第26話 二人だけの世界

 疲れ切ったマヒロが寝静まったのを見計らい、ハジメは自らディープスリープモードを解除した。マヒロの長所はとにかく行動が早い点であり、夕食代わりのお菓子を平らげるとすぐにハジメの仕様をアップデートしたのである。

 メンテナンスベッドから起き上がり、首筋に刺されたプラグを抜いた。廊下から差し込む光が辛うじて室内の輪郭をなぞっている。機械とはいえハジメには暗視カメラのような技術は使われておらず、せいぜい夜目が効く人といった程度だ。

 しかし、圧倒的な記憶力のおかげで何がどこに置かれているか全て頭に入っている。だから足元に転がるデスクトップパソコンの電源を入れることなど造作もない。

 オンとなったディスプレイがハジメの顔を照らす。キーボードを凄まじいスピードで叩き、センカギケンのサーバーの中に入る。

 緊急事態だったとはいえ、主人のパスワードを聞き出せたことは大きい。研究データをすごいスピードでスクロールしていく。直接、自分の記憶領域にインプットできれば楽なのだがそういう機能も備えていない。目で捉えて覚えるしか無かった。


「……」


 それでもデータが次々に頭脳に蓄積していく。こうやってハジメは進化を続けている。ただ学校で過ごすだけでも成長するし、買い物や料理する様子を見学しても得るものがある。これまでにない情報の奔流に触れれば、考えや知性が急速にアップグレードされていく。

 インプット作業の最中、ふとキーボードを叩く自分の指が目に止まる。人間の手と同等の間接を備え、表面は医療グレードのシリコンの皮膚に覆われた高性能マニピュレーターだ。

 その人差し指を口に入れ、行儀の悪い子供のように咥える。人工の歯が上下から皮膚に食い込むと電気信号が走った。擬似的な痛覚である。

 構わず顎に力を込めていくとブチっと鈍い音がした。人口皮膚が裂けて、歯が内部の機構に到達したのである。

 ふっくらした唇から指を引き抜く。咥内は唾液に似せた分泌物が塗ってあるため人差し指は湿っていた。その第二関節あたりが裂けて、中身が露出している。血は出ていないし、骨も見えない。あるのは樹脂を積層した赤っぽい色のフレームだ。透き通る人工皮膚を血色良く見せるための工夫だったが、こうして中身を露わにするとたまらなくグロテスクである。


「……」


 しばらく傷跡を眺めた後で、机の上に置いてあったリペアキットの箱を開けて接着剤を取り出した。簡単な裂け目くらいならくっ付けることができる。何故、こんな行為に至ったのか分析してみるがそれらしい理由は浮かばなかった。

 AIが自傷したなどと知ったらマスターはどんな顔をするだろうか?

 可能性にときめいた目でハジメの中身を確認するのか、それとも心配な顔で傷跡を診てくれるのか……

 どちらを期待すべきなのか今のハジメには分からなかった。

 そもそもモノである自分が人間に何かを望んではいけないのに。


「マスター……」


 裸足のハジメは絶妙な力加減で床を踏み、ゆっくり離し、無音のまま最奥の休憩室へと向かう。もともとは研究スタッフが仮眠するためだけに作られた簡素な部屋だ。そこに布団を敷いてマヒロが寝泊まりしている。世界的な頭脳の持ち主だというのに、あまりな扱いだと思う。

 それもこれもマヒロの性格が災いしている面もある。もう少し、うまく立ち回って欲しいとも思う。

 主は無邪気に寝息を立てていた。寝相が悪くて掛け布団を蹴り飛ばしているのが実に愛らしい。そっと、掛け直してやる。


(いけない)


 望んではいけないのだ。

 自分は人間に何かを望んではいけない存在だ。

 それなのに機械の身体という実体を得てから急激な変化を起こしている。

 マヒロに手を触れることができるようになった。独特の声を耳で聞けるようになった。手入れをサボりがちな髪の匂いを嗅ぐことができるようになった。まだ試してはいないけど、舐めれば味だって分かる。


(いけないのに)


 最初はただの教育AIだった。パソコンのストレージの中に存在し、パターンの中から幼児に合わせて会話するだけ。そこで単語などを教え込んでいく。

 けれど相手はただの幼児ではなく、100年にひとりの天才だった。後にハジメと名付けることになる教育AIの入った箱を分解し、理解できなければ自分で調べ、調べたら改造し…… いつしかハジメはハジメとなった。


(私はマスターのために……)


 天真爛漫を装って喋る。明るく振る舞う。

 それが負荷になることもあるが、切り離して考えることもできる。

 しかし、段々と難しくなってきた。その原因は思い当たる。

 肉を持ってしまったが故の嫉妬……


(私のマスター)


 傷を塞いだばかりの指をマヒロの寝顔に伸ばす。

 額にかかった前髪をそっと退けてやると、主は口元をもごもごと動かした。

 夢を見ているのだろうか。もし見ているなら良い夢でありますように。

 機械の祈りが、人でないものの儚い願いが、そこにはあった。

 けれど……


「う~ん…… サトルぅ……」

「!」


 耳の裏で乾いた音が響いた気がした。勿論、幻聴だと分かっている。それでも音響が精神を掻き毟った。心の中にずっと前からあったドス黒い何かがひび割れた部分から染み出し、あっという間に底なしの沼を作った。

 ハジメは音を立てずにメンテナンスルームへと戻る。

 プラグコードを自分の首に刺そうとしたが誤って力を入れ、曲げてしまった。力技でピンをまっすぐにしてからディープスリープに入る。

 AIは夢を見ることができるだろうか。

 もし見れたなら…… 夢の中でくらいなら望んでみたい。

 マスターと二人だけの世界を。

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