女神の腕に抱かれて〈前編〉― Falling Love in the Goddess Arm ―

スイートミモザブックス

第1話

 教会の鐘の音が高らかに鳴り響く。と同時に、美しい花嫁とたくましい花婿が戸口に姿を現した。教会前の広場に集まっていた群衆が、わっと声を上げ、拍手喝采する。祝福の声に包まれた花嫁と花婿が、たがいに見つめ合い、笑みを交わす。一瞬ののち、花婿が花嫁をさっと抱きかかえ、その美しい唇に甘いキスをした。

 歓声がさらに高まったそのとき、王冠をかぶった恰幅のいい男が貫禄たっぷりの足取りで歩み出て、よくやったといわんばかりに新郎の肩をぽんぽんと叩いた。新郎が新婦をそっと地面に戻す。

 そのすぐわきから、すらりと背の高い男が現れた。新郎と肩を抱き合ったあと、新婦の両頬に祝福のキスをする。その表情には、真のよろこびがあふれていた。


 女は、新婦の一歩うしろに控え、その情景をながめていた。新婦に笑みを向ける男を見つめ、そっと胸に手を押し当てる。まるで、男への想いを抑えこもうとするかのように。そこから先に進んではいけない、と自身を制するかのように。

 けたたましいクラクションとともに、教会の前に黒塗りのリムジンが到着し、花嫁と花婿を乗せると、ふたたびクラクションと背後の缶を騒々しくかき鳴らしながら群衆の合間を抜けて去って行った。

 そこにいた全員の目が去りゆくリムジンに向けられるなか、女だけは新郎新婦を拍手で見送る男の背中を見つめていた。そのうち女はふっとため息をもらし、ひとり教会のなかへと戻っていった。



     ◆     ◆     ◆     ◆



 まただ……。

 ノアはサイドテーブルの時計に目をやり、〔3:00AM〕の表示を確認したあと、天井を見上げて深いため息をもらした。

 またこの時間に目が覚めてしまった……。もう3日連続だ。

 もう一度眠ろうと、しばらく目を閉じてみたものの、眠気はふたたび訪れてくれそうになかった。

 あきらめるか。

 今度は小さなため息をついてから起き上がる。大理石の床が、ひんやりと心地よかった。

 バスルームで軽くシャワーを浴びてから、キッチンでコーヒーをいれる。コーヒーカップ片手に窓辺へ行き、勢いよくカーテンを開けた。

 見えるのは暗闇だけだ。

 あたりまえだ。まだ夜明け前なのだから。

 しかたなくコーヒーを手にしたまま書斎へ向かい、PCを立ち上げる。メールや世の中のニュースを確認したものの、とくにこれといって興味を引かれるものはなかった。

 それでも小一時間ほどPCの前にすわっているうちに、窓の外がうっすら明るくなってくるのがわかった。

 ノアは立ち上がり、窓を大きく開け放つと、爽やかな空気をいっぱいに吸いこみ、あたりの景色を堪能した。眼下には美しく整備された芝地が広がり、咲き乱れる花々が鉄門へとつづく砂利道を縁取っている。浅緑色の芝地のところどころに、樹齢数百年はありそうな巨木がそびえ立ち、深緑のコントラストを添えている。

 もっとも、いまはまだ、どこもかしこも薄い朝焼け色に染まっているが。

 ノアは空になったコーヒーカップをキッチンのシンクに置くと、ジーンズとTシャツに着替え、車のキーを手に部屋をあとにした。

 ドライブにはもってこいの、美しい朝じゃないか。


 赤いスポーツカーで宮殿の門を抜け、海を目ざす。道路にほかの車はなく、海岸通りを100キロ以上のスピードで飛ばしていく。

 父上が知ったら、怒るだろうな……。

 ノアはふと口もとを緩めた。

 なにしろノアの父、すなわちこのマルル王国の国王は、ことあるごとにノアに自身の立場をわきまえさせようとする。

 おまえは王太子だ、次期国王だ、おまえの身はおまえだけのものではない、自分で車の運転なんぞするものじゃない、だれか臣下の者にさせればよいのだ、ましてや猛スピードで車を走らせるなど、もってのほかだ!

 国王はとても先進的な考えの持ち主ではあるものの、妙なところで保守的になる。

 いや、あれも親心というものなのだろうか……。


 そんなことを考えているうちに、キイアカ海岸に到着した。

 やはりここからの眺めがいちばんだ。

 ノアは車を停め、まだひんやりと湿った砂浜に降り立った。

 朝日を浴びて、海面がきらきらと輝いている。神々しさすら感じる光景だ。

 ここキイアカ海岸には、アイラという女神の伝説がある。愛する男との恋をあきらめてまでこの海岸と島を守り、ここに眠るアイラのことを、マルル王国の国民みなが崇め、愛していた。

 ノアはふり返り、背後の丘にそびえる建物に目を移した。

 巨大な白い宮殿にも見えるその建物こそ、ここ数年にわたり、ノアが率先して建設を進めてきた高級リゾートホテル〈ザ・ハート・リゾート・イン・マルル〉だった。

 まさに理想のリゾートだ。

 ノアは満足げなため息をもらすと、海に目を戻した。

 そのとき、海面を進むなにかが目に入った。

 え?

 ノアは数歩足を進め、目をこらした。

 あれは……いったい……?

 ……人か!? しかも……?

 それは、裸の女性だった。ノアの姿がまったく目に入っていないのか、すいすいと海面を進んだり、ときおり止まって気持ちよさそうに両手を上に掲げて豊かな胸を惜しげもなくさらしたりしている。

 顔はよく見えないが、背後から朝日を浴びた彼女の姿は、まるで後光が差しているかのようだった。

 ノアは、そのあまりの美しさに息をのんだ。

 女性が、両手を掲げたまま海面に仰向けになり、ぷかぷかと浮かびはじめた。一糸まとわぬ全身が露わになる。

 ノアははっとわれに返り、どういうことなのかとあたりをきょろきょろと見まわした。しかし海に目を戻したときには、女性の姿は消えていた。

 消えた? どこへ? あの岩陰か?

 ノアは海岸の左手にある岩場へ向かおうとしたところで、ふと足を止めた。

 そこへ行ってはいけないような、女性の正体を探ってはいけないような、そんな気がしたのだ。

 いまのは……もしかしたら……女神アイラなのか?

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