第2話 やる気ゼロの少年

(さっさと帰りてぇ……)


 万年帰宅部の大塚サトルはチラリと校舎の外に目を遣る。

 すっかり桜も散って窓の外には緑樹ばかりが並んでいた。

 今日はブレザーの制服では汗ばんでしまうほど陽気がいい。絶好の下校日和だ。


 だが担任の岩崎先生の呼び出しを無視することはできなかったし、要件も大体は察しがついている。

 向かいに座るグレイのスーツ姿の女性教諭を前に、落ち着かない様子で上履きの踵を鳴らした。

 二人の間の机には進路希望調査と書かれた紙が置いてある。これが主題である。


「大塚くん。はどういうことかしら?」


 岩崎先生は三十手前で彼氏なし。教師らしく清潔感に溢れていて、なかなか綺麗な人なので生徒からの人気も高い。そんな先生と進路指導室で二人っきりというシチュエーションになってもサトルの心は風が止んでいて全く揺れ動かなかった。年相応の妄想もしないし、ましてや変な気を起こすこともない。


「書いたままです」

「就職希望にチェックが入っているのは分かる。でもそれ以外が空欄ね。どんな会社に入りたいとか、勤め先はどこがいいとか……」

「あ、働ければどこでもいいんで」

「そういう態度、気をつけた方がいいわ。就職の面接のときに『働ければどこでもいい』なんて言ったら採用されないわよ?」

「まぁ、そうでしょうね」

 目を逸らしたサトルは内心で(さっさと帰りてぇ……)と反復する。

 呼び出した岩崎先生は怒るというよりは呆れてしまい、大きな溜息を吐いていた。

「大塚くんは、もうちょっと一生懸命生きたほうがいいと思うの」

「はぁ」

「素行が悪いってわけじゃないけど、このままの成績だと就職に響くわ。中間テストも近いし、勉強を頑張ってみたら?」

「がんばったところで……」

「じゃあ、部活は? 二年生だからまだ入れるでしょ」

「祖父と二人暮らしなんで、早く帰らないといけないんです。祖父は働いているし、食事の準備とかあるし」

「うん、それはとても偉いことね」


 にっこりと笑ってくれる岩崎先生から再び視線を逸らせた。

 遠くからサッカー部の声が聞こえる。なにを喋っているのか分からないけど、怒っているように思えた。


「質問の仕方を変えましょう。大塚くんの将来の夢ってなに?」

「特にありません」

「即答ね……」

「ピンと来ないんですよ、夢なんて聞かれても」

「じゃあ、やりたいことってある?」

「えっと…… 今は祖父の食事の準備ですかね」

「そっかぁ。視点を変えて、何か新しいことにチャレンジしてみるとか、どう?」

「揚げ物を作ってみるとか? でも油の処理が面倒かな」

「うん。今晩のレシピで頭がいっぱいなのは先生も分かったわ」

「すいません、ワザとです。そんなに心配してもらわなくても大丈夫ですよ。俺、自分の器がどれくらいの大きさなのかちゃんと知ってますから」

「そういうところなのよねぇ……」


 担任が頭を抱えているのをしばらくの間、申し訳なさそうに眺めた。

 同時に、どんな言葉が出てきても受け流せるように肩の力を抜いておく。


「今日の面談はこれでおしまい」

「はい、ありがとうございました」

「また近いうちにやるからね。そのときまでに自分の将来について考えてみて」




 夕陽が背中を焼いてくる中、サトルはスーパーに寄って買い物を済ませた。食材は安いものを適当に選んでおく。基本的に切って焼いて味をつけるだけ。肩肘張らずに料理をしている。

 ふと、さっきの面接のことを思い出した。


(新しいこと…… 揚げ物? 作ったことないけど、コロッケも唐揚げも惣菜で買ったほうがラクで安いし)


 セルフレジを通してスーパーを後にし、トボトボ歩いているとまたフラッシュバックが起こる。岩崎先生が残念そうな声音で「やりたいことってある?」と尋ねてきた。

 自宅の門をくぐるまで考えてみたが思い浮かばない。

 玄関の鍵を開けて食材を台所に置き、制服を脱いで着替えを済ます。時刻は6時近かった。

 そろそろ祖父が帰ってくるので、夕飯の準備をしなければならない。

 米を研いで炊飯器のスイッチを入れて、リズムよくキャベツを刻んで、その横で豚バラ肉をタレに漬け込んでおく。


「ただいま」

「おかえり。夕飯、すぐ食べられるよ」

「そうか。ありがたい」


 タイミングよく帰ってきた祖父は、自室に戻って通勤カバンを置いてくる。祖父がどんな仕事をしているのか知らなかったが、エンジニアだということは聞いている。いつも作業着にワイシャツとネクタイという姿で出かけていた。

 ダイニングのテーブルに食事が並ぶと、二人は向かい合って座った。


「いただきます」


 大塚家の食卓はいつも静かなもので、テレビをつけることもない。祖父はテレビを見ないし、サトルもそうだった。


「なにか変わったことはあったか?」

「特にないかな」

「学校は?」

「普通だよ。可もなく、不可もなく」


 味噌汁を啜ると、味が薄かった。祖父の指摘もないのでこれでいいだろう。

 面談のことを言おうか迷ったが余計な心配をされたくないから黙っておくことにする。

 そのあとは黙々と料理を口に運ぶ時間が続いた。祖父と仲が悪いわけではないが、話すこともそんなに多くないというのが実際のところだ。


「ごちそうさまでした」

「じいちゃん、コーヒーでも飲む?」

「もらおうかな」


 いつも通りのやり取りでインスタントコーヒーを淹れて、自分の分には砂糖をたっぷりと注いだ。


「そういえば、サトルは進路どうするんだ?」

「ん。就職希望」


 高校二年生の春という時期的なもので、どうしても話題に上がる。たまたま今日は2回も同じことを聞かれたわけだ。そして2回とも同じことを答えている。

 岩崎先生と祖父が違うのは、その先の追求があるか無いかだった。祖父はサトルのことをよく知っているから聞いてこない。

 それがありがたかった。

 コーヒーを飲み終えたサトルは席を立って食事の後片付けを始める。


(就職って言ってもなぁ……)


 やりたいこともない。ただ働ければいい。

 駆け巡る思考も、食器を片付けているとどこかへ消えてしまい落ち着く。小気味よく皿とスポンジが擦れる音は嫌いじゃない。

 淡々と作業をするのが性に合っているのだろう。


(俺は、所詮はそういう人間だ)

 いっそ、どこかで皿洗いする仕事でもいいか。

 働ければなんでもいいのだ。


(岩崎先生はまた近いうちに面談するって言ってたけど、どうせ答えなんか変わらないし)


 洗い物が終わったら次は洗濯だ。風呂も沸かさなくちゃいけない。

 家事をしていれば余計なことを考えなくて済む。

 その気楽さに、サトルは寄りかかったて考えるのをやめた。

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