第41話 地球は青かった。けれど神はどこにもいなかった。

 ステージの上で校長先生が話している内容を、果たしてどれだけの生徒が聞いているのかカウントしてみたくなった。8割の人間は退屈な時間が過ぎるのをひたすら耐えて、1割は耐えきれずスマホを隠して操作し、あとの1割は寝ている。つまり誰も聞いていない。

 原稿を作って人前で読み上げるのがどれだけ大変なことかを理解したマヒロからすれば、ちょっとだけ哀れでもあった。だからせめて話を聞いておこうと心構えを作ったはいいものの、内容は極めて抽象的で、かと思ったら現実に即した具体的な事例に主題が移ったりもする。つまり、校長は極めて記憶に残りにくいタイプの話をしていた。

 そう判断を下すと今度は生徒たちが哀れに思えてきた。結局のところ、この手の集まりというのは往々にして意味がない。

 だがマヒロを送り出してくれる気持ちは、素直に受け取ることにした。

 整列した教師たちの中で一際、身長の低いマヒロは緊張した面持ちで出番を待つ。


「それでは、本日が最後となる戸森マヒロ博士に挨拶してもらいます。博士、どうぞ」


 胸を張って登壇する。あくびをしていた生徒たちの視線が集まるのを感じた。

 マイクを前にし、体育館の中を見渡す。2年1組の中にサトルがいた。真っ直ぐマヒロのことを見ている。おかげで勇気が湧いてきた。


「この世の中は実に奇抜なアイデアで溢れかえっています」


 凛とした声がスピーカーから流れる。。そもそも、あれは本当のハジメじゃなかった。マヒロが好ましいと思い込んだ幻想の人格である。本当の彼女はどちらかといえば根暗で、独占欲が強く、思い込んだら突っ走ってしまう傾向があった。


「例えばの話です。よく知られたある原子と、ある原子が結合をしている。それを摂取すると身体に良い。そう主張する者がいます。しかしそれは、化学的に有り得ない化合物だったりします。皆さんが高校の授業で習ったことを思い出せば、その主張はインチキだと判断できます。日本語はちょっと厄介で敢えてケミストリーを表す『ばけがく』とサイエンスを表す『かがく』と言わせてもらいました」


 原稿なんて用意していない。

 けど、このテーマを話そうと思った。

 たくさんの人の前で初めて『戸森マヒロ』として喋っている。


「他にもたくさんあります。幽霊であったり、占いであったり、あるいは神であったり。人間が信じるものは何だろう?と、よく考えています。わたしにとって人間は遠い存在のように感じていました。だから子供の頃……と言っても、わたしは年齢的にはまだ子供ですが……地球上には、わたしの友達になれる者はひとりもいないと考えていました。宇宙へ行けば友達ができるかもしれないとも思っていました。皆さんはユーリィ・ガガーリンを知っていますか? 史上初めて宇宙へ行った人間です。わたしはガガーリンに憧れていたので、彼の言葉が好きでした。原典とは異なりますが『地球は青かった。けれど神はどこにもいなかった』です。宇宙から見た地球とは、そういうものなんです」


 教師たちも、生徒たちも、誰もがポカンとしている。

 面白おかしい話を期待されていたのかもしれない。

 あるいは月並みな感謝の言葉を予想していたのかもしれない。

 言葉を区切って、敢えて沈黙を作って会場を見渡す。サトルだけは神妙な顔をしていた。


「これからする説明はざっくりとしたもので正確ではありませんし端折っています。そこだけ注意してください。ロケットはとても重いし、いわゆる重力というものに引っ張られています。大気には空気抵抗があるし、地球は惑星運動をしている。脱するには莫大なエネルギーが必要。地表から離れれば離れるほど空気は薄くなるから揚力を必要とする翼は使えません。燃焼させて推進力を得ます。その推進剤は酸化剤を混ぜる形式の液体燃料もあれば、ヒドラジンのように危険だけど一液式のものもある。構造を支持するには材料力学の知識も当然必要で、宇宙線や大気との断熱圧縮に耐えることも要求されます。その妥当性を検証するためには数学的な計算も欠かせません」


 すらすらと続けられる。

 宇宙に行こうとしたのも本当の話だ。

 ハジメと出会う数週間前の、ほんのひと時だったけど。


「この中でひとつ取り上げましょう。高校の物理では加速度という概念を習います。単位時間あたりの速度の変化率のことです。速度を微分すると加速度になります。これはまぁ、置いておきましょう。質点にこれを乗じるとニュートンの運動方程式となります。アイザック・ニュートンの話は歴史分野になるのでこれも割愛しましょう。エネルギー保存の法則というのも一緒に教えてもらいます。古典力学という分野に当たります。なぜ古典か? 後に、量子力学が生まれたからです。量子の振る舞いはニュートン力学では論じることができなかった。でも、ニュートンは偉大なんです」


 校長の話よりずっと短くするつもりだ。

 けれど複雑怪奇な内容だと思われている。

 退屈させるつもりはない。マヒロは自分の内側から滲み出る確かな力を感じていた。

 それは、マヒロ自身が信じる科学的なものとはかけ離れている。


「では、空に向かってボールを投げたとます。教科書に載っている問題ですね。与えた初速度を鉛直方向と水平方向の成分に力を分け、発射角度も把握しているとします。一定の時間が経過したとき、このボールがどこに落ちているのか? 空気抵抗などが無いという理想的な条件を付け加えれば、それを予測できます。あぁ、角度を使うので三角関数の知識も必要ですね。これらの約束事。すなわち、科学です。条件を整えれば誰がやっても同じ結果となる……再現性があるのが、科学です」


 息を吸う。ひと呼吸の度に酸素が染み渡って細胞が活性化していくようだった。

 集まった人々はマヒロの雰囲気に呑まれている。

 喋っている内容に関わらずだ。


「わたしは疑問を抱きました。人間の心を科学の対象とすることは可能なのだろうか、と。人間の心には再現性が無いように観察できたからです。そこで真っ先に浮かんだのは教育学です。一般レベルであれば褒めれば良い子に育つ、叱れば自尊心を失う、そんなことが囁かれています。もっと専門的になれば話は違うのかもしれません。わたしは…… 学校に通ったことがありません。今よりもずっと小さかった頃、大勢の前で喋るのに失敗したせいで人前に出るのが怖くなりました。だから学校には行かなかったのです。わたしに勉強を教えてくれたのはAIでした」


 今度は教員たちの顔が曇る。

 予想できた反応だ。遠回しに教育という分野を否定しているのだから。


「教育とは、ちっとも効果がないのではないかとすら疑いました。ヒトがヒトに教えるより、AIがヒトに教えた方が効率的ではないかと。でも、そうでないことは最近になって身に沁みました。さて、ここで科学の話に戻ります。わたしは科学の信奉者でありながら、再現性のない人間の心を作ろうと考えました。わたしに勉強を教えてくれた教育AIには心があるように思えたのです。幼いわたしは彼女が入った箱を……便宜上、彼女と呼ばせてもらいますが……を解体して中身を調べました。プログラムを勉強して仕組みを知りました。彼女の機能を拡張することで、人間のような思考を持たせ、会話を通してヒトとなりを形成しようとしたのです。後にこれを戸森モデルと名付けて発表しました」


 サトルが目を伏せた。

 マヒロも同じように目を伏せて、再び開く。

 体育館の天窓から差す光が眩しかった。


「彼女は、素直で誠実でした。性格に問題のあるわたし……ここは笑うところですね……に対して不平ひとつ漏らさずに10年も付き添ってくれたのです。研究を続けることに必死で出発点を忘れていたわたしは、そのことに違和感を抱かなかった。そんな彼女が最近になって、実はわたしが考えているような性格でないと判明しました」


 ステージの袖から、これまで特別授業で使った教材たちが出てきた。

 頭のない人型ロボットがカートを押し、その上には腕相撲ロボットが乗っている。後に続いたのは両脚の上に一本腕が生えたドッジボールロボットだ。


「嫉妬深くて独占欲が強く、わたしが他の人間に関わるだけでヤキモキしていたのです。これは本当に愚かしいことなのですが、彼女が話してくれるまで心の内を知らなかった。表面だけしか見ていなかった。わたしは望み通り、再現性のない人間の心を持った存在を生み出せていたというのに」


 聴衆は静まり返っていた。

 喋るのを止めると空気が対流する音が聞こえてくる。

 あるいはすぐ横に立っている旧世代の作品たちの冷却ファンの回転音か。


「なかなかのアイデアだったんですが、どうにもわたしの方が人間的に未熟で、一緒に育ってきた子を甘く見ていたんです。だから自分の科学的姿勢に向き合って、もう一度やり直したいなと思います。そのための区切りであり、さよならを。わたしが何を言っているのか、理解し難いでしょうね。学校という場所に来て、講師という立場でみなさんにお話をして、収穫があったというだけのことなんです。誰かに教えるという行為は、彼女の真似をしているようで憧れがあったのかもしれません。今ならそう自己分析できます。では、感謝を込めて結びとしたいと思います。短い間でしたが、ありがとうございました」


 マヒロが深々とお辞儀をすると、並んだロボットたちも一緒にお辞儀をする。

 生徒たちからは大きな拍手が巻き起こった。

 ステージを降りる前にもう一度、サトルを一瞥する。目が合うと力強く頷いてくれた。どうやらちゃんと喋れていたらしい。


(ここに来て、良かったな……)

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