翻訳さん。すぴんおふ

南村知深

第1話 親友たちの放課後

 教室の窓際の席でぼんやりとグラウンドを眺めていた白川しらかわケイは、部活動で忙しなく動き回る一人の女子陸上部員を目で追っていた。

 ほっそりした体躯を目一杯使って躍動するその姿が、運動音痴なケイには眩しくて、思わず目を細めてしまった。

 放課後の教室にはケイの他に人はいない。開け放たれた入口の戸の向こう、廊下からも人の声は聞こえてこない。この教室が校舎の一番端にあるからだろう、前を通る人など誰もいないのだ。

 少し前までは親友リッちゃんと無駄話で盛り上がっていたところだが、彼女にができてからは放課後に一人で過ごすことが多くなった。

 だが、それが寂しいと思うことはあまりなかった。

 親友のことは応援しているし、彼女ができても親友という関係が変わらない、変えるような子ではないとケイにはわかっていたから。

 何より、この場所にいたい理由ができたことが一番大きかった。

 そうして、放課後になると一人でグラウンドを眺めることになったケイだが、案外この場所と時間の居心地がよく、気に入っていた。

 人で溢れる日中の騒がしい教室も嫌いではないが、こうして一人で静かに過ごす放課後の教室もわりといいものだと気がついたのだ。

 似合わないと言われるのがオチなので、誰かに共感を求めることはないが。


「…………」


 今日の部活が終了したのか、グラウンドではまだ明るいというのにサッカー部と軟式野球部が片付けを始めていた。運動部は全体的に周辺の高校の中でも特に弱小なので、本気で取り組む熱血部員がおらずあまりやる気がないのだろう。

 陸上部も例に漏れずさっさと引き上げ始めていて――唯一、ケイがじっと見つめていた部員だけは、まだフィールドで練習を続けていた。

 分厚いマットと、二本のポール。その間に架けられた縞模様の棒ストライプバー

 走り高跳びハイジャンプである。

 少し離れたところから軽やかに助走を始め、速度が乗ったところで大きく跳んで虚空に体を滑らせる。ポールに架けられたバーの上を彼女の背が越えていき、しかし踵がわずかに触れて、バーと一緒に彼女の体がマットに落ちた。

 マットの上で悔しそうに手足をバタバタさせ、ケイにも聞こえるほど「あー!」と声をあげて立ち上がり、バーをセットしなおした。

 そしてまた距離を取って走り、跳び、落ちたバーを架けなおす。

 それを何度も繰り返し、バーが落ちれば悔しがり、落ちなければ全身で歓喜する。

 ケイはただじっと、その様子を見守っていた。



 やがて辺りは薄暗くなり、グラウンドから人の気配が消えた。ケイが見つめていた陸上部員も器具を片付けて部室に引き上げたようだ。

 結局、跳び越えられた数よりバーを落とした数のほうが多かった。そのことを彼女はどう捉えているのだろう、とケイは考える。

 普段はそれほど物事に頓着しない、どちらかというとおっとりした感じの彼女だが、こと走り高跳びに関してはただならぬ情熱を注いでいた。

 だからこそ跳べなかったときは子供の癇癪のような声を上げるし、大会で緊張して普段の力を出せなかったときは悔しさで大泣きしていた。

 ケイは陸上のことはよくわからないので、技術的なアドバイスはできない。よくわからずに競技のことで口を出すのは無責任だと思っていた。

 だけど――として、軽口を叩いて励ますくらいのことはできる。


「急がなくてもいいのに……」


 呟いて小さく笑い、ケイはカバンからポーチを取り出した。

 静かな廊下に慌ただしい足音が響き、それが近づいてくる。


「ケイ、ごめん! 夢中になって遅くなった! というか明かりつけなよ……」


 戸口で廊下の照明を背負ったとうどうが呆れたように言って、ぱちんと照明スイッチを入れた。ぱっと教室に白い光が満ち、窓際の席でユキノを見つめているケイが浮かび上がる。


「お疲れ、ユキノ。今日も頑張ってたねー」

「ねー。熱血しちゃったよ」


 へへ、とだらしなく笑って、ユキノはケイの前の席に座る。


「ユキノ、前より跳べる回数が増えてるし、よくなってるんじゃない?」

「だといいけどね。試行錯誤の毎日だよ」

「それが結果につながってる。間違ってないってことだねー」

「ありがと、ケイ。それより待たせてごめんね。帰ろっか」

「待って。その格好で?」


 苦笑しながらケイが言う。

 部活が終わって急いでやってきたのか、ユキノは陸上部のジャージのままで、しかもミディアムボブの茶髪がハネ放題絡み放題のボサボサだった。控えめに言って、可愛くなかった。


「さすがに女子高生としてその格好で帰宅するのはどうなの?」

「だって、ケイを待たせてるから急がないとって……」

「待たされるより、髪の毛爆発したジャージ姿のユキノの隣を歩くほうがヤだ。それに、途中でパフェ食べて帰るんだよね? ジャージだと店ですごく浮くよー」

「うぅ……すぐ着替えます……」


 自然な笑顔に込められた圧に屈し、ユキノはカバンに乱暴に詰め込んだ制服を取り出し、着替え始めた。ブラウスとスカートがくしゃくしゃになっていてなんとも不格好だったが、ジャージよりはマシかとケイはため息をついた。


「…………」

「あの。ケイ?」

「ん?」

「そんなに着替えを見つめられると……恥ずかしいんだけど」

「あー、ごめんね」


 ユキノが綺麗だったから、つい。

 という言葉は飲み込んで、机に脱ぎ捨てられたジャージを畳み始める。

 実際、陸上で鍛えられたユキノは身長に見合う引き締まった体格をしており、出るところはそれなりに出て、引っ込むところはしっかり引っ込んでいる。運動不精でちょっぴりだらしないおなかを持つケイには、もう一人の親友リッちゃんと一緒に『ユキノを全裸にしてナイスボディを堪能する会』を開催したいと常日頃から考えていたりするくらいの憧れがあった。


「よし、着替え終わったし、今度こそ帰……」

「ユキノさんや……まだやることが残っておるじゃろう……」

「え? 急に歳とってどうしたの? やることって何?」

「ええい、やかましい! そんな爆発頭でパフェを食べる気か貴様! そこに直れ! あたしの愛刀『安物樹脂製櫛ひゃっきんブラシ』で貴様のボッサボサの髪を綺麗にかしてくれるわ!」

「あ。そうだったね。お願いします」

「…………。素で返すなよー。乗って来いよー。恥ずかしいじゃんよー」


 素直に椅子に座ってスタンバるユキノに、盛大にネタがスベって赤くなった顔を見られたくなくて、ケイは素早くユキノの後ろに回り込み、ポーチからブラシを取り出して髪を梳かしはじめた。

 土埃の中で運動して汗をかいたあととは思えないくらいに手触りが滑らかで、ブラシを通すと絡まり合った髪もするすると解けていく。細く柔らかい緩めの内巻きミディアムボブの髪を手に乗せると、上質な絹糸が水に流れていくように零れ落ちていった。この美しさの前では嫉妬を通り越えて感嘆のため息しか出なくなる。

 そんな芸術品をぞんざいに扱うのが嫌で、ケイは愛刀やすものブラシではなく美容院でオススメされた高級品を使うことにしていた。


何気なにげにユキノって髪質いいんだよねー。部活で炎天下にいることもあるのに、サラッサラで艶々してて。手入れとかあんまりしてないんだよね? いいなぁ……」

「そうかな。ケイの髪も十分綺麗じゃない」

「そりゃ、めっちゃケアしてるからだよー。手抜きしたらすぐバサバサになるし、髪を洗ったあとにしっかりドライヤーかけないと面前混一色メンホンに裏ドラ三つ乗るくらいハネるもん」


 ユキノとの違いに、ほう、と落ち込んだため息が漏れる。

 ちなみにユキノは麻雀を知らないので今のたとえがわかっていない。


「なんでユキノはこんなに髪が綺麗なんだろうねー」

「そんなの……」


 ことん、と頭を後ろに倒してケイの胸に預けて。


「いつもこうやってケイが一生懸命梳かしてくれるからでしょ」


 言って、ユキノは小さく笑った。

 その気持ちよさそうにとろけ切った表情にケイの心臓が跳ね上がる。


「…………。はいはい、お世辞はいいから。まっすぐ向いて」

「お世辞じゃないですー。本音ですー」


 ぶー垂れるユキノの頭をぐいっと両手で押し返し、ブラッシングを再開する。


(見られてないよね……?)


 自分でもはっきりわかるくらい紅潮した顔の熱や、うるさいくらい頭の中心に響く鼓動の音をユキノに悟られないように半歩だけ下がって距離をとり、ケイは『早く冷めろー』と心の中で念仏のように繰り返し唱えた。



 それからしばらく、取り留めのない話をしながら髪を梳かして。


「はい、これでオッケー。……どう? ユキノ」


 ポーチから手鏡を出して渡し、反応を窺う。

 いつも通りにしたので文句は出ないという自信はあったが、こればかりはそのときのユキノの気分に左右されるので楽観はしない。


「……まあ素敵。普段のわたくしからは想像できない素晴らしい仕上がりですわ。とても良いお仕事をなさいますのね」

「何その貴族の奥様マダムみたいなコメント?」

「ふふ、ケイの真似してみた」

「え。あたしってそんなイメージなの?」

「うん。『タイが曲がっていてよ』とか普通に言いそう。違うの?」

「違うよ! ネタでしかそんなことしないよ!」

「知ってる」

「貴様ーっ!」


 小芝居を挟みつつ鏡で自分の髪を確かめたユキノは、鏡越しのケイにウインクして見せて、椅子から立ち上がった。


「じゃ、帰ろっか、ケイ。……もう忘れてること、何もないよね?」

「うん。行こ」


 着替えたジャージをカバンに詰め込んで、ユキノはケイに確認した。

 それにうなずき、ケイもカバンを肩にかける。

 開け放っていた窓を閉めて二人同時に歩き出し、教室を出る寸前に明かりを消して。


「あ」


 薄暗い教室と廊下の照明の境界線に立ち止まったユキノが声をあげた。

 その後ろにいたケイが不思議そうに首を傾げる。


「どうしたの、ユキノ」

「忘れてること、あったよ」

「何?」

「ケイにお礼」


 振り向いて、ユキノはケイに抱き着いた。

 唐突な事態にケイの体が硬直する。


「ありがとね、いつも私の髪を綺麗にしてくれて」

「お、おぅ」


 抱き着かれ頭を撫でられて、ケイは弾みそうな気持ちを必死に抑えていた。

 これは友人としてのスキンシップだ。他意はない。

 そう言い聞かせて。


「私ね、好きなの」

「――⁉ な、なにが……?」


 何気ないユキノの一言で、ケイの中で何かに火がついた。

 違う、これはそういう意味じゃない、と必死に火消しに走る。

 ユキノにがないのは、ケイが一番よく知っているのだ。ここで炎上させるわけにはいかない。


「ケイがしてくれるとすごく丁寧で気持ちいいから、好き」

「ああ、それ……」


 勘違いで大火事になるところを寸前で鎮火できて、ケイはほっとした。加熱した真っ赤な頬も、廊下の明かりを背負ったユキノの陰に隠れて見えないはず。身長差があってよかったと心底思った。

 落ち着きを取り戻すと、ケイは冗談ぽく笑った。


「髪を梳かれるの、そんなに好きなの?」

「うん」

「そっか。そう言ってもらえるとやりがいがありますなー」

「ケイは優しくしてくれるから、特にね。美容師さんよりいいよ」

「よせやい、照れるぜ」

「誰の物真似よ、それ?」

「リッちゃんですが何か?」

「ぶふっ! 言いそうだけども……! ちょっと似てるけども……!」


 無駄に芝居がかった表情とセリフに、ユキノはケイを放しておなかを抱えて大笑いした。

 動揺を隠していつも通りの感じで返せた自分に国民栄誉賞を授与したいと心底思いながらを見つめ、その何気ないたった一言で弾け飛びそうなくらいに強く速く鼓動を刻み始めた心臓の音を聞かれたらどうしようと、ケイはヒヤヒヤしていた。

 無自覚なのか、わざとなのか。

 抱き着かれた状況で「好き」なんて言われて、勘違いしない人がいるだろうか。勘違いされたらどうするんだ。

 本当にこの子は何度も何度も、人の気も知らないで……とケイは少し不機嫌になる。


「ユキノ、笑ってないで早く行こうよー。パフェ食べにー」

「うん、そうだね。今日は特に綺麗に髪を梳かしてくれたから、私が奢っちゃうよ」

「よし、じゃあ『超盛りメガトンチョコパフェ』に挑戦するかぁ」

「やめて⁉ お残ししたら罰金一万円のアレでしょ⁉ 私のお財布が死んじゃう!」

「食べきれば問題ないよ?」

「あなた小食な上にダイエット中でしたよね? 失敗確定ですよね?」

「ははは。心配性だなー。……ところでこんな名言を知っているかね、ユキノ殿」

「……?」

「とある貴婦人は言いました。『現金がなければカードを使えばいいじゃない』と」

「そんな財政破綻まっしぐらな名言があってたまるかぁ!」


 誰もいない静かな廊下に、ユキノのツッコミがこだまする。

 ケイは楽しそうに笑い――もう一人の親友リッちゃんみたいにはできそうにないなぁ、としみじみ思いながら、ユキノと連れ立って教室をあとにしたのだった。





       第一話  終

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