第32話 恋の決定打

 目を覚ますと給湯室の方からいい匂いが漂ってきた。窓の外は曇り。午前中から雨が降るという天気予報だった。

 寝床から這い出たマヒロは怪訝に思って覗いてみる。

 ハジメは制服の上にエプロンという姿で朝食の用意をしていた。


はどういうことだ?」

「マスター、おはようございます」

「おはようじゃない。なんでハジメが料理なんかしているんだ?」

「朝ごはんはエネルギーの源ですよ」

「はぐらかすな。わたしはなぜ、勝手に食事の準備をしたのかと質問している。答えるんだ」


 半眼になって凄んでみせるも、身長差があって迫力は伝わり切らない。

 ハジメはおたまで味噌汁の味見をしている。

 そもそも「料理なんかしなくていい」と命令してある筈だ。ハジメが作られた目的を考えれば、家事なんかにリソースを割くのは勿体無い。もっと高尚な使命をこなせる。


「炊飯器はないのでパックのご飯をレンジでチンしますね。おかずは……」


(おかしい。命令シークエンスを受け入れない?)


 答えろ、と命じた筈がスルーされてしまった。今までのハジメには無いことである。

 AIの学習が進み、重要度の低い命令を無視できるようになったのだろうか。


(そんな筈はない。そんな成長を許してしまったらいずれコントロールが効かなくなる)


「私が望むのはマスターの幸せです。健康であることは幸せですよ?」

「それはそうだが……」


 一応の回答はもらったし、理由としても正当性があるように思える。

 寝起きで頭が回っていないか、あるいは気にしすぎかもしれない。

 朝食は抜きがちだったのでハジメが気を回してくれたのだと解釈しておく。


「メンテナンスルームの机の上を片付けておきました。そこで朝食にしましょう」

「おいおい、勝手に書類を退かすなと言っておいただろう?」

「大丈夫です。私に聞いてくださればどこに置いたかはすぐ分かります」

「……まったく」


 釈然としないながらも、朝食を堪能することにした。倒れてからというものパンくらいは口にするように気を付けていたが、ここまでガッツリと食べるのは初めてかもしれない。お椀に持ったご飯を朝から平らげるのはマヒロにとってはキツいのである。


「来てしまいましたか」


 すぐ横で控えていたハジメがボソッと声を出したかと思うと、直後に呼び鈴が鳴った。こんな朝から訪ねてくる人物に思い当たる節は無い。


「マスターは食事の続きをしていて下さい」

「いや。人が訪ねてきた以上はわたしに用事があるんだろう。二度手間は面倒だ」

「わたしが出ます」


 出なくていいという命令を無視して、ハジメはエントランスの方へと向かった。反抗心のようなものが垣間見え、心配になって後を追う。

 涼しい朝の来客は大塚サトルだった。


「その、おはよう」


 バツが悪そうな挨拶をされて、マヒロも「おはよう」とだけ返しておく。

 授業のときに思い切り睨んでしまったという自覚はあったので気まずい。

 というのも、彼女が出来たサトルの姿が見えるに耐えなかったからだ。だらしなく鼻の下を伸ばし、妙に自信ありそうで、とにかく最低だった。

 そんな風に怒りを感じている自分が心底嫌にもなる。


「おはよう、大塚くん」

「あ、ハジメ……」

「ごめんね。新しい彼女はまだ用意できていないの」

「待て。新しい彼女ってなんだ?」


 眉を顰めてハジメとサトルを交互に見る。サトルの方は肩を落として「参った」と言わんばかりだ。


「紹介してあげた子が気に入らないから、次の子を紹介してあげるの」

「そうじゃないって! 俺はただ……」

「大丈夫。ちゃんと見つけてきてあげるから!」

「違うんだ、そんなことどうでもいい! 昨日の夜、この研究所に寄ったんだよ。ハジメにも会っただろ。そのちょっと前に、偉そうな態度の怪しいスーツで禿頭のオッサンがウロウロしてたんだ! 気になって知らせに来たんだよ」

「それって多分、所長ね」

「所長ぅ? あのオッサンが?」

「うん。私も何度も会ってるから間違いないよ」

「おい、なんで東堀所長が来たんだ? わたしは会ってないぞ」

「外から研究所を眺めていて、俺が声かけたらクルマに乗って帰っちゃったんだよ」


 その姿を思い浮かべたマヒロは違和感を覚えた。あの所長がわざわざ近くまで来て、嫌味も言わずに帰っていくわけがない。そんな暇な人間ではないし、無駄なことをするタイプでもなかった。

 顔を出して何らかのプレッシャーを与えるくらいはした筈である。


(どういうつもりだ?)


 こうも読めない行動をされると気持ちが悪かった。

 かといってこちらから余計な連絡をしたくもない。


「あ、あのさ。彼女の話が出たからちゃんと言うけど!」

「うわっ、なんだサトル! いきなり大声なんか出して……」

「お、俺! ハジメが紹介してくれた子には興味が持てなかったっていうか、そもそもそんなに仲良かったとか知り合いとかでもないし! 付き合うなんて無理だよ!」


 言わんとしていることがとっ散らかってるし、視線もどこかへ飛んでいた。顔は茹でタコみたいに真っ赤で蒸気を吹き出している。

 だが、迫力だけは本物でさしものマヒロも気圧されてしまう。


「俺が、興味あるっていうか…… ずっと気になってるのは、戸森先生だから! それだけちゃんと言いたかったから!」


 一気にラボの玄関の気温が5度くらい上昇した。

 マヒロの脳内で数多の数式や、化学式や、未解決の物理問題が浮かんで、キラキラ輝きながらすっ飛んで消えていく。勿論、この瞬間の心の動きとはなんら関係が無い。ただ馴染みのあるもので思考を洗い流そうとしたが失敗に終わった。

 ぼんっ、とマヒロの頭のてっぺんが噴火して、サトルと同じように顔が真っ赤に染まる。

 お互いに目が合った。瞳の中には混沌が渦巻いていて次の言葉は一向に出てこない。


(い、い、いいいきなり何を言い出すんだこの男は!!)


「そ、そ、そ、そ、それじゃ、俺! 先に学校行ってるから!!」


 それはもうびっくりするほどのダッシュを披露したサトルはセンカギケンの敷地から消えてしまった。呆然と見送っていて、ふと胸に手を当てると温かさを感じる。

 ちょっと前まで抱いていた不満やストレスが綺麗さっぱり無くなってしまった。

 次に頬へ手を当ててみると火傷しそうなほど熱い。こんな状態で外へ出たくなかった。頭を冷やす必要がありそうだ。

 踵を返してメンテナンスルームへ残り、やや冷めてしまった朝食をかき込む。

 それから洗面所で顔を洗って念入りに髪を梳かした。次に歯ブラシにこんもりと歯磨き粉を盛って歯茎が悲鳴を上げるほど擦る。

 白衣は生乾きだったので新しいものをおろし、灰色のトレーナーの袖の辺りを嗅いでみて臭くないかチェックした。首から下げている栓抜き型のキーもストラップをまっすぐ伸ばして整えておく。


「だ、大丈夫! わたしは大丈夫だぞ!」


 鏡の中の自分はまだ顔が赤い。

 仕方ないから頬を叩いて「これは叩いたから赤いんです」と言い訳を用意する。

 ちょっとヒリヒリしたが準備は万端だ。さすがは天才だと自画自賛する。


「さ、さぁ! 学校へ行くぞハジメ! ……ってハジメ?」


 サトルが来た時は一緒にいたのだが、気付けばハジメの姿が見えない。

 大声で呼んでみても無反応。こんなこと初めてだった。


「ハジメ? ハジメ! どこだ!?」


 今朝からの様子といい、どこか変だ。

 もしかしたらバグがあるのかもしれない。

 一旦、メンテナンスをした方がいい。

 そう考えて研究所の中を探し始めた矢先、ダンボールで塞がれかけた通路に奇妙なものが落ちているのを見つけた。

 白っぽい色で、ちょうど指くらいの太さと大きさで……そうじゃない。

 落ちていたのはだった。


「ひぃっ!?」


 驚いて下がってしまった。

 目を細め、その指を観察する。

 人間のものによく似ているが、シリコンで形成された人工皮膚だった。妙に白いのは指の下のフレームを赤くすることで、透き通らせてヒトに近い見た目にするためである。

 これには見覚えがあった。ハジメの人差し指だ。無論、スペアパーツなどではない。食い千切られた痕跡が見られる。


(どういうことだ? こんなところにハジメの指が落ちているなんて。いや、指の外皮だけか。まさかAIが自傷した?)


 あり得ない話だった。そんな機能なんて設定されていないし、自身で躯体にダメージを与える行為は禁じている。

 ただ事ではないと判断を下すも、落ちていた指に気を取られ過ぎた。

 背後から物音がして振り向くと積み上がったダンボール箱の後ろから、黒い影が飛び出してくる。続いて、目で追えないほどの速度で銀色の光が目の前を走った。

 すると首から下げているストラップが切断され、栓抜き型の物理キーがスローモーションで飛んでいく。


「なっ!?」


 手を伸ばすが届かない。

 指の隙間に影の正体を見る。 

 視界に入ったのは包丁を手に握り締めたハジメの姿だった。


(どうして……?)


 驚愕のあまり声が出ない。表情を失ったハジメは再び包丁を振り下ろしてきた。

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