昨晩の夢

 今朝は少し頭痛がした。宿酔になるほどは飲んでいないのだがなぜだろう。六畳一間の、本に埋め尽くされた狭い下宿暮らしではあるが、布団の中はやはり落ち着く。後頭部の沈むような鈍い痛みの中、ぼんやりと天井を見上げる。窓からは、もう高いところで穏やかに下を照らしているであろう陽の光が射し込んで、埃と紙と畳の匂いがする。




 手を頭にやって、ふと爪を自分で見てみた。長い。昨夜も枚岡に笑われた。下品な笑いだ。女の有るなしでなくて、枚岡が見ているのは房事の有るなしだ。下世話にもほどがある。




 そのまま手を額にやって、少し熱があるのがわかった。手は驚くほど冷たかった。だんだん起き上がるのも億劫になって、またぼんやりと考え事を始める。身体は弱い方ではないのだが、慣れない集まりや、人がたくさんいるところなんかへ出向くと、決まって翌日は寝込んでしまう。枚岡は、人気にあてられたのだ、というが、なんだかわからない。




 霍翠は昔から一人でとりとめのない考えを巡らすのが好きだった。兄弟とは年も離れていたし、末っ子の霍翠は自然と口数少ない読書好きの少年になっていた。父は漢学者で、母は貞淑な妻であったから、本ばかりの霍翠を咎める人は誰もなく、むしろ兄弟達が学問をあまり好まないので、喜んで助長していたのかもしれない。そのまま学問にのめり込み、人との関わりを得意とせず、部屋に引きこもるほどになるとは両親も予想外だったようだ。とにかく霍翠は周囲が心配するほどの活字中毒を治せずに、民俗学者になるべくしてなったのだ。一、二週間外出しなくても咎められないし、本を読んでいられるし、考え事も自由にできた。問題なのは、もっと本が必要なのにそれを買う金がないというそれだけであった。




 いまの研究題材は『妖怪としての月』についてである。昨夜の話題は研究に被っていたためにすぐ答えることができた。日本神話でも記紀の月読命が出てくるし、竹取物語も月がからんでくる話だ。地方の民話にも月は出てくるだろう。唐代の桂男に、印度の民話にも見当たる。昼の太陽、夜の月。強大な影響力のある光を神格化しないわけがないのだ。まだまだ資料が足りていない。原稿料で生活はなんとかなっているが、資料費までは手が回らない。また何か書かなくてはいけないな、と思ってため息をついた。




 月といえば、昨晩はなにか変な夢を見た。会合での疲れと、言葉に表しにくいやるせなさのようなものを抱え、帰りついて、本を開く気にもなれず、布団の端に壁に寄り掛かるようにして座り込み、月を見ていた。窓を開け放して外出したのだ、なんと不用心なことだろう。昨晩は満月だった。なにも考えられない頭で見上げる月のなんと美しいことか。なにかどうでもよくなってしばらく放心していた。




「……霍翠先生…………」




ハッとして目を開けると自分は涙を垂らしていた。静かな声ではっきりと名を呼ばれた。誰も呼びはしない、かくすい先生、と。頭も視界もはっきりしない中でそれは女だとわかった。




「……霍翠先生……」




また聞こえるが、意識がはっきりしない。ただ、柔らかい衣擦れの音と、自分の服が脱がされる感覚は感じていた。そのときは何も不思議に思わず、彼女に身を委ねて夢うつつをさまよい、たまに触れる冷たい絹糸のような髪の、甘く不思議な香りに酔っていた。声色は優しく美しく、微笑みのような柔らかさで頭を満たしていく。いままで感じていたやるせなさや寂しさが流されていくのを感じた。誰でも構わない、僕を貶めないで側にいて欲しい……。そんな妄想が固まった、感覚のある夢だった。暗がりに彼女の顔が見えるわけもなく、なんとなく月のような人だと思った。




 どこまでが現実でどこからが夢か、全くわからないが、ちゃんと布団がかけられて横になっていた。あるいは、自分で寝惚けながら服を脱いで布団をかけたのかもしれぬ。起きた瞬間の満たされた心と、前よりも重くなった寂しさのせめぎあいがどうしようもなく苦しかった。確信はできないが、彼女に会うのはこれが初めてではない。名を呼ばれたとき霍翠は確かに『まただ』と思って目を開いた。彼女が誰なのか、または自分の妄想なのか、考えれば考えるほどに苦しくなる。




 なんとか布団から抜け出て煙草を咥えたとき、戸を叩く音がした。枚岡だ。




「小川ぁ、生きてるか」




今日もまた上機嫌にやって来た。この男が怒っていたり不機嫌だったりするのをあまり見たことがない。いつでもにやけ面で人を馬鹿にするような態度でいる。不愉快に感じながらも無下にできないのは




「昨日はずっと酉陽雑俎がどうのって話してたからな、見舞いに蔵から出してきてやったよ。うちの誰かが読んでたらしい。まだ新しいから安心しろよ」




と、こういうところがあるからである。霍翠自身も、とんでもなく嫌な男に捕まったと思っているわけではない。彼に頼らなくては作家も民俗学者も名乗れないところまできてしまっている。




「……また熱があるんだ……。悪いが今日は……」




「わかってるさ、すぐ帰る。薬飲めよ」




「ア……それと、一週間ほどこもるから、……来ないでくれ」




「ああ、差し入れは戸の前に置くさ。じゃあ」






 悔しいことに霍翠自身をわかっている人は、両親を亡くしてからは、彼をおいては世界のどこにもいない。




「もう酉陽雑俎は揃っているんだがなぁ……。出版が違う……? いや同じか、」




受け取った本をとりあえずすべて本棚に納めてしまうと、気を取り直して煙草に火をつけた。




 枚岡が訪ねて来たときの感情と、昨晩の夢で名を呼ばれたときの感情と、よく似ている気がした。自分をよくわかってくれる人が側へ来たこと、というのが共通しているのか……。頭の中がごちゃついてきた。なにがなにやらわからない。頭痛と相まって、苛立ちが募っていく。窓に映る自分は随分と酷い顔をしていた。




 脚の短い、傷だらけの粗末な机に向かう。これも枚岡から譲り受けたものだ。灰皿と原稿用紙とペンとが乱雑に載せてある。とりあえず書きかけで詰まっている短編を仕上げてしまうことにした。近頃は論文を書いているよりも雑誌へ出す原稿に向かうことが多い。霍翠は無名だし、童話が主で枚数も少ないのでたくさん書かなければ稼げない。




 台詞のあとの地の文で詰まっていた。相思樹伝説を脚色した物語を書いていた。




『側にいることも許されないなら、いっそもう死んでしまいたい』




 急に自信を無くしたような、インクの掠れた小さな字で書かれている。まだ三枚しか書いていないのに、童話として出して良いものか迷ったのだろう。慕い合った夫婦が引き裂かれ、お互いに自死を遂げる。一緒に埋葬してくれと遺言を残すも叶えられず、離されて埋められてしまった。しかし墓からそれぞれ梓の樹が伸び、根を絡め枝を絡め、死後やっと側にいられるようになったという、美しくも悲しい物語である。




 霍翠には、女の心情が追いきれない気がしはじめた。愛するものと引き裂かれたとき、身が裂かれるほどの悲しみを抱えたとき、人はどんな顔をするのだろう。作家は実際に経験したことがなくても、自らが美しいと感じたものを表現するために、想像の中へ潜って、イメージを一生懸命に捕らえるものだ。その過程が楽しく、実際できていると思うので、こうしてペンを握っているのだが、今日はなんだか変に現実的になってしまって上手く夢に入っていけない。愛しい男との仲を引き裂かれた、死にたくなるような傷を負った女がどんな顔をするのか。考えようとすればするほど昨夜の夢が耳の奥から響いてくる。脳が痺れているような……なにも考えられない。あの女がいったいどんな顔をしているのかすら知らないのに、知らないはずのその顔が水面に浮かんでは沈んでいくような。自分が考えることは他にあるのだとわかっているのだが……。




 煙草が非常に不味い。突っ伏すように倒れ込んで、思い出したかのように襲ってくる頭痛に耐えようと思った。今日はきっとなにも書けない。ぼんやりと原稿を見つめ、霞んでいく文字のなかに、なんとなく昨日の夜の匂いを感じたような気がした。


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