわたしたち姉妹の三人暮らし。お母さんは夜遅くまで働いており、家事は娘二人で行っています。

「水、冷たいやー」

 お湯で研ぐことも出来ますが、お母さんに冷水の方が美味しく炊けると聞いて以来、冷水で研いでいます。吸水率がどうとかで、水の染み込みが均一になるそうです。

「っ痛――」

 左手の人差し指にあかぎれができたようです。ちょっと生々しい亀裂。

「ひな、どうかした?」

 姉がキッチンをのぞきにきました。

「あーかーぎーれーおーばーけー」

 わたしは切れた部分を姉に見せながら近づいていきます。

「はいはい。ひな、交代」

「んー、この程度なら大丈夫だってばー」

「だーめ。お姉ちゃん権限」

 そう言われたら抵抗できません。

「水が冷たい……」

 姉は家事に慣れていないので見てる側としては少しハラハラです。

「切り方わからぬ……」

 包丁を持ち一点をじつと見つめる姉の様子。おおよそ家事を行っている光景に見えません。

「て、手伝うよ?」

 ある種の警戒とともににじり寄ってみますが。

「手出し無用で御座る」

 手伝いを断られ、わたしは少し遠くから姉を見守ることに。どきどき。ああ、自分の時より緊張します。お姉ちゃんは左利きなので包丁を持つ姿もぎこちなく見えてしまって。

「つっ……斬り捨て御免」

 お姉ちゃんが軽く痛がりました。

「斬ったのっ?」

「なんのこれしき」

 慌てて姉のところに向かい、おもむろに右手を取ります。人差し指の第二関節から流れる赤い糸。床にぽたりとひとしずく。

「またつまらぬものを斬ってしまった……」

 お姉ちゃん、痛そう。こんな優しいお姉ちゃんが傷つくなんておかしいよ。ああ、でもきれい。お姉ちゃんの白い肌に浮かぶ青の血管を撫でて、揺れて落ちる赤が、とても。

「冗談いい。患部を心臓より上にあげて、切ったとこの近く押さえて止血」

「ひな、大袈裟」

 赤い雫。きれい。

「ちゅぶ」

「ひ、ひなっ?」

 ――キス。

 お姉ちゃんの手から流れる赤を指全体にまぶすよう、わたしは舌に血をのせて、お姉ちゃんの傷口を舐めとります。お姉ちゃんのカラダの中の温度、そして味が、わたしの神経を伝わって脳へと届いてゆきます。

「ん、おいし……」

「な、なめないでったら」

 お姉ちゃんが慌てています。

「動いちゃ駄目だよ。こぼれちゃうから」

 舌の神経で、お姉ちゃんの骨の形まではっきりとわかる。少なくとも今のわたしの口内はお姉ちゃんの骨と血を理解しているのです。頭でなく口で触れて理解する――これが、お姉ちゃんとのファーストキス。

「もういいよ。ひな、大丈夫」

 お姉ちゃんの『大丈夫』はお姉ちゃん権限よりも強い抑止力を持ちます。

「うん」

 ゆっくりと口を離す。赤い半透明の液が、指と口との間に橋を架けていました。その橋はやがて細くなって……途切れて。

「消毒ありがと。ひな」

「うん」

 わたしはきっと赤面していて、姉の顔を見ることもできません。

「じゃあ、ここからはわたしが作るね」

「任せた。ひな隊員」

「うん」

 メインの肉じゃがの完成を待ったようにお母さんが帰宅し、料理をローテーブルに並べると三人で食事をとりました。

 この家にはお父さんがいません。随分昔に交通事故で亡くなってしまいました。三人の食事にはもう慣れたけれど、それでもテレビをつけていないと、少しだけ寂しい食卓になりそうで、わたしたちはテレビを消すことができません。電灯の煤けたシーリングに、お父さんのタバコのヤニがこびりついていて、今もほんの少しだけ食卓に影を落としています。

 美味しいと言われた料理の味より、お姉ちゃんの血の味が舌に残る食事の時間でした。

「ごちそうさま」

 わたしは二人と顔を合わせずに、少しだけ早く居間から去って行きます。なんであんな行動をしたのだろう、と悔いる気持ちが表に出てきて、今にも足場を失いそうな思いでした。ああ、何もなく人といることって、なんでこんなに難しいんだろう。

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