第9話 勧善懲悪

 今度の小説は、それなりに売れた。

「それなりに」

 とはいうが、坂崎にとっては、デビュー作以来のヒットであった。

 本人もそのことは理解していて、思ったよりも売れたことがどうしてなのか、自分なりに分析してみようと思ったが、理由は見つからなかった。

 この話は別に自分が実際に経験したものではなく、ちょっとした思い付きからだった。漠然と公園にいて、目の前に見える公衆便所の真ん中い多目的トイレがあって、そこに一瞬、男女が一緒に入るのが見えたのだ。

 だが、それは錯覚だった。しばらく見ていると、後から出てきたのは一人の男性だった。その男性を見ていると、どこか弱弱しさが感じられた。

「変装しているのではないか?」

 と感じたのは、燕尾服のような接待っぽい服装に、帽子、さらにステッキという、それぞれに調和がとれている服ではあるが、あまりにもまわりの雰囲気にマッチしていない。あたかもその場を調節した雰囲気に、違和感しかない状況を感じたからだ。

「女が男に変装し、トイレから出てくる」

 このシチュエーションは、坂崎に閃きを与えた。

 最初に誰かが入ったのは意識していたが、違和感がまったくなく、あまつさえ、後から感じたのが、

「男と女が一緒に入ったのでは?」

 という奇抜なものだった。

 それだけ出てきた変装した女のインパクトが強すぎて、ギャップにならないようにと思ったからなのかも知れない。そのギャップを埋めようと勝手な想像をしているうちに、その想像が妄想に変わっていったのだ。

「少なくともその女はアブノーマルな変態女でなければいけない」

 というおかしな思い込みになった。

 そして、その女は本当の悪ではなく、逆に自分の性癖が行き過ぎて、男を過失で殺してしまったという発想、そこから、彼女がいかに自分の罪から逃れようとするか、彼女のような人は、素直に警察に通報していれば、何でもなかったはずなのに、変な男に、しかも一番最悪な男に相談したため、人生を逆転させてしまうことになる。というような小説をイメージしたのが、最初の骨格だった。

 その骨格とはさほど違ったイメージがなく出来上がったプロットは、今までの坂崎であれば、中途半端なプロットを書いたために、ストーリーがまったく定まらず、最後はいつも中途半端に終わってしまうことを自覚していたのだが、今回は却ってプロットがガチガチだったために、融通が利かない作品になっていた。

 それでも、書きながら少しずつ変わっていったのは、坂崎のこれまでと同じであった。プロットがしっかりできていたことは、ラストを中途半端に終わらせなかったという意味でよかったと思う。

 さらに、彼の目標としている、

「最後の数行で、どんでん返しを描けるような作品にしたい」

 という思いも、今までの中では一番だったのかも知れない。

「やっぱり、プロットというのは大切なものなのかも知れない」

 と感じた。

 編集者の人間にも同じことを言われた。

「坂崎さんは、小説の書き方を自分なりに見つけたんですよ。元々坂崎さんは、皆がやっているような書き方ではいいものは書けないと思っていました。だから私もそのあたりにはわざと言及しなかったんです。下手に言及して考えすぎる坂崎さんの頭を堂々巡りさせてしまうと本末転倒ですからね。それこそ、負のスパイラルというものに突入していく坂崎さんを見たくはなかった。だから何も言わなかったんです。でも、それを自分で見つけることができなかったら、何も言わずに切るところだったんですよ。今は出版業界も厳しいので、僕は逆に基本に立ち返らなければいけないと思うんです。そもそも基本というのが何かいうことですが、作家によって持っているものが違うんですから、決まった基本なんていうのはないと思うんですよ。だから決まっているものが基本だという考えを払拭したい。この思いが今の僕の信念です」

 と言っている。

 編集者にとってのプロットは、あくまでも設計図というだけでm決まったフォーマットなんか存在しない。どんな形であれ、表現されていればそれでいいのだ。

 続編を書くことになったきっかけは、坂崎が書きたいと思ったわけではない。編集者からの提案だった。

「このお話、結構人気なので、続編をお書きになりませんか?」

 と言われた。

 その話を聞いた時、正直ビックリしたのだが、編集者が続編の話を持ち出してくるとは思わなかったからだ。彼自身も、この作品は一話完結だと思っていると感じたからで、その理由としては、

「前の作品で、プロットが完璧すぎたから」

 というのが理由だと思っていた。

 それなのに、続編というのは何かの矛盾があったので、

「続編というのはどういうことでしょう? この登場人物で再度、その後を書いてみるということですか? それとも登場人物云々ではなく、ストーリー性の続編という意味ですか?」

 と聞くと、

「なかなか鋭いところをついてきますね。僕は後者だと思っています。同じ登場人物がもしいるとしても、それは一人限定ではないかと思っています。しかも、主人公クラスの人は出さないという条件での続編ではないかと思うんですよ」

 と編集者がいうと、

「私は続編という言葉に何か違和感を覚えるんですけど」

「そうでしょうね、先生ならそういうと思っていました。これは別に読者の声でも、出版社の意向でも、ましてや僕の個人的な意見ではないんです。どちらかというと先生が書いてみたいのではないかと思ってお話させてもらったんですよ。ひょっとすると、先生は今はまだピンと来ていないかも知れません。意識していないと思っているということでしょうか。でも、僕がこうやってお話させてもらってから、先生はゆっくり考えると思うんですよ。その時、ひょっとすると、前から考えていたことだったんじゃないかって思ってくれると、提案した僕の編集者冥利に尽きるというものですね」

 というではないか。

「ちょっと考えてみます」

「そうしてください。いいお返事を頂けることを待っています」

 と言って、その日は編集者と別れ、いつもの一人の時間を過ごしていると、さっきの編集者の言葉が頭に浮かんできた。

 坂崎は、編集者と話をしたことは、その日の話が終わると、一度リセットするようにしている。一応はメモに取っておくのだが、それは坂崎自身が、

「自分は忘れっぽい」

 と思っていたからだったが、実際にはそうではない。

 忘れっぽいのではなく、頭の中でリセットしようとするからだ。本当に必要なことであれば、時間が経ってからでも頭には残っていて、思い出したその時には無意識に自分の中で考えが先に進んでいて、すでに答えが出ていることもある。編集者の彼はそのことをしっかりと分かっていて、坂崎という作家の気持ちをうまく引き出したり、時には彼を激しく刺激したりもする。決して悪い方には向かわせないというタイプであった。

 坂崎は、編集者の言っていた通り、続編を書きたいという思いは前から抱いていたのだが、それは決して、

「前の話の続き」

 というわけではなく、一種の連作に近いものだった。

 連作というと、ある一定のテーマを元に、まったく違った話を書くことで、小説の世界では、

「連作短編集」

 などとして発売されていたりする。

 そのテーマはまったく同じというわけではなく、例えば、季節や時期をテーマと考えれば、一月から十二月までをテーマに書いてみたり、それぞれの街をテーマにしたい場合は、どこかの鉄道の駅ごとにテーマを考えてみたりする話である。

 連作という一つの大きなテーマが決まっていれば、ジャンルが同じである必要はない。一月がホラーであれば、二月は恋愛。三月はホームコメディ、四月はミステリーと言った、まったく違うテーマでも構わないのだ、しかも、登場人物は同じであっても、別であっても構わない。ただ同じにする場合は、それなりの制約が絡んでくるかも知れないということは、きっと書いていて感じることであろう。

 だが、坂崎は今回のこの小説の続編を、本当に連作という形で書こうと思っているのだろうか。連作にするとすれば、それこそかなりの制約がありそうな気がする。それを書きながら感じていて、それで間に合うというのか、辻褄を合わせるというところで、連作や続編というのは難しいのだ。

 一応編集者には、

「考えてみます」

 と答えておいたが、編集者はどのように感じてくれたでろうか。

 今回のこの話にしても、売れたとはいえ、物議を醸していた。

 一番大きな批判は、

「そもそも、この小説のジャンルは何であるか?」

 というものであった。

 ミステリーというのは分かってはいるが、悪らかに本格的な話ではない。謎解きであったり、トリックなどが明確になっているわけでもない。どちらかというと、変格的な小説と言えるのではないだろうか。

 かつて、大正末期から昭和初期にかけて言われていた、

「本格探偵小説論争」

 とでもいうべきか、本格派に対しての、猟奇的な陰湿な殺人を描いた小説、そこに近いものがある。

 人間の奥に潜んでいる残虐性や猟奇的な感情、そんなものを描き出した今回の作品は、まさしく謎解きやトリックを重視した本格探偵小説に相対する、

「変格的探偵小説」

 というジャンルだと言えるのではないだろうか。

 探偵小説において、猟奇てな部分、残虐性というものが、ホラーやオカルトと一緒になり、新しいジャンルを築いているとすれば、今回の作品はまさにそんな変格探偵小説からの流れを汲んでいると言ってもいいのではないだろうか。

 そんな話の続編ということになると、どのような発想にすればいいのか難しいところである。妄想という言葉が一番ピッタリくるこのようなジャンルに、続編が制限を受けるのは、話をあまり拡大できないという制限があるからではないかと、坂崎は考えていた。

 変格小説というのは、本格小説が、

「浅く広く」

 という趣旨であるとすれば、

「深く狭く」

 をテーマに考えるべき作品だと言えると思う。

 そんな作品を広げてしまうと、まったく別の作品になってしまい、主旨を見逃してしまいそうになってくるのだ。

 そう考えると、続編という謂い方ではなく、この作品の中に含まれている、大きなテーマではなく、見え隠れしている一種の、

「影のテーマ」

 ともいうべき主旨を、受け継ぐ形の作品にすることが問題ではないかと思うのだった。

 その影というのは、

「一度読んだくらいでは分からないもの」

 というものではないかと思っている。

 つまりは、

「最初の作品で、一度読んだだけでは分からなかったことが、二度三度と読むうちに分かってくる」

 というもので、

「そのためには何度でも読み直してみたくなるという作品でなければいけない」

 という作品であろう。

 もちろん、最初の作品を書いている時にはそんなことは思わない。本人も一度書いた自分の作品を読み直すことはない。なぜなら新しい作品を目指して新たな発想を絶えず頭に抱いているからである。頭に描けない時であったり、過去の作品を当てにしたりという時は、きっと自分の中でスランプになっている時ではないかと思う。今回の作品ではそんな発想はなく、絶えず先を見つめていて。書き終えてからでもその余韻に浸りながら、新たな作品への意欲が漲っていたような気がする。自分でも意識していなかった感覚で、そのあたりを編集者の人は、

「プロの目」

 として見つめてくれているようだ。

「本当にいい編集者に巡り合えて幸せだ」

 と思ったのも事実で、今が有頂天の順風満帆に感じられる時期だと思っている。

 こんな時期をずっと思い続けられればいいのだが、少しでも長く続けられることを目指して、さらに先を見つめることが大切だと思うようになった。続編の話もそんな感情の中で飛び出したもので、しかも、その感情を自分も持っていたという意識を逆に相手から教えられたというのも新鮮であった。

 しかし、続編というのは言葉でいうのは簡単だが、そんなに簡単に出てくるものではないのは確かだった。

 その影のテーマというものを、何にしようかと考えていた時に思いついたのが、

「遺書」

 という発想だった。

 最近は自殺が増えてきてはいるが、遺書というものがその割合を減らしている。見た感じでは自殺に間違いなのだが、遺書がないために、自殺と言い難いという場合も少なくなったりする。特に自殺した人に、自殺の原因がっ見当たらないなどという場合で、そんな時に限って、目撃されやすい場所での死亡だったり、本当に目撃者がいたりする。

 遺書が少なくなった理由の一つとして、

「どうせ死んでいくのだから」

 という人が増えたと単純に思うのはどうなのだろう。

 そもそも、この世を悲観して死ぬわけだから、何もこの世に何かを残していくという神経こそ、矛盾しているように思う。それでも家族がいたりして、未練のある人がいるのも仕方のないことなので、そんな人が遺書を残すと考えると、

「自殺をする人間って、何て律義なんだ」

 と思わないわけにもいかないだろう。

 しかも、自殺という概念に、死を目の前にして何を考えるかと思えば、まずは痛い、苦しいを思い浮かべるに違いない。そんな死の瞬間の痛い、苦しいが一瞬であって、生き続けていくうえでの痛みや苦しみがどれほど長く苦しいのかと思うと、

「早く楽になりたい」

 というのが、本音ではないだろうか。

 そして次に考えること、それは、

「どうしてこの俺が死ななければいけないのか?」

 という思いだ。

 他の人は死を考えることもなく、楽しく生きているではないか、その裏側で自分だけではないのだろうが、死を意識している人間がいる。恨み言を書いて残す遺書であれば、分からなくもないが、

「先立つ不孝をお許しください」

 などと、誰が書けるというのか。

 誰に対しての遺書であったとしても、自分よりも、どんなにマシな人間なのかと思うと、遺書を残す意味が何もないと言えなくもない。

「それだけ人間的に寂しい人間なんだ」

 と他人はいうかも知れない。

 その通りだ。寂しいから死を選ぶのだ。寂しくなくても死を選ぶ人は選ぶだろう。楽になりたいのだから、これこそ人間の一番人間らしい感情ではないだろうか。

「生まれてくる時の親は選べないのと同じで、死も自分で勝手に選んではいけない」

 と言われるが、本当にそうなんだろうか。

 遺書を書く人の心境がよく分からない。生きている人間で、自殺を真剣に考えたことがないから言えるのかも知れないが、少しでも遺書を書く余裕があるのであれば、また違った完下が浮かぶのではないかと思えるのだった。

 そういう意味で、遺書を書く人が少なくなったということは、それだけ寂しい気持ちが嵩じての自殺という人が多くなったということであり、自殺を考えた意志も漠然としていて、本人に言わせれば、寂しいからという理由だけで、遺書を書いたとしても、一行くらいで終わるので、書いても一緒と思ったのかも知れない。

 また、遺書が少なくなったことの理由として、別のまったく違った理由があるのではないかと思えた。これは自殺という考えとはまったく違った考えであり、

「今の時代に自殺として騒がれていることは、本当に自殺なのだろうか?」

 という考えである。

 それこそ小説の世界のようだが、遺書が少ないのは、単純に遺書のない自殺は、

「自殺を装った殺人」

 なのではないかという考えである。

 実にバカげている考えなのかも知れないが、殺人請負業のようなものが影で暗躍していて、人知れずに自殺に見せかけて人を殺し、殺したいと思っている人から報酬を受けるという考えである。

 実際ならとんでもない金額に至るのだろうが、その額が少し下がり、その人が死ぬことで自分に対して依頼金を支払うよりも、大きな温床があるとすれば、十分に殺人請負業も成り立つというものである。

 普通ならそんな組織の存在自体、誰も信じない。それを逆手に取るというものだが、それこそ小説の世界ではないか。

 遺書のない自殺に、目撃者が多い場所であったり、自殺だというハッキリとした理由が認められるだけの疑いようもない状況が出来上がっていれば、それはそれで怪しいと言えるだろう・

 坂崎は、前の小説で書いたニセ医者のような悪どい人間が、もっとたくさん世の中に埋もれていると思っている。そんな人間を一人一人描いていくのも続編としては面白いのかなと思っていた。

 一つは思い浮かんでいて、その話は着想予定であるが、それとは別に、この話を悪どい男たちの連作にして、

「最後にこの組織を自殺と結びつけて描くというのはどうだろう?」

 と感じるようになっていた。

 殺人と自殺というものの境界線がどのようなところにあるのかを小説家として考えていた。

 自殺をする人間は、

「ひょっとすると誰かを殺すことで本当は自分が死ななくてもいいのではないか?」

 と思っている人も多いだろう。

 つまり、

「殺すか殺されるかのバトルと同じ」

 という発想である。

 自分が誰かを殺さないと、自分が死ななければいけない苦境に追い込んれる。相手が悪党であれば、余計に理不尽に思えるだろう。

 例えば美人局であったり、ギャンブルに溺れて悪徳金融機関に手を出してしまい、身動きが取れなくなってしまう場合、確かに悪いのは自分である、だから相手ばかりを責めることができず、しかも悪徳であっても、法律上絶対的に相手が有利なので、どうすることもできない。だからこその悪党なのだろうが、そんな連中は恩来ならこの世から消えてもいいはずだ。しかも悪徳連中にひどい目に遭わされている人、今もずっと合わされている人、そしてその予備軍と、やつらの顧客名簿などを見ればどれほどの人間がいるかが分かるというものだ。

「塵も積もれば山となる」

 というではないか、一人一人は少々の金額であっても、たくさん集まれば、それなりの金額にはなる。さらにそんな悪徳企業を滅ぼすということで、自分たちの将来に渡る利益や利権も守られるというものだ。

 ただ、こんな場合は少し違うやり方をする。社長を殺し、自殺に見せかけるのだが、それがあざといやり方で、死んでしまうと、そのあと次々に不可思議な状況が見つかる。それが抗争相手の組の仕業と見せかけるようやり方である。

 そうなれば、あくどい企業同士の汚い権力闘争が火花を散らすことになる。

「報復に対しては報復」

 と、それ以外のことが考えられない連中であれば、放っておいても、共倒れは目に見えている。一気に二つの巨大組織が潰れてくれれば、これはもう報酬以前の問題だ。

 殺人請負企業はそんなこともやっている。

 だが、個人を殺害するのに一番簡単なのは、自殺を装うことだ。殺したいと人から思われている人間は多かれ少なかれ、何かの不安を抱えているものだ。それが死に直結するような意識があればこそ、自殺を装うことが一番安全で、楽な方法と言えるだろう。

 坂崎は、そんな発想を抱き、プロットを考え始めた。

 ただ、今の時代にそぐわない話ではないかというのが、一番の問題だったが、

「昔から勧善懲悪と言う考え方って、水戸黄門だったり。当山の菌さんであったりと、時代劇には多いでしょう? 仕事人なんていうのもあった。特に仕事人なんていうのは、お金を貰って恨みを晴らすという意味で同じようなものではないですか。日本人というのは、昔から判官びいきと言われて、弱い者の味方がしたいし、悪を懲らしめるということが好きな人種なんですよ。だから、そのあたりは気にしなくてもいいんじゃないですか?」

 と言われたが、それでも完全に納得しているわけではなかった。

「それでは、二番煎じになってしまうような気がするんだけど」

 というと、

「何を言っているんですが、小説なんていうのは、そのほとんどは前に書かれたことをいかに同じようにしないで書くかというのがテーマじゃないですか。二番煎じは確かにいけない。でも、それをうまくバリエーションを利かせた作品に作り上げるのが、作家というものの使命なんじゃないかって僕は思うんですよ」

 と、編集の人は言った。

「確かに勧善懲悪を描きたいとは思うんだけど、今の世界の勧善懲悪ではいわゆる勧善懲悪ではないと思うんですよ。つまり、悪と呼ばれているものがすべて悪いのか、実はそうじゃないんじゃないかっていうことですね。僕は前の作品でそのことを描いたつもりなんです。だから二番煎じではないと思っているんですよ」

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