第4話 「自殺」考

 こういう発想を小説にすると面白いのではないかと坂崎は考えた。

 人が殺されるのが分かっているが、それを目撃したとしても、自分に助ける自信がない。しかも殺害場所が女子トイレ、

「いかなる理由」

 を盾にすれば、助けることができなかったとしても、それは許される。

 自分さえよければそれでいいという身勝手な人間の話だが、これは基本的に誰もが抱いている感覚ではないだろうか。

 逆にそこまで考えると、女子トイレの中でなら、人が殺されそうになっていても、表にいる人間が男だけであれば、誰も助けることができないという発想である。

 だが、それだけでは小説の発想としては、まだまだ甘い。

 そんなことを考えながら、朝食を食べていた。

 この日は久しぶりに新聞を読んだ。毎日朝この店に来てはいるが、、新聞を毎日見るということはしない。

「小説家で、情報に飢えているのだったら、新聞くらい毎日読まないと」

 などという人がいるが、小説のネタくらいなら、新聞よりも週刊誌の方がいろいろ書かれていて面白い。

 新聞にはコラムや情報欄、地元欄などがあるが、基本的には事実しか書かれていない。個人的な意見や。読者の目を引く面白い話が書かれているわけではない。中には事実ではない、週刊誌を売りたいがためのゴシップもあるだろうが、小説のネタの情報としてはそっちの方が面白い。

「そもそも、新聞を読まなければいけないという必然性がどこにあるというのだ。そんな時間があれば、他にすることがあるような気がする」

 と思っていたので、新聞を毎日読むようなことはしない。

 その日は、ちょうど新聞を読んでみたい日に当たった。見ると言っても、そのほとんどが斜め読みで、一面に書かれているような記事や、政府がどうの、経済がどうのなど、まったく興味がない。それよりも、地元記事や社会面などの下の方にちょろっと載っているような記事に意外と興味を引くようなものがあるものだ。

 その日の新聞をゆっくり読んでいると、

「あったあった。これなんか面白いよな」

 という記事が見つかった。

 見出しには、

「トイレで女性が自殺」

 と書かれていた。

 昨日の朝、駅の構内にある公衆トイレから、女性の自殺死体が発見されたという内容だったが、場所は多目的トイレで、夜の十時すぎくらいまでは普通に使われていたという。早朝になっても多目的トイレが電子ロックにて施錠されたままだったので、清掃員が不審に思い、電子ロックを解除し開けてもらうと、そこに女性の自殺死体があったという。

 彼女は手首を切っていて、血まみれの状態で発見されたというが、警察の捜査で、死亡したのはやはり終電少し前だという。身元も分かっていて、近くの会社の事務員で、年齢は三十五歳。その日は九時過ぎまで、会社の飲み会に参加し、二次会には参加せずに、まっすぐ駅に向かったということである。死亡推定時刻にも符号しているので、時間的な矛盾はない。そういう意味で普通の自殺として捜査を行うということだが、坂崎はその記事が気になっていた。

 一番気になったのは、

「遺書が発見されなかった」

 という点である。

 偶然なのかどうなのか、先日読んだ新聞に、この近くではないが、自殺が頻繁に発生している地域があるという。自殺というのは、どこにそんな因果関係があるのか分からない分からない分からないがという前置きの元、どうやら連鎖するものではないかというコラムが書かれていた、

「新聞のコラムなど、面白くもなんともない」

 と思っていた坂崎だったが、その時の記事は何か自分の中で気になってしまっていた。

 さらにその記事は、

「自殺が頻繁に起こる地域というのは、同じ時期に日本で数か所はあるだろう。しかも、そのすべてが同じ時期にピタッとやんで、別の地域に移るというのだ。まるで生き物のようではないか」

 と書かれていた。

 事故が連鎖反応を起こすというのは聞いたことがある。しかし、自殺が連鎖反応を起こすと言われても、坂崎に違和感はなかった。考えてみれば、事故の中で電車などの人身事故というのは、そのほとんどが自殺であり、結局は電車の人身事故が多発したり連鎖反応を起こすのであれば、それは自殺によるものだと考えても、それは十分にありえることである。

 だが、自殺が頻繁に起こる地区が全国にいくつがあり、それが移動することで生き物のように思うというのは面白い発想である。

 そういえば、ある週刊誌に載っていた連載小説の中で、この発想を思わせる小説が掲載されていたのを思い出した。

 自殺菌というものの存在で、それは人から人に伝染し、自殺させてはまた他の人に伝染するというものである。

 だが、この菌は実に弱いもので、集団でなければ、機能を発揮することはできない。だから自殺が多発する地帯があるというのだが、その発想はまさに、

「なるほど」

 と思わせる。

 それが一定の期間猛威を振るい、ある程度の人間を自殺に追いやってしまうと、今度はその地域で人間によって免疫が作られる。免疫があっては金が活躍できる環境がなくなってしまうので、禁はまた別の場所に移動するのだという。まさに生き物、しかも高等生物に該当するものではないだろうか。

 あまり人の小説を読むことのない坂崎だが、ある時無性に読みたくなることがある。それは自分が文章を書くのに勢いを感じなくなった時で、人の小説を読むことでそのアイデアを借用するというわけではなく、執筆の勢いを取り戻したいという思いで読むのだった。

 だから誰の小説であっても構わない。読めればそれでいいのだ。読んだからと言って、自分の筆が本当に進むのかどうかは分からない。しかし、気休め程度にはなるだろう。書けなくなった時は気休めでもいいので、何かをするだけで違うのだ、それが小説を読むというだけのことで、それ以上の深い意味はない。

 自殺菌の話は面白かった。いくらなんでも、そのままソックリ真似るわけにはいかない。真似ると書いて、自分には

「恥じる」

 と読めるような気がしているからだ。

 道義的な問題ではない。自分が嫌なのだ。道義的に言い悪いだけであれば、別に真似ることも少し変えてしまえばいいだけではないかと思ったりもする。

 しかし、人の作品をマネて自分の作品にしたところで、

「俺は一体、何のために小説を書いているんだ?」

 と感じさせられるだけである。

 小説を書くということは、自分オリジナルの作品にするのが、まずは大前提。人のまねをしたり、人のアイデアで売れたとしても、それはリアルに、

「背に腹は代えられない」

 という思いがあったとしても、それは最初の一回だけである。

 しかし、一度楽をしてしまうと、その味が忘れられなくなるのではないだろうか。いくらマネをすることで自分が小説を書く意義を考えさせられるとしても、結局繰り返してしまうのであれば、それは本末転倒。それを思うと、ジレンマが自分を襲い、矛盾に苛まれるに違いなかった。

「そんなことは分かっている。どうしようもないと分かっているのだ」

 と、楽をすると抜けられなくなるその思いは、まるで軽い気持ちで手を出して、抜けられなくなってしまった麻薬のようではないだろうか。

 楽をするというのと、禁断症状による苦痛とでは比較にならないかも知れないが、最初のきっかけは、

「藁にもすがる」

 という思いからだったに違いないが。それが辞め時を見失ってしまうと、抜けられなくなってしまう典型ではないだろうか。

 そういう意味で、普段は小説も読まないが、今回読んだ小説は、今頭の中に描いている着想と微妙に絡み合わせれば、まったく別の今まで自分が想像したこともないような小説ができあがりそうな気がするのだ。

「トイレの七での自殺事件と、自殺多発地帯。そして別の思い出した小説のネタとしての自殺菌という発想」

 それらをミックスするような作品が、今坂崎の中で産声をあげようとしていた。

 いろいろな面白い発想が坂崎の中にも浮かんできた。

 やはり違和感があるのは、

「遺書がなかった」

 ということであろうか。

 そもそも、自殺するのに、遺書などが必要なのだろうか? 自殺をするということは、この世に未練がない。あるいは、この世での居場所が感じられないなどという理由からではないだろうか。

 この世に未練も楽しみもないのであれば、この世に残すものもあろうはずはないと思う。自殺をしようとする人間の心理を考えたことがあまりなかったが、この自殺の記事を見ていて、自殺についての疑問もいくつかあるのに気が付いたのだ。

 今の遺書の話もそうであるが、どうして、靴を揃えて脱いで死ぬのだろう? もっともこれは自殺の方法が飛び降りや飛びこみなどに限定されるのではあるが。

 それをいろいろ考えてみると、自殺をする人の心境が分からない。

 遺書の内容とはいったいどんなものなのだろう? 変死事件があり、警察が赴き、自殺以外に考えられない場面に遭遇すると、捜査員は遺書があれば別に何も疑うことはないが、遺書がないと、

「本当に自殺なのだろうか?」

 と考えるらしい。

 それは一体どういう理屈からなのだろうか。この世に未練がなくて死ぬのだから、遺書を期待するのはおかしい気がする。それはあくまでも死んでいく人の気持ちというよりも、生きている、生きていく人間に対しての配慮という意味でしかない遺書ではないか。あまりにも死んでいった人の気持ちを考えていないと言えるのではないだろうか。

 内容だって、どういうものが遺書なのか分からない。本屋に行っても、

「自殺の際の遺書の書き方」

 などという本が売っているはずもない。

 どうやって、遺書を書けばいいというのだろう。

 遺言書のように、死期が迫っている人が、自分が死んだあとのことを書き残すことはあるが、それとはまったく主旨が違っている。遺書というのは、そもそもどういう理由で書くものなのか、坂崎は、

「これから死んでいく自分のこの世への恨みつらみを並び立てるだけのもの」

 という意識しかないのだが、果たしてどうなのだろう?

「先立つ不孝をお許しください」

 などとドラマなどでは遺書に書かれているものを読むシーンもあったりするが、

「許しを請うくらいなら、死ななければいい」

 と相手に思わせるだけの遺書というものに、何の意味があるというのだろう。

 その人に自殺をされて、まわりの人がどう思うか。それを死んでいく人間はそこまで考えるのであろうか?

 通夜や告別式などでは、少しでも自分に関わってくれた人の多くが来てくれて、涙を流してくれるだろうが、それは心の底からの涙なのか、それも不思議である。

「何も死ななくてもいいじゃない。まるで当てつけかこれみよがしのようだわ」

 と感じるのではないだろうか。

 親族などの肉親であれば、悲しんでくれるのだろうが、ひょっとすると、兄弟でも悲しいと思うよりも、

「余計なことをして」

 と思うかも知れない。

 家族といえども、それぞれに事情もあるだろう。家族の一人が自殺などという余計なことをしてと、順風満帆な家族であれば思うかも知れない。もちろん、家族の一人が自殺をしたのだから、ショックは隠しきれないだろうが、こんな思いになるのも、余計なことをしたからだという思いとは紙一重のところにあるのかも知れない。

 自殺というのも、最初からずっと自殺をしようとそのタイミングを計っていた場合もあるだろうし、衝動的に飛び込んでしまう人もいるだろう。遺書というものは後者ではまず考えられないが、考えられるとすれば前者である。しかし前者であっても、一度で自殺に思いきれるとは限らない。手首を切るのでも、いくつもの躊躇い傷を残している人もたくさんいる。

 結局手首を切ることで死にきれなかった人が、確実に死ぬためにはということで、飛び降りや飛び込みをすることになるのだろう。

 そういう例は結構多く、芸能週刊誌なのでよく芸能人の自殺について載っているが、手首で死にきれず、飛び降りをしたというのもいくつかあったような気がした。

 芸能人などは謝罪癖がついているからか、遺書はあるのかも知れない。いや、謝罪文を書きすぎて、遺書を書くだけの気力が残っていないとも考えられるだろう。そう思うと、まずます遺書の意義がどこにあるのか、疑問でしかなかった。

 自殺の原因にはいろいろ考えられるだろう。

 サラリーマンであれば、仕事がうまくいかない。会社で苛めに遭う。ギャンブルであったり、家族が病気などというさまざま理由での借金。死にたくなる理由もたくさんある。

 統計を取った人がいるのかどうなのかは分からないが、動機の種類と、自殺方法とには何か因果家系があるのあろうか。例えばストレスような精神的苦痛であれば、ビルからの飛び降りであったり、借金などを苦にしての自殺であれば、電車に飛び込むなど、自殺を考える人にだって、

「何が楽な死に方なのだろうか? 苦しまずに死にたい」

 という思いがあるはずである。

 死ぬ時に思うのは、

「楽に死にたい」

 という意識であろうか、それとも、

「自分が死んだら、残った家族は?」

 という思いであろうか。

 自分が死んだら、家族が残り、その残った家族に明訳がかかるというのを分かっていても死ぬという意識はどういったものなのだろうか。残る家族を心配するくらいなら、死ななければいいのにと思うのは、普通に考えて、本末転倒に感じるからであろう。

「死んだ気になればなんだってできる」

 と言って、死ぬことを思いとどまらせようとする人がいるが、死を意識するくらいの人は、そんなことは一番最初に考えるものだ。分かっていて死のうとするのだから、そんなありきたりのセリフで自殺を思いとどまるなど。ありえるわけはない。

「残った家族には、俺の生命保険が降りる」

 と言って、金銭的な負担はないと考えるのかも知れないが、そんなことはない。

 いくらの保健なのか分からないが、数千円であったとしても、借金があれば、借金の分でもっていかれる。

 借金がなくても、家族が今までのような何不自由のない暮らしが送れるわけもない。父親がいないということだけでもハンデなのに、自殺した父親の保険金で暮らしていかなければいけないというのは、結構精神的にやられるであろう。

 さらに学費なども併せたら、本当に保険金で賄えるのであろうか。難しい問題である。

 自殺を考えた人が、最後に自殺してしまうというのは、

「いろいろ考えたけど、結局最後は死ぬしかない」

 と思ったからである。

 人が説得しようとしたって、人がいう言葉くらいは、誰だって考える。死を意識していない人間に何を言われても説得力があるはずもない。それでも死を思いとどまったとすれば、やはり最初から死ぬつもりではなく、

「できることなら止めてほしい」

 と最初から思っていたから、死を思いとどまるのだ。

 だから、説得されて死ぬのをやめたわけではなく、

「止めてほしいと思っているところに、うまい具合に止めてくれた」

 というだけのことなのだ。

 それよりも、死を目の前にすると、少しでも楽に死のうと思うのではないだろうか。例えば飛び降りる時、

「コンクリートに直接落ちるよりも、植え込みに落ちた方が楽ではないか」

 と思うのではないだろうか。

 しかし、本当に死を意識しているのであれば、反対に確実に死ねる方を考えるはずだ。下手に中途半端なところに落ちてしまい、死ねなければ、そのまま植物人間になってしまうということを考えると、死にきれなかった時の方が恐ろしいはずである。

 自殺をするのに、薬や手首を切らず、ビルから飛び降りたり、列車に飛び込んだりするのは、一気に死ねる。即死であるということを望んでいるからである。

 手首を切ろうとしても、切り切れずに躊躇い傷が無数に残っている人、さらに睡眠薬を使って死にきれなければ、それこそ中毒になったり、目を覚ますことなく、死にきれずに眠り続けるなどという惨めな結果を招いてしまう。だから、確実な死を選ぶのであろう。

 死についていろいろを考えてみると、まるで自分がこのまま死んでしまうような錯覚に陥ってしまった。

「少し、頭を休めなければ」

 と坂崎が考えた。

 しかし、小説のネタを考えているだけで、これだけ死についてリアルに考えることができ、こんなにもアイデアというか、死に対しての気持ちが次々に閃くというのか、これは今の自分も死というものに正対しているからではないかと思えた。

「死を考えたことがない」

 などというとウソになるが、リアルで考えたことなど、本当にあっただろうか。

 自殺に理由があるのかということを考えていると、さっきまで考えていた。女子トイレの、

「いかなる理由」

 というところの理由という言葉が、文字にすると同じ言葉なのだが、意味を解釈しようとすると、まったく違っているものに感じられるから不思議であった。

 自殺をするのであれば、

「何か理由がなければ死んではいけない」

 ということになるのであろう。

 そうでなければ、死ぬ勇気もなければ、後に残す人たちがどうなるのかを考えなければいけないからだ、

 だが、その時自殺をする人にどのような理由があろうとも、死んでしまえば誰もその気持ちが分からない。だからその理由を遺書に込めるという意味でいけば、遺書の存在というのも分からなくもない。

 しかし、遺書を残したとしても、本当の気持ちはその人にしか分からない。しかも、遺書というものは、最後の言葉に集約されるかのように、

「先立つ不孝をお許しください」

 ということであれ、いかなる理由があろうとも、結局は、

「許してくれ」

 と言いたいだけのことである。

 本人にそんなつもりはないだけに厄介だ。確かに死ぬことは勇気のいることであり、死を選ぶしかなかった本人には辛いことであろう。だが、残された人を思うと、どうなのか、それが問題ではないだろうか……。

 っと、こんなことを考えていて、坂崎はふっと我に返った。

「俺は何をバカなことを考えているんだ。これから死んでいくんだから、残った人のことなんか考えているはずないだろう。考えたら死のうなんてしない。死を選ぶのは自分で勝手に死ぬだけだ。遺書なんて言い訳にしか過ぎない。許してほしいだって? ちゃんちゃらおかしいというものだ」

 と考えた。

 死ぬ人間は、しょせん死ぬことで一人になりたいんだ。それが一番の理由なんだ。

「一人になって楽になる」

 ただ、それを悪いことだと誰が言えよう。

 誰だって、一歩間違えればその人と同じ運命が待っているんだ。だからその人を責めることはできない。

 残された人は、なるほど気の毒だ。だが、なまじ生きていられても、死にたいと思っている人間は何度でも死のうとするかも知れない。もし死ねなかったとしても、一度死のうとしたのだから、何度でも繰り返すのではないかと、まわりは思うだろう。それだけでもいい加減なストレスである。それこそ、

「一思いに死んでくれた方がこっちも楽だ」

 と思うのではないだろうか。

 自殺をする理由? そんなものが自殺をする人に必要だというのだろうか。自殺してしまえば、そんなものはおろか、自分の存在はこの世からなくなってしまうのだ、もし理由がいるのだとすれば、残った人間のために言い残すというだけのことだ。

 だが、一人で勝手に死んでいった人のその人による理由など、残された人に必要だろうか。本人だけが抱えているストレスの場合は分からないのだろうが、それ以外の苛めや借金などは、だいたい他の人が認識していることなので、自殺の理由など想像がつく。そこに本人の意思が介在してしまうと、せっかくの形になっている理由が言い訳臭くなってしまい、自殺の理由が薄れてしまう。それなら、残しておく必要などないのだ。

 しょせん、死んでしまえば誰でも一緒、どんなに守銭奴のように金をため込んだ人であっても、あの世にお金は持っていけない。

「地獄の沙汰も金次第」

 と言われるが、

「ではあなたは、最初から地獄に行くつもりなんですか?」

 ということになるのだ。

 死ぬ勇気が出たのであれば、その勇気が萎んでしまう前に、一気に死んでしまう。それが自殺を成功させる唯一の道で、首尾よく死ぬことができれば、少なくとも本人の意思通りである。

 ただし、どこに行くのか、本当に言われているように、

「肉体は滅んでも魂は生き続ける」

 ということなのだろうか?

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